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さようなら、愛してる

 肉も骨も全て溶かしつくしてしまう、特濃の酸が入った巨大なガラス瓶。


 ピオ・コンティ、と書かれたラベルが張られたその瓶の前に、一人の少女が立っていた。


 黒く光沢のある髪を三つ編みにし、立派な法衣を身にまとった彼女の視線の先には、瓶の中で溶けては再生し、焼かれては回復を繰り返す肉塊――かつての弟子の姿があった。


 静寂が支配する部屋。法衣の肉も骨も全て溶かしつくしてしまう、特濃の酸が入った巨大なガラス瓶。


 ピオ・コンティ、と書かれたラベルが張られたその瓶の前に、一人の少女が立っていた。


 黒く光沢のある髪を三つ編みにし、立派な法衣を身にまとった彼女の視線の先には、瓶の中で溶けては再生し、焼かれては回復を繰り返す肉塊――かつての弟子の姿があった。


 静寂が支配する部屋。法衣の(すそ)が床に触れるかすかな音すら、吸い込まれるように消えていく。

 そんな静けさの中、瓶のガラスの曲面に映る彼女の顔は、ひどく歪んでいた。


 どれだけの時間、そうして眺めていたのだろう。遠くから規則正しい足音が近づいてくる。重々しいその音に、少女はゆっくりと振り返った。そこには、重武装した兵士たちが剣を掲げて整然と並び、歴戦の親衛隊隊長が格式ばった敬礼していた。


「フィア司祭!親衛隊20名、ただいま着任いたしました!」


 フィアの背丈は、隊長の半分ほどしかない。そんな彼女に対し、大人の兵士たちが厳格な礼を示す光景は、はたから見ればどこか滑稽(こっけい)に見える。


 しかし、彼らはよく知っている。彼女がただの少女ではないことを。黒い法衣の下に隠された、その圧倒的な力を。

 人類の守護者であり、亜人種の浄化者である『司祭』――フィアは、自分たちのような普通の人間では耐えられない苦痛と修行を、幼くして乗り越えた上位存在だ。彼女はこの場の誰よりも強者であり、敬意を払うにふさわしい存在なのだと。


 武装した兵士たちが畏怖の念がこもった敬礼をする中、上位者であるフィアは(ひか)えめな笑顔を浮かべて、外見年齢相応の幼さの残る明るい声で声をかけた。


「わざわざ辺境の地まで、長旅お疲れ様です。辺鄙(へんぴ)な場所ですが、ここにはなんと……湯船につかれる大浴場があります。お湯は沸かしてあるので、順に入って疲れを流してくださいね」


「はっ!お気遣いいただき、ありがとうございます!」


 庶民にとっては(たま)の贅沢である浴槽(よくそう)付きの風呂場。それを使用してよいというありがたいお言葉に、兵士たちは喜びの声を上げる。そんな彼らに対して、(いか)めしい表情を崩さぬまま、隊長はてきぱきと各々の持ち場について指示を出していく。


 フィアが再び瓶に向き直ると、指示を出し終えた隊長が彼女に声をかけてきた。


「この方が……最重要監視対象、でよろしいですかな?」


 酸の中で泡に包まれながら、溶解と再生を繰り返す肉塊。そんなグロテスクな肉塊を眉一つ動かさずに眺めるフィアの酷薄(こくはく)な無表情に、彼は恐怖を感じながらも、なんとか平静を装った。


「ええ、そうです……あら、古強者(ふるつわもの)であっても、異端司祭は恐いですか?恐怖の色が出ていますよ」


「……いえ、その……これは……」


 隠していた恐怖を見透かされ、とっさのいい訳すら出てこず狼狽(うろた)えてしまう。

 そんな彼に対して、フィアは相変わらずの控えめな笑顔で語りかけた。


「ふふ、私の目は特別で、人の感情を見て取れるのですよ。心配はいりません。さすがに司祭と言えど、酸の中で拘束されていれば、肉体の再生で手一杯で、暴れることなんてできませんから」


