7 夫婦の会話
二の姫がいなくなった中納言邸の西の対屋は、もともと仕える人間もほとんどいなかったため静まり返っていた。その簀子を一人の女房が歩いている。楓子の乳姉妹の周防だった。彼女は主人がもしや帰ってきてはいないかと毎日見に来ていたが、その甲斐もなくいまだ人の気配はない。
あの夜、燕が烏の妖に変化するのに驚いて気を失った後、目が覚めた時には姫の姿はなかった。燕を連れてきたらしいあの男が連れ去ったのか。
急いで東の対屋に戻り、主人である一の姫・長子に経緯を説明し、助けを求めた。すると姫は楓子が消えた事を父・中納言に伝え、周防に安心するようにと言ってはくれた。しかし、忽然と消えた楓子を探すすべは中納言にもないようだった。
むなしく時だけが流れ、そしていつしか二の姫の話題は避けられるようになり、西の対屋に渡る人間もいなくなっていた。
(姫様は何処へ……)
今日もため息だけを残して、周防は東の対屋へ戻った。
彼女が与えられている自室に戻ると、部屋の表に訪ねて来ている者がいる。
「あら、来ていたの」
「待っていたぞ。……また西に行っていたのか」
心配そうに眉をひそめる男に苦笑いを見せて、周防は彼を部屋の中へと導いた。
「周防、そろそろ勤め先を変える気にならないか?」
そう言って座っている周防の長い髪をもてあそんでいるのは、左近の少将の従者・高也だ。
もともと高也は中納言の一の姫の夫である権の少将に仕えていた。それで中納言邸に出入りするうちに周防と夫婦になったのだが、今は乳兄弟である左近の少将の従者に転職してしまったのでなにかと不便だ。
高也は以前から周防に左大臣邸に来るように言っていたのだが、二の姫が心配だからと断られていた。
「お前の乳姉妹の姫様もここにはいないし、どうだ?」
「そうね……」
周防は鏡を見ながら髪をとかし、ぽつりと呟くように答える。
姫が攫われたと聞いてしばらく周防の落ち込み方はひどく、とてもそんな事を言える状態ではなかった。しかし、もうそろそろいいだろう。そう高也は考えたのだが、まだ早かっただろうか。しかしつい先日、気になる事があった。
「なあ、周防、姫様なんだが、もしや楓とかいう名前だったりしないか?」
「なあに? いきなり。もしそうだったとしても言うわけないでしょ。高貴な方の名前を教えるわけないじゃない」
「それはそうなんだが……」
夫にも容赦がない返答に高也は口ごもる。しかし、これは妻に伝えた方が良い。
「うちの若君が友人の陰陽頭の所で楓という名の少年に会ったらしいんだが、どうもお前の姫様なんじゃなかろうかと俺は思うんだ。あの家は式神しかいない変な屋敷なんだが、その少年はついひと月前に引き取られたらしい」
姫がいなくなったのもそのくらいだろう、と言う。
周防の手がぴたりと止まった。
楓子が姿を消す直前、自分達の前に現れた男は賀茂利憲と名乗った。彼は自分を陰陽師だと言っていたのだ。
「その陰陽頭は賀茂利憲様とかいう?」
「名は俺も知らんが、賀茂家だ」
怪異に驚き気を失ってしまった事を、周防は何度も悔いていた。
中納言には二の姫が消える前に陰陽師の男と会った事を伝えるか迷った。しかし、中納言に招かれた客人に対して、連れ去ったという証拠もなく騒ぎ立てるわけにもいかない。燕が烏になったと言っても、夢を見たのだと言われるだけだろう。
それで結局、高也にのみ相談しただけだった。
「その人の家にいる子が姫様? 男の子なんでしょう?」
「まあ、男なんだが女のような子で、どこかの姫君みたいに品があってそれは可愛い顔をしていたと若君が言っていてな。若君が変な気を起こさないかと心配になるくらいベタ褒めだったんだ。姫様も美人だったと聞いているし、まさかと思って」
「男と女を見間違うかしら」
「髻を結っていたらまさか女だとは思うまい。だがうちの若君はな、凄くカンが良いんだ。特に女性にかけては。本能で女だと感づいているんじゃないかと思うんだ」
「……」
黙る周防に高也は少しヒヤヒヤする。
もし違っていたら妻に無駄な期待をさせてしまう。しかし、なぜか高也には妙な確信のようなものがあった。
周防からいつも聞かされていた気の毒な二の姫。周防の欲目が入っていたとしても、他の姫よりもずっと美しいという容姿や、その大人しく聡明な性格と優雅な物腰なら、自分の若君が惹かれても不思議はない。反対に、素性の知れないただの少年に、そんなものが備わっているとは思えない。
「そのことは、貴方、左近の少将様には伝えたの?」
「いいや。あの少年は自分の意志であの屋敷にいるようだったし、うちの若君に言うと変な事になるかも知れない。絶対に言わないよ」
「変な事?」
「もし、本当に姫様なら、若君は放っておかない。左大臣家は若君に良いところの姫君と結婚させようとしているって前に言っただろう?」
周防はコクリと頷く。
以前周防は高也に、気の毒な二の姫に良い結婚相手がいないか訪ねた事がある。それは少将のことも含めてだったが、もし仮に少将に見染められたとしても、後ろ盾のない二の姫の立場は弱い。結局あてがわれた別の妻の家が夫を囲い込めば、姫は捨てられることになるだろう。それを考えると少将は姫の相手としては不適だ。
「それに、陰陽頭の意図も知れないのに余計な揉め事は起こさないに限る」
少なくとも、彼は弟子を丁寧に扱っているようだった。しかし、なぜ少年として姫を連れているのか。
「俺もしばらく探ってみるよ。本当に姫様なら、お前も少しは安心だろう?」
高也の言葉に周防も少しだけ微笑む。
無事であれば、そう願って幾夜も涙を流した。
楓子と思われる人物が大事にされているようだと、その事が聞けただけでも嬉しい。あの冷酷そうな美形の陰陽師が、どうやって姫の世話をしているのかは気になるところだけれど。
「そうね。ありがとう。勤め先のことも少し考えてみるわ」
「本当か!」
「はいはい」
抱きついてきた高也の腕をやんわりともぎ離しながら、周防は優しい夫を前に姫の事しか考えていない自分の事を心の中でおかしく思った。