22 弘徽殿の女房
楓が女房として弘徽殿へ入って数日が過ぎた。女御の身代わりだった前回とは異なり、今回は昼間もずっと女房として仕事をする。そのため、常に内裏に出入りする斉彬は、連絡係として楓の様子を見に行くことにしていた。
「急に訪ねてきてすまないね。誰かいるかい」
左近の中将の訪問に、奥でぱたぱたと人が動く音がする。さわさわと小声で話す数人の女性の声と、浮き足立つような気配も漂ってきた。
すぐに『はい』という返事が聞こえて、楓が妻戸の外へと顔を出す。
「中将様」
朗らかな笑顔が斉彬を出迎えた。
「侍従の君か」
侍従の君とは姿を変えた楓の女房名である。急遽女御に頼んで、乳母の遠縁の姫という肩書きをもらったのだ。
そして楓は他の女房達とともに働きながら、内裏に流れる怪異の噂を探っている。
華やかな後宮で働く女房達の仕事時間は、午前の間が主だ。彼女たちは忙しい主人の世話を、流れるような手際でこなしていく。
そして一息つく午後は、訪れる客人達の相手もしていた。
女房の質も主人の評価につながるとあれば、殿舎を訪れる帝や殿上人への対応にも気が抜けない。これまで世話をされる側であった姫も、女房として内裏に入ると教養とかなりの気働きを求められる。
一時女御の身代わりとして宮中へ入っていた楓であるが、女房として働くのは初めてだ。帝のお渡りも多いここ弘徽殿では、その忙しさは他よりも増す。
さぞ戸惑いもあるだろうと心配していた斉彬だったが、意外にも楓は苦もなく馴染んでいるようだった。
(そういえば女御の代わりに宴に出た時も凄かったしな)
陰陽寮でもよく動き働いていた。ここでもそつなくこなしているのだろう。
陰陽生の時の地味な布衣姿とは違い、髢をつけ美しい女房装束を着た楓は、どこから見ても雅な宮中の女官そのものである。
「もう少し他の女房に任せて、君は姿を見せないようにしておくほうが良くはないかい?」
高貴な女性は滅多に顔を見せぬもの。内裏で勤めはじめたばかりの女房は、恥ずかしがって取次役を嫌がる者もいるくらいだ。
しかし、男として普通に働いている楓は、顔をさらすことに慣れている。何の抵抗もなく出てきては笑顔を見せるものだから、斉彬はヒヤヒヤしてならない。
「私が一番下ですから、そういうわけにはいきません」
「しかし、君は弘徽殿の女御様に似ているから危ないだろう」
「女御様のお顔を知っているのは、主上と父と、お世話をしている周りの女房くらいです」
「いや、そういう意味ではなくて……」
きょとんと首を傾げる楓に、斉彬はぐっと言葉に詰まり天井を仰ぐ。
——可愛いすぎる。
きょろきょろと周囲を見ると、庭の木の陰から様子をうかがっている男が一人、二人。警備の舎人かと思ったら、片方は斉彬もよく知っている蔵人の少将だった。
きっと彼女の姿を一目見ようと出待ちしていたに違いない。
(あいつ、後でシメておかねば)
女神の中で最も美しいと言われる木花咲耶姫、その再来と言われる弘徽殿の女御に瓜二つ。
女御に化けた楓に、この数多の美女を見てきた自分が一目で恋に落ちたのだ。
その彼女が内裏で顔を出してうろうろしていたらどうなるか、よく考えるまでもなく自明の理。
この方面になにかと鈍い利憲は、こうなるであろう事を全く予想していなかっただろう。
たった数日でこれなのだ。
妖だけが危険なわけではないのだぞ、と斉彬は心の中で親友の浅はかさを嘆く。
「私からも女御様に言っておくよ。短期間だけのお役目だ。あまり目立たぬに越したことはない。大納言殿《お父上》が急に来られることもあるだろう」
それもそうかと楓もしぶしぶ頷いた。
これで少しは心配も減るだろう。斉彬はほっと息をつく。
「それで、何か新しくわかった事はあったかい?」
こんな危険を冒してまで潜入しているのだ。何か収穫があって欲しいものである。だが、楓は残念そうな面持ちで首を横にふった。
「黒い蝶はまだ見つけられていません。幻を見た方とはお話をしました。でも、以前に聞いたとおり、それで何かあったというわけでもないそうで。あの山楝蛇の気配も全くありませんし」
「写本の方は?」
「借りている物語を写し終えたら、お返しする時に私も同席する事になっています。今はお礼の贈り物を準備しているそうで」
「準備?」
「作るのに少々日にちが掛かるものなのです」
「あまり長くはいられないよ」
「わかっています」
弘徽殿にいられるのは、ほんの数日のみ。陰陽寮の方には、楓は体調不良の物忌として利憲が処理している。長期に休むことはできない。
「そういえば、飛燕は?」
楓とともに後宮へ入った飛燕の姿がない。
いつもは楓といるか、屋根の上にとまっているのだが。
「今日は内裏の中を調べてくれています。夜は私も一緒に少し回ろうかと」
小さな鳥の姿なら、身を隠しながら妖の居所を探れる。とはいうものの、飛燕のことだ。きっと好奇心いっぱいで、あちこちのぞいているに違いない。
そう斉彬は思いながら、楓の顔をじっと見る。
「無理はしないようにね。私も宿直でいるから、何かあればすぐに呼ぶんだよ」
釘を刺しておかないと、この少女は妹姫の為ならば自分のことをかえりみないところがある。利憲の式神たちがついているとはいえ、心配なことには変わりない。
すると楓は一瞬目を見開いて、そして感心したように呟いた。
「中将様が女性に人気があるのがわかります。こういうところ、女性は弱いですよね」
「こういうところって?」
聞き返すが楓は答えず、ただ照れたような笑みを浮かべる。
教えてくれないと余計に気にかかるではないか。
ちょっと、と声を掛けるが、楓はそのままくるりを背を向け、『どうぞ』と言って斉彬を中へと導いた。
仕方ない。
少なくとも彼女は好ましいと思ってくれたということだ。
利憲がいる限りなびきそうにはない彼女だが、もう少し押してみるのも良いかもしれない。当分見守るつもりでいるのだから、少しは駆け引きを楽しんでも良いだろう。
そんな不埒な思いを心に抱く。
(ならば、これは願ってもない良き機会なのではないだろうか)
立ち止まったままなかなか入って来ない斉彬を、楓は不思議そうに振り返る。
「中将様?」
どうせ今の彼女は偽りの姿。
斉彬はにんまりと唇に笑みを浮かべる。
そして扉をくぐった斉彬は、女御に挨拶をするべく奥へと入っていった。