 フィアの瞳が紫色に輝いた。自分が恐れられているとは夢にも思わず、瓶の中の異端司祭を恐れているのだと思い込んでいた。彼女の誤解を幸いとばかりに、隊長は話をそらすことにした。


「はは……フィア司祭にはかないませんな。話には聞いていましたが、それが司祭様が使う魔物の力、というやつでしょうか?」


 司祭は圧倒的な身体能力、不老不死、不滅の回復力を持った存在だが、それだけが力の源泉ではない。魔物の細胞や器官を移植し、その魔物が元々持っていた力を、自由に操ることができるのだ。


「ええ。この目は……とある亜人からえぐり取ったものですし、私の声帯はハーピーから移植した物です。眠れない夜は、子守唄でも歌ってあげましょうか?ハーピーの歌は眠気を誘いますから」


 フィアが冗談を言うと、隊長の中の恐怖心は幾分かマシになった。彼女が自分に対しては冷酷な表情を見せないことに安心した。


「あっはっは。いざと言う時は、お願いしますかな。ところでフィア司祭、こちらの……ピオ殿は何か、魔物の力をお持ちなのですか?脱走に備え、知っておきたいのですが」


「そうですね、彼に移植されているのは、何か特別な能力が付くようなものではありません。ベヒーモスの筋肉の移植だけですね。もっとも、その怪力は(すさ)まじいものです。あとは、他の司祭もしているような、頭蓋骨をオリハルコン製の物へ変えるくらいですね。これは魔物の細胞の移植にはあたりませんが」


「ベヒーモス!?あの神話の魔物が!?」


「ええ。海を飲み干し、山をも食らいつくすと(うた)われた、あのベヒーモスです。討伐に成功したのは200年前のことですが、その肉体の一部は、未だに純血教会の宝物庫に保管されているのですよ。彼は、貴重な適合者です」


「なるほど、そのような貴重な人材だからこそ、処刑するのではなく、こうして……」


「ええ、苦痛を与えて、反省してもらおうと。何より大切な弟子ですから、できれば殺したくはありません。ただ一言、『僕が間違えていました、あんなヒトモドキを娘だと言ってごめんなさい』と、言ってくれれば、それでいいのですけど……はぁ。普段は流されやすいのに、変なところで強情になるんですから……」


 困ったようにため息をついて瓶眺めるフィアは、彼女もまた悩める普通の人間のだと、隊長には感じられた。


「なるほど……ちなみに、フィア司祭は目と声帯と、2か所を改造されているのですな」


「ああ、実はもう一か所、ハーピーの声帯に、魔族の魔眼、その他に、武器の鉄線を作るために、手のひらに鋼糸蜘蛛の糸疣《しゆう》を移植しています。ふふ、私の魔物の力は、これですべてです。私が襲ってきても、対処できますね?」


 司祭の戦闘力は、武装した通常の兵士千人分とも言われている。そんな存在からの無茶ぶりめいた冗談に、隊長は頬をひきつらせた。


「ははは……御冗談を……ところで、ピオ殿はベヒーモスの筋肉だけで、フィア司祭は3種類も移植されているのですな」


「普通は、1種類にとどめるものなのですよ。移植する魔物の細胞の種類を増やせば増やすほど、あるいは移植する細胞数が増えれば増えるほど、免疫がけんかをして再生力が落ちますから。私の場合は、教導に便利なので、多めに移植しています」


「そうなのですな。いやはや、司祭様は、我々凡庸な人間とは違い、素晴らしい能力をお持ちですな」


「そう卑屈になる必要はありません。司祭には、人間の最も優れた能力、子を産み育て、繋ぎ継ぐ力が、繁殖力がないのですから……おっと、話しすぎましたね。そろそろ大浴場も空いてきたことでしょう。汗を流してきてはどうですか?」


