26 四条の君
——視線を感じる。
ひそひそと自分の方を見て小声で会話しているのを感じながら、楓は御膳を運んでいた。
都の貴族の姫君達の間で、知らぬ者はいないであろう左近の中将。彼とひとときの逢瀬を夢見る女性も多いと聞く。そして、近頃女遊びをぴたりとやめて、一人の姫に入れ込んでいるのではないかという噂が流れていた話もまだ新しい。
相手の姫の噂がなく正体不明のままであったことと、宮中で流行している物語のせいでその噂の相手が男性にすり替わってしまっていたが、ここに来て本人からの暴露である。
噂好きな女房達の間では、たちまち話が走っていった。
朝からずっと楓は注目の的だ。
忙しく仕事をしていると、こそこそと話をしているのが聞こえてきていた。
その声の中に『四条』の言があるのをみると、きっと自分の噂だろう。
とんでもない誤解である。
楓は憤慨しているが、当の斉彬が姿を見せるまでは文句も言えない。
「侍従の君」
もやもやを抱えたまま歩いていると、大輔の君に声を掛けられて楓は立ち止まった。振り返ると少し心配そうな表情が楓を迎える。
「それはわたくしが持って行きます。侍従の君は女御様のお側にいてください」
「でも……」
「中将様は皆に大変人気があるお方ですから、目立ちすぎてしまうでしょう」
気を遣ってくれているのがありがたい。楓は持っていた膳を渡す。
「ご自分が目立たないように、とおっしゃっていましたのに、困ったお方ですわね」
「全くです」
深く同感の意を示す楓を見下ろして、大輔の君はふふと笑った。
「でも、気にされていたのでしょうね。侍従の君を見た方が探りを入れてくることもありましたから」
「え?」
「まだ新しく入ったばかりなので遠慮されているようでしたが、そのうち文も届いていたでしょう。それを考えると、中将様がご自分の想い人と宣言したのは、かなり効果のある牽制ですわ。あの方に対抗出来る方はそうそういませんからね」
そういう意図もあったのか。
楓はなるほど、と少し斉彬を見直した。
文など貰っても、楓は困るだけである。返歌を送り返さなければ良いだけではあるが、面倒なことは出来るだけ避けたい。
「でも、皆さんにお話を聞けなくなってしまいました」
楓が話を聞こうと思っても、逆に彼女達は楓から話を聞き出そうと目をきらきらさせて迫ってくるのだ。これではとても話を聞き出すどころではない。
すると、彼女は大丈夫ですよ、と言って微笑んだ。
「そろそろ写本の御礼の品も用意が出来る頃ですよ」
「では麗景殿に?」
大輔の君がこくりと頷く。
「また女御様にお尋ねになってくださいね」
うながされて楓は女御のいる母屋へと戻る。
すると、そこにはちょうど帝が弘徽殿の女御の元に逢いに来ているところだった。
「おや、噂の君が戻ってきたようだ」
慌ててひれ伏した楓に向けて、帝は面白そうに声を掛ける。
「まあ、主上、侍従の君が困っておりますわ。ほら、早くこちらへ入って来て」
二人は斉彬と楓の話をしていたようだ。
桜子の呼びかけに、楓はそろそろと彼女の側へと寄る。周囲に侍る女房達も興味深げに楓を見ているので、非常に居心地が悪い。
帝がぱちりと扇を鳴らすと、彼女達は残念そうな顔をしながら部屋を出て行った。
「左近の中将とはずいぶんと仲がいいようだね」
「色々と助けていただいております」
「それで、どっちが本命なのだい?」
「!」
まあ、と言って桜子が口を覆う。
「主上、そんな事をお尋ねになられたら姉が困ってしまいます」
「いや、気になるではないか。あの陰陽頭と彼の親友の中将だぞ。二人が取り合う姫が一体どちらを選ぶのか」
楓は返す言葉が出てこない。真っ赤になって顔を伏せていると、桜子が助け舟を出してくれた。
「ですから姉は陰陽頭の北の方になる予定ですと言いましたでしょう。主上が陰陽寮に残るようお命じになられたので、まだ陰陽生のままなのです」
「わかっているよ。しかし、勿体無いな。陰陽博士も言っていたが、優秀な成績の上、すでに一人で祓もできるというではないか。例の事件を解決した陰陽頭の弟子が貴女の姉姫だった事には驚いたが、女人ゆえ陰陽師は無理でもこのまま出仕してもらいたいくらいだ」
帝の言葉に楓は思わず顔をあげる。
面白そうにこちらを見る帝を、桜子が頬を膨らませて嗜めた。
「駄目ですよ。陰陽頭が許しません」
「はいはい、無茶を言っているのはわかっている。貴女は正しいよ」
女房としての出仕は難しい。楓は父の屋敷には戻るつもりがないからだ。
ただ、寂しく思っていた事も確か。
帝が認めてくれることは誇っても良いだろう。役に立つ方法は他にもある。今回の件が終われば自分の役目は終わるが、利憲の補佐は続けることは出来るのだから。
目の前で仲睦まじい二人のやり取りを聞いていると、幸せだな、とふと思った。政治的な繋がりの為に引き合わされた二人ではあるが、信頼しあっている様子は見ていて羨ましいほどだ。
そして辛いことも沢山あった桜子が、笑顔でいてくれるのが純粋にありがたい。
しばらくそんなじゃれあいのような話をしたあと、帝は再び楓に向けて微笑んだ。
「女御には叱られてしまったが、頼んだよ」
「はい」
「中将からも聞いているが、陰陽頭も今回の件について調べてくれているようだね」
利憲は今は何を調べているのだろう。
帝は経過を聞いているようである。
しばらく離れていると、楓はなんだかとても声が聞きたくなってしまった。




