20 山楝蛇
その日の夕刻、弘徽殿を訪れた楓はいつものように母屋へ通された。案内をしてくれるのは、桜子が中納言邸にいた時から仕えている女房だ。
妖虎の事件以来、女御の側近の数名の女房達には楓の出自は知らされており、帝の命によって固く口外が禁じられている。
この女房もはじめは驚いた様子を見せたものの、楓が女御の姉である事にかえって安心したようだった。今では喜んで二人きりの時間を過ごさせてくれている。
「どうぞ。女御様がお待ちです」
女房は楓を案内すると、人払いをして立ち去った。
御簾の前に座ると、中から待ち構えていたように声がする。
「楓子、中へ入って」
楓が御簾を押して中を覗くと、桜子は小さな亀を膝に乗せて本を読んでいるところだった。
「玄武、あなた利憲様に叱られるわよ」
女御の膝の上を占領するという図々しさに、楓は驚いてそう指摘する。
すると、黒い亀はちろりとこちらを見たかと思うと、にょっきりと手足を出して伸びをした。そして、またぱたりと頭を落として目を閉じる。全く堪えていない様子に楓は呆れて首を傾げた。
この式神、自由すぎるのではないだろうか。
ふん、と息を荒くする姉に向けて、女御は笑って座るようにと円座を勧めた。
「私が悪いの。手触りが良いからつい触りたくて。で、今日はどうしたの?」
つるりと光る黒い甲羅を撫でながら、桜子は冊子本を閉じる。
楓は素知らぬ風で寝ている玄武に冷たい視線をおくり、円座に膝をついて座った。
「桜子が貸してくれた物語なのだけれど、あれを写したのは誰かわかるかしら」
「あの物語? 楓子に渡しているものは麗景殿の女御様からいただいたから、きっとあちらの宮の女房の誰かじゃないかしら」
麗景殿では物語を書いている女房の他にも、才の秀でた女性達を幾人も揃えているという。その中の誰が写したかは聞いてみないとわからない。
そう言う桜子に、楓は蛇の幻と煙について事情を説明する。
「まあ、そんな事が? 今、お借りした物語をうちの女官に写して貰っているのだけど」
驚いた桜子は女房を呼ぶと、借りた巻物を持ってくるようにと言いつけた。
しばらくして戻って来た女房は、静々と巻子本を差し出す。楓はそれを手に取り慎重に匂いを嗅ぐが、紙と墨の香りしかしない。少副の屋敷で嗅いだあの匂いは、微かにも残っていなかった。
「これを書いた方は違う方かしら」
「尋ねてみるわね」
「香をどこから手に入れているのか教えて欲しいの」
桜子はわかったわと言って頷く。
「それにしても、不思議な事が続くものね」
「利憲様は今の内裏に妖の気配は感じないそうなのだけど……。桜子は何か感じたりする?」
「私に聞かないで。神力はほとんど残ってないって言ったでしょう?」
最近は平和そのものよ、と答える桜子に楓も笑う。
確かに帝も少しは考えたのか、妃同士のいざこざが起こらぬように、近頃は他の殿舎からも夜御殿に召しているという。他の女御達とも本のやり取りが出来るのだから、桜子の立場も落ち着いているのだろう。
「妖じゃなくて猫とかなら、寒いからかしら。床下でよく声がするのよ。この間は黒い胡蝶が飛んでいるのを見かけたという人がいてね。この季節でしょう? 見間違いじゃないかって聞いたのよ。そうしたら何人か見かけたと言っているらしくて。珍しいから私も見てみたいと思うのだけど」
「蝶?」
がばりと身を起こす楓に、桜子は驚いて目を丸くする。
「どうかした? 楓子」
やはり蝶の式神は内裏に潜んでいた。神祇少副に幻術を掛けた呪術師は、この後宮でも何かを企んでいるのではないか。
楓が桜子にその事を伝えようとした時、人払いをしているはずの廂の間から、人の息づかいのような気配を感じた。
日が暮れる前に、女嬬がそろそろ灯りの準備にでも来たのだろうか。そう思って御簾の向こうを振り返って、楓は息をのむ。
「嘘……」
つい今まで、気付かなかった。いつの間に、どこから現れたというのか。
——妖だ。
玄武ですら気付くのが遅れた。そんなことがあるのだろうか。
御簾におちる黒い影は、太くより合わされた大綱のよう。それがズルズルと音をたててうねっている。
女御の膝にいた亀の甲羅の輪郭がゆらりと揺らぎ、みるみる巨大な蛇へと化す。二人の前でとぐろを巻いた玄武が、大きく口を開けシャアと威嚇の声をあげた。
「桜子!」
女御をかばうように覆い被さる楓の額の後れ毛を、びゅうと強い風が巻き上げる。目を細めた視線の先に見えるのは、揺れる御簾の間から覗くてらてらと光る鱗を持った胴体だ。
斉彬から聞いていたのは蝶が見せたという蛇の妖。彼は高也が幻を見せられていたと言っていた。
しかし、これが本当に幻だというのだろうか。
(——違う。本物だわ)
ずるりと板の間を滑る音がする。
濡れたものを引きずるようなその音は、何かを探すように向こう側をさまよっている。
「どうして弘徽殿に……?」
内裏に見え隠れする幻影は、桜子を狙っていたのだろうか。
楓は周囲を見まわしてみるが、煙は見えない。しかし、何処からともなく藺草のような香りが漂ってくる。
玄武はしゅうと息を吐き、チロチロと舌を出し入れしながら相手の攻撃を待つ。
いつでも迎撃できる。その気迫を隣で感じながら、楓は妖のいる御簾の向こうを見つめていた。
茜色の光に照らされ、御簾越しに浮かび上がる巨大な影が姿を現す。
「山楝蛇……」
桜子が小さく呟いた。
玄武よりはやや細い。しかし、人を飲み込める程度には巨大な蛇。赤と黒の斑ら模様に腹は黒い。揺らぐ影が動きを止めて、闇色の目がこちらへ向けられた。
思わず抱き締めた桜子を見ると、彼女もまた、まじまじと蛇を見つめている。
山楝蛇はその漆黒の瞳をこちらへ向けると、じっとこちらを窺うように動きを止めた。
夕刻の茜の空を遠くに、声もなく見つめ合う人と蛇との間を、あの不思議な香りをのせた風が吹く。
不思議とおぞましさは感じない。
玄武がゆるりとその身体を伸ばし、沈黙を破るように太い尾を床に打ちつけた。
ぴくりと鎌首を揺らした山楝蛇は、ふいと庭の方へとその顔を向ける。
逃げるかと思った瞬間、蛇は煌めく粉のような光となって散った。
「——消えた?」
まるで全てが幻だったかのように、霧となって消え失せた。その虚空を見上げて、楓はふるりと肩を振るわせる。
勇気を出して御簾を押し、今しがたまで蛇のいたはずの南の廂を覗く。既にどこにも妖の気配はなかった。
「楓子」
蛇に戻ったままの玄武の背に護られた桜子が、心配気な声を掛ける。
大丈夫、と言いかけて、楓の手がぴたりと止まった。
何かが目の端に映っている。
もう一度振り返ってみると、板の間の中央に何か小さなものが、差し込む赤い夕日に照らされていた。
楓は御簾を押して出ると、そっとその何かへと近付く。
(楓の葉……?)
そこには冬の最中に色づきもせず、七葉に切れこみの入った瑞々しい緑の葉が一枚、ひっそりと落ちていた。