「おおっと、いやはや、こちらこそ、貴重なお時間を小官のために、申し訳ございません。お言葉に甘え、風呂で温まらせていただきます。それでは、失礼します」


 司祭は皆、第二次性徴前の幼い姿をしている。フィアも9歳の時に司祭になったため、外見は一桁年齢の少女そのものだ。そんな姿で繁殖力などと口にするものだから、隊長は微妙な表情をするしかない。フィアの入浴を勧める言葉は、渡りに船だった。


 上位者との緊張感ある会話から解放され、風呂に入ることを楽しみにしていた隊長は、部屋を出る直前、聞いてしまった。ガラス瓶の肉塊に向かって微笑む彼女の、ある呟きを。明るい声とは裏腹に、寒気がするような冷たい(ささや)きを。


「『殺しなさい……ピオ、その娘を殺しなさい……(くび)り殺すんです……』」


 その瞬間、彼は全身が凍りつくような感覚に襲われた。

 部下たちから「鬼隊長」と恐れられている彼は、まるで子供のように恐怖した。

 しかし、そこは歴戦の親衛隊隊長。何も聞こえなかったかのように振る舞い、失礼にならない範囲の最大限の速足で、その場を速やかに離れたのだった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 雨の降る夜の大通り。まばらな人影を避けながら、僕は娘の手を引きながら走っていた。肌を伝う雨の寒さに追い立てられるように。


 獣人やエルフにドワーフ、それに魔族や混血、果ては僕のような異端司祭まで、全ての種族を受け入れる自由都市ソダリタス。

 その都市へと入るための協力者、トートという異端司祭との合流地点の船着き場まで、あと少しだった。


 純血教会からの追手に怯えて、街から街へ転々とする日々。その日暮らしの貧しい生活に、娘が魔族だとばれないか、周囲の視線に胃を痛める毎日。

 そんな日常を8年間も続けてきた。だけど、それもようやく終わりだ。娘に、恐怖や監視とは無縁の、まともな生活をさせてあげられる。


 目の前にぶら下がった希望に、僕の心は浮足立っていた。


 あと少しで目的地――と思った矢先、手を強く引かれた。


「シャーリア?」


 振り返ると、僕と同じ視線の高さにある紫色の瞳と目が合った。10歳で成長が止まった僕に、身長で追いつきつつある娘のシャーリアと。


「やっぱり……やっぱり、この手紙は、直接渡したい。キーちゃんに会って、ちゃんとお別れを言いたい」


 僕と握ったのと反対の手に持った封筒を、大切そうに抱きしめるシャーリアを見て、僕は歯噛みした。


 キーちゃん。新しくできたこの友達のことを、シャーリアはよく話していた。

 貧しい彼女が富裕層の子供にいじめられていたところを、シャーリアが助けたことが出会いの切っ掛けらしい。

 僕はこんな環境でも正義感を持った子に育ってくれたことを誇らしく思いつつ、シャーリアが友人に自分の秘密、隠している魔族の角をばらしてしまうのではないかと、冷や冷やしていた。


 ……状況が状況だ。僕は首を横に振った。


「船着き場の近くのポストに入れればいいでしょ?そのために切手まで買ったんだし……」


 そう言って、僕はもう一度手を引こうとしたが、シャーリアはその手を拒むように後ずさった。


「やだ、ポストなんかじゃダメ!キーちゃんは初めてできた友達なの……最後に、ちゃんと自分の手で渡したいの……!」


 護身術の心得や走り方のコツ。

 自分がいなくなった後、気弱な友人がいじめられることがないように。

 自分の身を守れるようにと書いた手紙を、シャーリアは大切そうに胸元へ抱いていた。


 僕はため息をつき、しばらく彼女を見つめたが、結局折れるしかなかった。

 まだ約束の時間まで余裕がある。それに、まともな友達付き合いをさせてやれなかった負い目もあった。


「……わかったよ。でも、手短にね。あまり時間はないんだから」


 シャーリアは嬉しそうに小さくうなずき、また僕の手を握り直した。今度は彼女が僕の前を駆けていく。

 狭い道を抜け、塀を飛び越えていく。元司祭と混血魔族であれば、これくらいの近道はお手の物だった。心配することと言えば、ジャンプした拍子に、シャーリアの角を隠すフードが外れないか、それくらいだ。


