19 残り香
師走は特に行事が多いとはいえ、陰陽寮の学生達にはいつものように授業もある。楓も今は暦生と同じように暦を算出する暦学を習っているのだが、これが非常に難しい。太陽と月の運行を計算するのだが、算術はどうもうまくいかない。
授業の後はいつも、名虎にわからないところを教えてもらっていた。
その日も授業の後、簀子の端で本を開いて頭を抱えていると、見かねた名虎がひょいと首を出す。月の周期の計算法を教えてもらっていると、不意に名虎が楓の肩をつついた。
「楓、あの方がまた来られているぞ」
名虎が指差す先に、背の高い公達の姿があった。遠目にも目立つ美しい立ち姿には非常に見覚えがある。
(斉彬様だわ)
じっと見つめていると、彼の方もこちらに気が付いたようだ。
名虎に礼を言って簀子を降りると、斉彬の方もちょいちょいと手招きをする。駆け寄ろうとして、楓はふと立ち止まった。
そのまま迷っていると向こうから近付いてきて、首を傾げながら楓の顔を覗き込む。
「どうしてすぐに寄ってきてくれないのだい?」
「陰陽頭から、危ないものには近付かないようにと言われたのです」
「ええ? ひどくないかい?」
斉彬には前科がある。
また攫われてはたまらない、と楓は手が触れない距離を保つ。
「楓が嫌がることはしないよ。ほら、逃げられたら余計に追いたくなるだろう。今は仕事中だから警戒しないでおいで」
「本当ですか?」
「疑り深いなあ。陰陽頭のところへ行くよ」
「僕も?」
「『僕も』だよ。——手掛かりが見つかった」
口元に笑みを浮かべる斉彬に、楓は目を見開いた。
二人が連れ立って利憲を訪ねると、彼は筆を手にして何かの報告書に書き加えているところだった。日時が書かれているところを見ると、祭祀についてのものだろう。
利憲は斉彬を見ると、その形の良い眉をひそめた。
「昨日の今日でここに来るとは、少副殿のことではないな。何があった?」
「さすがだね。例の蝶について気になる情報があるんだ」
「あの式神か」
「そうだよ。それで楓に頼みがあって来た」
私に? と楓が斉彬を見上げると、彼はにこりと笑みを返す。
利憲は筆を置いて、無言で話をうながした。
「四条の屋敷に戻ってから、周防が高也に教えてくれたそうなのだけど……」
そう前置きをして、斉彬は高也から聞いた話を伝える。
蝶の妖の残り香に、周防が覚えがあるという。彼女が預かっている本、これが高也の衣に付着した煙と同じ香の香りがする。その本は内裏の女房によって書き写されたものだった。
この不思議な一致を調べれば何かわかるのではないか。
従者の進言に、斉彬もこれはと思ったらしい。
「私が牛車の中にいる間に、高也達は白い煙に包まれたと言っていた。幻を見たのはその後だ。少副殿の屋敷を訪れた時も、香が焚かれていただろう?」
「あれも同じか」
「おそらく。私もあまり覚えてはいないのだけれど」
楓は白く視界が染まるほどに香が焚かれていた屋敷を思い出す。
異様な光景と腐敗臭に驚いて、充満する煙の匂いにまで気が回らなかった。しかし、確かに草のような香りがしていたのを覚えている。あれは屍臭を誤魔化すためのものではなかったのか。
「内裏の中にあの蝶と繋がる者がいるかもしれない」
平和に見える後宮の中に、式神を操る呪術師が出入りしている可能性がある。仮に写本を書いた女房が、知らず同じ香を使っていたとしても、その香の出所を探れば何かわかるのではないか。
斉彬の言葉に、楓も桜子から聞いた話を思い出した。
「そういえば、弘徽殿へ行った時に女御様がおっしゃっていました。宮中でちょこちょこと変なことが起こっているそうです。夜、後宮内で迷ったり、自分の名を呼ぶ声がした方も。幻のようなものを見た方もおられると。それほど害があるわけでもないので、誰も報告はしていないそうですが静かに噂にはなっていると」
「……可能性は高いな」
桜子はどこか引っかかりを感じているようだったが、あまり気にしていなかった自分に楓は羞恥を覚える。幻と聞いた時、もっと早く気がつくべきだったのに。
犯人がいたとしても、その目的がわからないため意識が向いていなかった。
「妖虎の時と違い、今の内裏に妖のような不穏な気配は感じられないのだが」
一方、利憲の方も常とは違う状況に驚いているようだった。
四角祭をはじめ、幾度も祓を行なった内裏の気は澄んでいる。
邪気の類は楓も感じたことはなかった。
しかし、不可解な事象は確かに起こっており、内裏に危険が及ぶ可能性は看過できるものではない。
利憲はしばし考え込む。
そして、ふと顔を上げると楓を見た。
「周防が持っていた写本とは、お前が渡したものなのか?」
「はい。女御様からお借りしたのです」
「何故わざわざ四条の屋敷に本を?」
そう尋ねられて楓は少々言葉に詰まる。
まさかあの巻子本には、中将と陰陽頭の道ならぬ関係が描かれているからとは言えない。周防に預けていれば安心だと思ったのだが、まさかそれがこんなふうに取り上げられることになるとは思わなかった。
「宮中で話題の物語だというので、周防にも見せてあげようと思って。四条のお屋敷に行った時にでも、みんなで読もうと思っていたのです」
女性陣だけで、という言葉は敢えて黙っておく。
利憲は少し不審げな表情を見せたが、それ以上問うことはなかった。
「その写本、弘徽殿の女御様は誰が書いたかご存知だろう。楓、本を書き写した女房を聞いてきてくれないか?」
「わかりました」
あまり追及されなかった事にほっとしながら、楓は斉彬の頼みにこくりと頷いた。




