25 斉彬の企み
柘榴が立ち去ったあと楓が大きく肩で息を吐くと、飛燕がぴょんと床に降りる。そして、人の姿に変化すると眉をひそめて楓に尋ねた。
「楓様、あの女性をご存知だったのですか?」
「神祇伯様のところで会ったことがあるのよ。私だと悟られなくて良かったわ」
「巫なのに、神を嫌っているようでした」
「巫だから、ではないかしら」
神に近いところにあり、神をその身に下ろして声を伝えるのが巫の役割の一つ。
しかし、彼女は神は人の願いを聞くことはないと言っていた。人に請われ神に祈る身にとって、願いが届かぬ事を相手に伝えることもできず苦痛だろう。
『陰陽師ならば』と、彼女は知っているだけにそう思うのだ。彼等は時に人の為に、高位ではないにせよ神をも使役する。
「わかっていても何も出来ないのはつらいものよ」
あの時は何故自分や利憲に対して敵意を向けるのかわからなかったが、今夜の彼女の様子を見ると許してしまいそうになる。
自分もまた、何も出来ずに日々を過ごしていた故に。
「でも、別に人の話を聞かないわけではないと思うのですけど」
唇を尖らせて不満そうにする飛燕を見て、楓はそうね、と頷いた、
飛燕達のような式神も神。
確かに彼等はとても優しく、いつも楓達を思い動いてくれている。そんな事を言われたら怒るのももっともだ。
「飛燕達は今も私達の為に働いてくれているものね」
労うようにそう声をかけると、飛燕は違います、と言って首を横に振る。
「弘徽殿の女御様はいつもその神力で、都を災害から護っておられます。それに、楓様もいつも主と一緒に人の為に働いていらっしゃいます。高慢ちきな大神達と一緒にされては不愉快ですわ」
うちの女神様達は別格です、と力説する式神に楓は破顔した。
「楓様は優しすぎます。もっと怒っても良いのですよ」
「そんな事言われても、私は神様じゃないし……。知流姫も、飛燕が代わりに怒ってくれているから大丈夫だと思うわ」
もう、と言って飛燕はまだぷりぷりと文句を言っている。
病を祓うこの神力は、確かに女神に貰ったものだ。陰陽師にはなれなくても、利憲のそばで誰かを癒せるならば。
少なくとも神は、自分の願いは聞き届けてくれたのだと思う。
「もう少し、周ってみるわ。何か見つけられるといいのだけれど」
「あら、まだ行かれるのですか?」
「だって、そのためにこんな格好をしているのよ。蝶だけでも見つけたいじゃない?」
楓がそう言ってうながすと、飛燕はまたくるりと燕に戻った。
そして、その夜は何事もなく過ぎた。
翌日も楓は大輔の君に連れられて、女御の為に食事を運んだり書を書く準備をする。その合間に女房達に何か噂になる事はないか、それとなく尋ねてみたりしていた。
後宮に流れる話は、殿上する公卿達の誰から文を貰っただの、それに誰がどう返歌を送ったのが素晴らしかっただのと雅な話が多い。
昨夜は宿直だった左近の中将が帝に請われ、弘徽殿の女御の御前で龍笛を披露したのが趣深く良かったと、女房達は口々に話をしていた。
笛は少し聞きたかったかも、と楓が思いながら文箱を持って桜子にもとへ戻ると、彼女は待ち構えていたように楓を手招きする。
「ねえ、楓子、少しいいかしら?」
そう言ってそばにいた大輔の君に目配せすると、彼女はすっと御簾の外へと出て行った。
女御が姉の名を呼ぶ時は人払いを願う合図だ。
楓は二人だけ(玄武は部屋の隅で寝ているが)の話とは何だろうかと、疑問に思いながら桜子の前に寄り、文箱を膝の上に乗せて座った。
「昨日の清涼殿での事はもう聞いた?」
「何の事?」
「やっぱりまだ聞いてない?」
「別に気になるような事は聞いてないけど、どうかした?」
「そう……、知らないのね」
何故か桜子は歯切れが悪い。
自分の知らない間に重要な事件が起こったのだろうか。楓は少し心配になる。
「もしかして、あの蛇がまた出たの? 斉彬様が宿直でいらっしゃるから大丈夫だと思っていたのだけど」
身を乗り出す楓を、桜子は慌てて違うのよ、と手で制した。
「そうじゃないの。そっちの話じゃないの」
そっちの話とは? 妖の話ではないというのだろうか。
大輔の君を下げたので、深刻な話かと思ったのだが。
腑に落ちない楓が変な顔をしていると、桜子もつられたように難しげな表情で両手をもじもじと組み合わせる。
「あのね、その中将様が昨夜龍笛を持っていらして」
それは先程聞いていた話だ。
楓はうんうんと頷いてみせる。
「中将様が主上に呼ばれて、笛をご披露されたの」
「それは聞いたわ。とても美しい音色だったそうね」
「そうなのだけど……、あんまり心情を込めて吹かれていたのに主上が感動されて、中将様に誰を想って奏でたのかお尋ねになられて」
楓はそんな話になったのか、と素直に感心した。それほど良かったのなら自分も聞きたかったものだ。昨夜、清涼殿の近くへは行かなかった事を少し残念に思う。
「そうしたら、中将様ったら、弘徽殿の女御に仕えている貴女の名を出したの。他の宿直の方々や蔵人の女房達もいたのに」
楓の膝から文箱が転がり落ちた。
「四条の別邸に迎えたい方だと皆の前でおっしゃったのよ」
「…………」
「それで、貴女が『四条の君』だという話になってしまったの。私もあんまりびっくりしてしまって、すぐに否定することもできなくて。楓子、これ、大丈夫かしら?」
冗談にも程がある。
開いた口がふさがらないとはこのようなことを言うのだろう。
(斉彬様!)
楓はこれから自分に起こるであろう災難を予感して、ぎゅっとこぶしを握りしめた。