 しかし、しばらく進んだところで、不意に肌に嫌な冷気が走った。雨の湿った臭いに混じって、異様な匂いが(ただよ)ってきたからだ。

 昔一度だけ嗅いだことのある異臭。記憶の奥底を刺激する、生理的に受け付けない嫌な臭い。


「何だ、これ……」


「どうしたの?早くいこ?」


「……ちょっと待ってて」


 シャーリアに物陰で隠れているように指示して、異臭のする方へ足を進める。

 薄暗い路地の奥、誰かがうずくまっている影が見えた。近づいて見ると、それは首を落とされた全裸の男の遺体だった。

 腕や足に薄っすらと鱗の生えた遺体。獣人の混血だったのか、僕たち親子のように素性を隠して生きてきたであろう男性が、殺されていた。


 眩暈(めまい)がしてふらふらと後ずさると、何かが足に当たった。

 生首だ。それも、目が……ない。瞳が抉り出され、空洞になった眼窩がんかから、血の涙を流している。近くには光を反射する細い糸が、数本散らばっていた。


――この殺し方……それにこの糸……間違いない。あの人が、先生が、フィア先生がいる。早く、早く逃げなきゃ。


 急いでシャーリアの元へ戻ると、僕は元来た道を引き返そうと彼女の手を再び取った。


「お父さん、何があったの?なんだか、顔色が悪いけど……」


 僕は自分の頬をこすって無理やり笑顔を作った。


「な、何でもないよ。シャーリアには関係のないことだから。それよりも、やっぱり、直接会うのは危険だよ。早く元の道を戻らないと……」


 そう提案すると、シャーリアの瞳が驚きと不安で揺れたのが見えた。


「ちょっと待ってよ!ちゃんと説明して!さっきは良いって……」


「今はそんなことしてる場合じゃないんだよ!」


 聞き分けてくれないシャーリアに苛立ってしまい、思わず大声を出してしまった。直後、僕は自分の感情任せの行動を後悔した。


「そんなこと……?キーちゃんにお別れを言うのが、そんなこと……?」


「違うんだ、シャーリア、そうじゃなくて……」


 シャーリアの声が、にじみ出た涙と怒りで(かす)れたものに変わっていた。僕は彼女の手を握りしめようとしたが、振りほどかれてしまう。


「お父さんの馬鹿!大っ嫌い!」


「シャーリア、待って!」


 その言葉は、まるで刃物のように僕の心を刺した。その言葉の痛みにひるんでいる間に、彼女は僕から手を引きちぎるようにして逃げ出し、雨の中を駆け出していってしまった。


 僕はシャーリアの後を追って、路地を駆け抜けた。彼女の小さな影が雨に濡れた石畳の上を走り抜け、遠ざかっていくのを見て、焦りがこみ上げる。


 シャーリアの気配は、空き家が並ぶ路地裏の奥で止まった。聞いていた話では、キーちゃんの家はまだ先だったはず……


 胸騒ぎをしつつ、角を曲がって路地裏に入る。その瞬間、視界に飛び込んできた光景に、凍りついた。


 シャーリアは誰かに首を絞められ、ぐったりと垂れている。その上で馬乗りになっていたのは……


「久しぶりですね、ピオ」


「フィア先生……!」


 先生は立ち上がって僕の方を向くと、力なく横たわっているシャーリアを蹴飛ばしてきた。

 小さい体が宙を舞い、僕の方へと飛んできた。


「きゃあ!」


「シャーリア!」


 痛みで意識を取り戻したのか、悲鳴が聞こえた。なるべく衝撃を消すように、シャーリアを抱きとめる。


「おとう…さん…」


「大丈夫…シャーリア、大丈夫だから…」


