27 香壺
斉彬の帝の前での暴挙(楓にとっては)から数日、好奇の視線に耐えていた楓に麗景殿を訪ねる機会が来た。
「麗景殿の女御様への文はこちらですか?」
「そうです」
大輔の君が麗景殿の女御へ贈る品を文箱に入れて持って来る。開けると中には文と、その隣に小さな青磁の壺がおかれていた。
大輔の君が壺を手で示す。
「こちらは麗景殿の御方へのお礼の贈り物です」
「香壺ですね」
「女御様が調合された香が入っています」
香を調合するには出来上がるまでに数日を要する。多少時間は掛かるが、写本に移った香について尋ねるなら女房達との話のきっかけになるかもしれない。そう桜子が気を利かせてくれたのだ。
ありがたく思いながら、楓はそれらの入った文箱を両手で持つ。
「参りましょう。女御様が物語を写した方の御手(筆跡)を褒められていたとあちらへ伝えているので、きっと楓様が会いたがっている方も同席していると思います」
「はい」
楓は先を歩く大輔の君の後ろを、静々とついて行った。
二人が麗景殿に到着すると、あらかじめ連絡を受けていた若い女房が迎え入れてくれる。
女御の御座所の正面の間へと導かれた楓達は、御簾を挟んで座り深々と頭を伏せた。
「弘徽殿の女御様より御礼の品をお持ちいたしました」
大輔の君が緩やかに奏上すると、御簾の中の人物が身じろぎする。影でしか見ることは出来ないが、この目の前にいる姫が麗景殿の女御だろう。
中央に座る女御の側には、二人の女性が控えている。
左の女房が、つ……と近寄り、御簾を少し巻き上げると楓の差し出した文箱を受けとった。
彼女は中の文と香壺を確認すると、軽く頷き主人の元へと持ってゆく。
「空薫物ね。これは弘徽殿の御方が?」
「はい。女御様が調合されました。いただいた写本の御礼でございます」
「嬉しいわ」
「例の物語はあちらでも大層評判でございます。麗景殿の女房殿は素晴らしい才をお持ちだと、女御様もお褒めになっておられました」
大輔の君の言葉に、右の女房が口元を押さえたように見えた。まあ、と喜ぶ声が漏れたところを見ると、こちらが物語を書いている女房だろう。
麗景殿の女御も笑っている様子が透かし見える。
「写本を書かれた方の御手もとても美しくて……」
大輔の君は桜子からの言葉を女御へと伝えている。それを女御は機嫌よく聞いているようだった。桜子へのわだかまりも女御からは感じられない。帝のおかげで妃達の関係が良くなったというのは本当らしい。
もう一人、先ほど文箱を渡した女房が写本を書いた人なのだろうか。
楓が目で追っていると、不意に女御が楓に声を掛けた。
「貴女が噂の『四条の君』なのね」
「……!」
急に声を掛けられ楓は飛び上がる。
ここ麗景殿にまであの噂が届いていたとは思っていなかった。
はい、とも、いいえ、とも答えられない。楓は黙って頬を赤く染めてうつむく。
違う、と真っ向から否定出来ないのが辛い。
「あの左近の中将がただ一人を追うなんて信じられなかったけれど」
と、女御は言葉をきった。
楓は顔をじっと見られているような視線を感じる。こちらからはあまりよく見えないが、御簾の向こうからはこちらがよく見えるはず。
「『桜の君』を写したようね」
吐息のような小さな呟きが聞こえた。
『桜の君』とは桜子のことを指しているのだろう。
まずいだろうか、と楓は身を縮こまらせるが、女御はそれ以上は何も言わずに香壺を手に取った。
カチリと蓋を開く音がする。
「いい香りね。薫くのが楽しみだわ」
この機会を逃してはいけない。楓は内心の焦りを隠しながら、そっと用意していた言葉を声に出した。
「いただいた写本にも、清々しい香が薫き染めてございました。あの香はどちらの方のものなのでしょう」
「あら、そうなの?」
女御が左に座る女房へと顔を向ける。やはり彼女が写本を書き写した人物だったようだ。
楓は重ねて尋ねる。
「はい。嗅いだことのない若草のような香りでした。とても印象深い香りで。私もそのような香を作る事ができればと思うのです。もしおわかりなら、その珍しい香の調合方法を教えていただけないでしょうか」
「私も知りたいわ。どんな材料を使っているの?」
楓の言葉に女御も興味を持ったようだ。好奇心満々の様子で隣の女房を見やる。
しかし、主人の問いかけにその女房は首を横に振った。
「それは、わたくしも存じあげませぬ」
「あら、知らないの? 何故かしら」
「その香はある方から譲り受けたものなのです。写した本を広げたまま薫いていたので、きっと香りがうつったのですね」
『ある方』、それが斉彬達を襲ったあの蝶の式神を操る者だろうか。そして、それは神祇少副に幻覚を見せた犯人でもある——。
「その譲られたという方はどなたかお教え願えますか?」
身を乗り出して尋ねる楓に女房は頷き、はっきりとした声で答えた。
「神祇官におられる巫の女性です」




