8 御所の調査
朝、楓が飛燕に衣服を整えてもらっていた所へ利憲がやって来た。
「今夜、御所の調査に行くぞ」
「一緒に行って良いのですか?」
「ああ。お前も連れて入る許可は得ている」
左近の少将が帰った後、楓は利憲から内裏で起こっている怪異について聞かされていた。
火の玉、獣の妖、そして女御の病。
それらの原因を探るよう依頼されたと利憲は語り、楓はようやく自分の本来の目的に向けて動き出せる事にほっとしていた。
桜子に会いたい。御簾越しでもいい。ほんの少しでも。病はぐずぐずと彼女を苦しめているという。もともとすぐに倒れてしまうのに、本当に大丈夫なのだろうか。
楓の葉のまじないは、身体の弱い桜子が調子を崩す度に彼女を救った。でも、もしかしたら今回は効果がないかもしれない事も気にかかる。得体の知れない怪異が原因であるならば、自分のまじないなど気休めに過ぎないに違いない。
楓は隣に立つ背の高い陰陽師をちらりと見上げて、式神を操る彼ならば妹を救ってくれるのではないかと期待する。
「本当に呪詛が女御様の病の原因だと思いますか?」
ためしに尋ねてみた。
利憲は唇の端にかすかに笑みを浮かべる。
「虎の妖が出たという。滝口の武者がそれに襲われ怪我を負った。実体を持つ妖とは奇なり。おそらくは式神を操る者の仕業だ」
「式神? 陰陽師が関わっているということですか?」
「私の管理下にない陰陽師、もしくは方術を身につけた者か。狙われているのが弘徽殿の女御かどうかは、調べてみないとわからない。寮から帰ったら準備をしておくのだぞ」
「はい」
その夜、式神の引く静かな牛車に乗り二人は御所に向かった。
夜闇の中、大内裏の中は篝火が焚かれ、その周囲に衛士の姿が見える。昼間とはまた違うどこか不穏な空気を感じながら、楓は牛車を降りて歩く利憲の後ろをついて歩いた。
内裏へと続く門まで来ると、宿直の役人が開けてくれる。中へ入ると役人の後ろに左近の少将斉彬が立って待っていた。
「私も今夜は宿直だ」
「案内役か」
「そうだ。陰陽生の弟子も一緒に?」
「なにか『視える』やもしれぬからな」
「ほう」
斉彬は楓を振り返るとにこりと笑った。
「ずいぶんと期待されているようだね。よろしく頼むよ」
「え……、あ、はい」
褒められることには慣れていない。
頬を染めてうつむく楓に視線を送ってから、利憲は斉彬を冷ややかな目でみる。
「人たらしとはお前のような者を言うのだな」
「妬くな、ただの処世術だよ。有能な人材はきちんと押さえておく主義なのだ。お前も含めてね」
「人を道具のように言うのだな」
「大切な友だよ」
「困った時に役に立つ?」
「おやおや、どうしてそんなにひねくれてしまったのだろう。互いに背を預けられるほどに信頼できる相手はそう多くないのに。私とお前の仲だろう」
「女を口説くように言うな、気色悪い」
気やすいやりとりに楓が目を丸くする。
常に人を寄せつけない空気を纏う利憲に、ここまで懐に入る会話をしている相手は寮でも見た事がない。
「……仲が良いのですね」
楓はぽかんとした表情でつぶやいた。
それを聞いた二人は一瞬楓を見て止まり、それから斉彬はくすくすと笑う。利憲はむすっとして斉彬から顔を背けた。
「陰陽頭とは昔からの親友なんだ」
「こいつとは幼い頃からの腐れ縁で、今でもちょくちょく屋敷に訪ねて来る変わり者だ」
変わっているのは利憲の方だと思うのだが。まあ、確かに人間嫌いのこの陰陽師に親しく話しかけて来るとは、斉彬も変わり者には違いあるまい。
「さて、君達を案内しよう。まずはどこから行こうか」
まるで物見遊山の案内役のような口振りで言う。
利憲は少し考えて、それから斉彬に尋ねた。
「妖が出る場所は決まっているのか?」
「いや」
「では、弘徽殿へ。女御の病を先に祓う」
楓の胸がどきりと高鳴った。
「楓、病を治すあてがあると言っていたな」
「……はい」
利憲の問いかけに、楓の葉を忍ばせた懐を押さえて答える。
その仕草を見た斉彬が首を傾げた。
「病魔避けの霊符でも書いてきたのかい?」
霊符を書くには数日前より潔斎して身を清める必要がある。道具や供物もそろえなければならず、その複雑な作法も気のそそぎ方もまだ習っていない。楓はとんでもない、と首を横に振った。
「霊符ではありません。僕が以前からやっていた簡単なまじないです。妖が原因なら効果があるかどうかわかりませんが……」
「病の妖をよせつけなかった力だ。試してみる価値はある」
さらりとした返答だが、利憲の言葉は不思議と優しい。
勇気づけられた楓は、はい、と顔を上げて返事をする。
斉彬が感心したように『ほう』と呟き、弘徽殿はこちらだ、と言って歩き始めた。
隣を歩く利憲の色の薄い瞳が、篝火を映して赤く光って見える。その端麗な横顔を見ながら、楓はふと疑問に思う。
(なぜあの時、この人は私を信じてくれたのだろう)
利憲は基本的に人嫌いと言って良い。陰陽頭という役職についているため寮では周囲を人に囲まれているが、有能すぎる上司に下の者達はどこか踏み込めない空気を感じているようだ。彼自身、あまり他者の能力をあてにする必要のないせいか、誰も信じてはいないように見える。中納言邸で出会った時、桜子を助けられるかも、といった自分の言葉を安易に信じるようには思えない。
式神を従えて蟷螂の妖を祓ったあの鮮やかな手腕を見れば、楓の手伝いなど必要ないのではないだろうか。かえって足手まといに違いないだろうに。
単純にみすぼらしい姿をしていた自分を憐れに思ってくれたのか。
見捨てられていた自分を拾い上げ、屋敷に置いてくれているのも感謝しかない。桜子を助けたいという自分の背中を押してくれる優しさに、胸がいっぱいになる。
楓は桜子の為以外にも、この人の役に立つために頑張ろうと思った。