 今の状況では、僕がシャーリアにしてあげることは、手を握って励ますこと、それが精いっぱいだった。


 すぐにでもフィア先生から、逃げ出さなきゃ。


「心配はいりません。角付きの亜人は頑丈ですから」


「だからと言って、こんな……!」


 自分の行動に少しも罪悪感を感じていない様子の先生を(にら)みつける……と、その姿に違和感を覚えた。


 そうだ、目だ。先生の目の色は、以前は髪色と同じ黒だった。それが今は、紫色になっている。見覚えのある、紫色に。


「ふふ、気が付きましたか?あなたは昔から、観察力がありましたからね。私が髪を切ると、一番最初に気が付くのはあなたでした」


 深く、鮮やかな、宝玉のような紫色。僕にとってなじみ深い、紫色の瞳。


「それは、もしかして……」


「ええ、あの時の亜人……あなたが娘だと呼んでいるそこの亜人の、母親の瞳です。あの後、あまりにもきれいだから抜き取ったのですが…ふふ、調べてみると、人の感情が色づいて見える、魔眼でしたよ。掘り出し物だと思って、移植したんです。どうですか、似合っているでしょう?」


 ウインクをして見せるフィア先生を、僕は苦々しい思いで見た。


 前にシャーリアから、危険な人は見ればわかる、なんて話をされたことがあるし、実際にそのおかげでピンチを切り抜けたこともある。その時はただ、人を見る目があるんだと思っていたけど、もしかすると、彼女も母親と似た力を持っていたのかもしれない。


「おま……え……が……おま、えが……お母さんを……お母さんを……‼」


「シャーリア、安静に……」


「許さない……許さない!!殺してやる!殺してや……ごほっ……う、うぅ……」


「あらあら、随分と威勢がいいことですね。ここまでの殺意の色、滅多にお目にかかれません。ふふ、せっかく親の仇が目の前にいるのですから、立ち上がって、殴り掛かったらどうですか?」


「シャーリア、だめだ、だめだよ!落ち着いて、安静に……フィア先生!いったい何が目的ですか!」


 痛めた体を無理やり引き起こそうとするシャーリアを押しとどめながら、わざとらしく挑発する先生に問いかける。


 フィア先生は肩をすくめて笑った。


「何をいまさら、分かっているでしょう?あなたがちゃんと自分の仕事を終わらせることができるように、手伝いに来てあげたんですよ。さあ、ピオ。『殺しなさい、殺すんです。あなたが娘だなんて馬鹿げた誤解している、そのヒトモドキを、自分の手で、殺すんです』」


 先生の声に魔力が混じる。かつては逆らえなかったその力を、今度は明確に拒絶した。


「もう、従いませんよ、フィア先生。僕がシャーリアを殺すことは、絶対にない」


「むう……想定はしていましたが、やはり無理ですか。呪いを解くには、やはり時間をかけて暗示を……」


 よくわからないことを呟くフィア先生を警戒しつつ、僕は必死で頭を働かせる。


 一緒に逃げるのは難しい。体を痛めたシャーリアは早く走れないだろうし、僕が抱いたところで、自分と同じ身長体重を抱えたままでは、フィア先生から逃げられるほど速く走れない。


 フィア先生をこの場で倒す?単純な力比べなら僕の方が勝てるだろうけど……戦闘経験の差が大きすぎる。それにシャーリアを巻き込んでしまう。


 そうだ、この辺の建物は空き家だし、身体能力に任せて破壊して、土煙で誤魔化せば……でも、この場では逃げられたとしても、その後が続かない。騒ぎが大きくなればこの街の衛兵も出てくるだろうし、そうなったら街からの脱出は不可能になる。


 必死に作戦を考えながら周囲を見回していると、シャーリアの視線が一点に注がれていることに気が付いた。

 彼女が大切にここまで持ってきた、手紙が入った封筒だ。フィア先生の足元に落ちている。


「おて……がみ……キーちゃんに……」


 こんな状況でも友達のことを考えているシャーリアに、僕は胸が締め付けられるような思いがした。


 僕たちの視線に気が付いたのか、フィア先生は濡れた地面に落ちていた封筒を拾い上げ、にじんだ宛名を指でなぞった。


「……おや、この住所、もしかして……」


 フィア先生が手紙の封を切った瞬間、シャーリアが必死に叫んだ。


「やめて……返して、お願い!」


 痛みで体を引きずるようにしながら、シャーリアが手を伸ばすが、フィア先生は楽しむように微笑むだけだ。封筒を開けて手紙をゆっくりと広げると、唇の端をゆがめて笑い声を漏らした。


「ふふ……これは、面白いものを見せてもらいました。友達、ですか」


「返して……!返してよ……!それはキーちゃんの……!」


「あなたが“キーちゃん”と呼ぶその子が、角の生えた亜人がいると教えてくれたのですよ」


「え……?そんな……嘘……だって……二人だけの秘密って……キーちゃんは、私に……悪意を持って、なかった……」


 僕が危惧していた通り、シャーリアは自分の正体を、友達に教えてしまったらしい。でも今は、そのことを注意する気にはなれなかった。

 雨に混じって頬を伝う涙、裏切りを信じられない、信じたくないという、彼女の呆けた表情を見ると、僕は何も言えなかった。


「あら、ふふ。クッキー三枚分で買収できてしまうような、随分と安い秘密でしたね」


「友達だと……思ってたのに……大好きって……」


「おや、先ほどまでの殺意はどうしました?悲嘆、それとも絶望でしょうか?ふふ、人と、ヒトモドキが友達になれる訳ないのに、そんな常識も知らないなんて。育て方が悪いんじゃないですか?ねえ、ピオ」


 フィア先生は言葉で獲物をいたぶることに満足したのか、笑いながら手紙を放り捨てた。そして次の瞬間には手のひらから生み出した鋼糸で、ひらひらと舞う手紙を細切れにしてしまった。シャーリアは大切にしていた手紙が破かれても、呆然としているだけだった。


 ――何かが光ったと思ったら、次の瞬間にはばらばら……やっぱり僕の実力じゃ、フィア先生に勝てない……


 僕は唇をかみしめながら、覚悟を決めた。


「シャーリア!しっかりして!」


「お父さん……私……」


 肩をゆすって呼び掛けても、シャーリアは心ここにあらず、といった様子で、現実を受け入れられないように、ボーっとしていた。


「シャーリア、立って、立つんだよ。今は考える余裕なんてない。いい、自分の足で立って、この場から離れて……船着き場まで走るんだ」


「お父さんも、一緒に……」


「……僕は、一緒に行けない。一人で、走るんだ」


 後で追いつくから、先に行って。

 僕はその言葉を飲み込んだ。もしも仮にシャーリアが無事に船着き場にたどり着いたとしても、僕を待って出発が遅れてしまったら、協力者に見放されてしまったら、意味がない。僕を待たずに出発させる、今この場でそう説得するしかない。


 しかし、シャーリアはかすかに首を振り、泣きながら僕の腕を掴んだ。


「嫌だよ……お父さんまでいなくなったら、私……私ひとりでなんて、絶対無理だよ……」


 その言葉に、胸の奥が(きし)んだ。それでも僕は迷わず、その小さな手を振りほどく。


「今すぐ行くんだ、シャーリア」


「いや……いやだよ、お父さん!」


 シャーリアは声を振り絞り、僕にしがみついてくる。振り払おうとすると必死で(すが)りつき、抱き着くように力を込めてしがみついた。


「わがままを言わないで……!」


「私にはもう、お父さんしかいないの!お父さんと離れるくらいなら……なら、私は……私は死ぬ……死んでやる!」


 パン!


 その瞬間、僕は無意識に手を上げ、彼女の頬に強く平手打ちをしていた。打たれた衝撃で、シャーリアの体が小さく揺れる。


 まるで溶岩に触ったかと思うほど、娘の頬を張った手のひらはジンジンと熱く、雨が染みるようにひりひりと痛んだ。


――やってしまった。


 心の中で呟いた瞬間、後悔が押し寄せてきた。何があっても守ると決めた娘に、手を挙げてしまったなんて。必要なことだった、彼女を生かすためだ――そう自分に言い聞かせても、罪悪感は喉にひっかかり、息苦しくさえ感じる。


 シャーリアは怯えたように僕を見つめる。困惑、失望、そんな感情に揺れ動く紫色の瞳が、輝いているのが分かった。彼女の瞳は今、僕の心を見透かそうとしているのかもしれない。


 だとしたら、このままでいいのだろうか?

 僕がシャーリアに見せてあげられる、伝えてあげられる思いが、聞き分けてくれないことへの苛立ち、手を挙げたことの後悔、そんな負の感情でよいのだろうか。


――これが最後かもしれない。それなら……


 僕はシャーリアを抱きしめ返す。僕と同じ背丈の彼女が、大きくなったと思った娘が、今はとても小さく感じた。


「シャーリア……愛しているよ。だから、死ぬなんて、そんなこと言わないで。絶対に、生きていてほしいんだ。絶対にだ。何があっても、生き続けて……」


 彼女の両肩を強く抱きしめ、その体を立たせると、僕はその背中に手をかけて無理やり彼女を押し出した。


「お父さん……」


「走るんだ、シャーリア!強く、僕がいなくても、強く生きて!」


 ぐずるような問いかけも、何度も止まりかける足音も、気が付かないふりをして。僕はシャーリアに背を向けて、フィア先生と対面する。


 振り返ると、フィア先生は鋼糸を地面に垂らし、僕を静かに見ていた。まるでこのやり取りが終わるのを、初めから待っていたように。


「……なぜ待ってくれたんですか?」


 フィア先生は控えめな笑みを浮かべ、指を複雑に絡ませた。瞬時に僕の周囲に無数の糸が張り巡らされる。


「私の目的は、あなたの手で、あの亜人を殺させることです。偶然に巻き込まれて死なれては困ります。それに……あれに気を使って、全力を出せないあなたを叩きのめしても、つまらないでしょう?」


 その言葉が終わるやいなや、フィア先生が指を動かすと、僕の耳たぶが千切れ飛んだ。


 僕は痛みに顔を歪ませながらも、懐の短剣を引き抜いて先生へと切りかかる。力ずくで鋼糸を切り裂きながら、前に向けて突進した。


 先生はいつもの笑顔を崩さないまま、指を躍らせる。踏み出した足が糸にすくわれてバランスを崩し、こけた拍子に腕を絡めとられる。


「くっ……」


「『止まりなさい。暴れないで』」


 魔性の声が脳を侵し、全身が鉛のように重くなる。

 シャーリアが絡む命令は意志の力で抵抗できる。でも、今回のように単純な命令に抗うのは、難しかった。


――ああ、やっぱり、フィア先生には勝てないなぁ。


 骨の隙間を()って、指が切り落とされた。ふくらはぎの肉がそぎ落とされる。


――でも、シャーリアが無事に離れるまでは、絶対に倒れられない。


 シャーリアに大嫌いと言われたこと、そして手を挙げてしまったこと、後悔はたくさんあるけど。

 それでも僕は、自分にできる最善を。時間稼ぎを果たすために、声に(あらが)いながら、鋼糸を引きちぎって前に足を踏み出した。

糸疣しゆう クモが糸を作る部位


鋼糸蜘蛛 鋼鉄の糸を吐く魔物 網で獲物を捕らえるのではなく、糸で獲物をバラバラにする


ハーピー 催眠効果のある声を出す魔物


ベヒーモス かつて存在した強大な魔物。古くから神話として語り継がれてきた存在だったが、200年前に純血教会が総力を挙げて討伐した。

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