18 写本
四条の屋敷に主人の乗る牛車が戻ってきたのは、随分と夜も更けての事だった。
主人の付き添いからようやく解放された高也は、ぶるぶると肩を振るわせながら妻の寝ている局の戸を叩く。
周防はまだ休んではいなかったようで、すぐに中から返事があった。
「遅かったじゃないの」
「すまん、早く中へ入れてくれ」
開かれた戸をくぐって中へ滑り込む。
出迎えた周防が、高也の霜の降りた狩衣に触れて飛び上がった。
「まあ、冷たい。遅いから若君がどこかの姫君のところで長居しているのかと思っていたけど、中で待たせて貰えなかったの?」
「陰陽頭のところだが、いつもの女房殿が出てこなくてなあ。あの屋敷はあの女房以外、音しか聞こえないんだ。勝手に上がるわけにもいかないし」
やれやれと言いながら高也は部屋に上がり、火桶にしがみつくようにして暖をとる。火を絶やさないように保たれていたそれは、木でできた桶の部分まで温かい。痺れる感覚が解けてゆくのを感じながら、高也はほうと大きく息を吐いた。
高也が温まっている間に、周防は厨から湯を貰って来てくれる。黒塗りの椀を手渡され、口をつけると腹の中から熱が染み渡った。
「北の方様が若君が最近はどこの姫君に通っているのかと、頻繁に私に尋ねられているのよ。いい加減、良い家の姫との話はないのか心配なのね」
「そりゃ当分無理だな」
高也は椀を置いて首を横に振る。
左大臣の北の方は、相変わらず息子の通う姫が定まらない事に業を煮やしている。しかし、婚家をあてにする必要もない主人には、まだまだそのつもりはない。
再び火桶にかじりつくと、だいぶん凍えもとれてきた。
「ああ、やっと人に戻った気分だ」
「今まで何のつもりだったの」
可笑しそうに笑う妻を横目で見て、高也は唇を尖らせる。
「寒いのもあるが、それ以上に凍りつくほど怖い目に遭ったのだ。労わってくれよ」
「怖い目って、辻強盗にでも出くわした?」
「そんな者達なら特に怖くもない。蝶だ」
「蝶?」
周防は不思議そうに首を傾げた。
蝶など綺麗なだけではないか、そう思っているのが見て取れる。
それから高也のそばに寄ると、すんすんと鼻を鳴らして眉を顰めた。
「ねえ、貴方、本当に陰陽頭の所に行っていたの? 変わった香の香りがするけど」
怪訝そうな声音に高也はびくっと飛び上がる。女の移り香だと思われたのか。
大事な妻に、帰宅が遅くなったのを浮気していると疑われてはたまらない。
とんでもない、と高也は慌てて首を横に振った。そもそも自分には斉彬のようなマメさも甲斐性もないのだから。
「他の女のところになんかいかないぞ。蝶の妖に出くわした時に変な煙に包まれたのだ。その時に匂いがついたんだろう」
「煙?」
「藺草のような青っぽい匂いのする煙だ。まだ衣についているか?」
「どこかで嗅いだような香りね。誰が合わせたのかしら。落ち着く香りだけど」
「落ち着くどころか、大蛇に襲われて大騒動だ」
高也は身振り手振りで、今夜遭遇した災難について周防に説明する。
その必死な様子に周防は吹き出しながら、綿の入った袿を夫に掛けてやった。
「蝶が蛇になったの?」
「若君は幻だと言っていた。若君が太刀で空を一閃すると、蛇は消えて地面に紙が落ちていた。陰陽頭に見てもらったのだが、呪符で作られた式神だそうだ」
「式神? そんなものが何故……。でも若君はさすがね。一振りで退治するなんて」
「若君は妖を見抜く見鬼だからな」
自慢の若君を褒められるのは嬉しい。
ふんぞりかえっていると、周防は呆れたように高也の肩を軽くぺしりと叩く。ふと気になったのか、そのまま肩に顔を近付けて、もう一度匂いを確認するように嗅いだ。
「おかしいわね。私、この香りどこかで嗅いだ気がする」
周防が何かを思い出すように考え込んでいる。
そして、しばらくしてからポンと手を打った。
「多分、あれじゃないかしら」
周防は部屋を出て、どこかへ行ってしまう。
しばらくすると、周防は蓋のある箱を重そうに抱えて持って来た。
その箱に高也は見覚えがあった。書物の好きな二の姫用にと、斉彬が作らせた冊子箱だ。
「なんでそんなものを持って来たのだ?」
「この中に入れているの。二の姫様が持って来られた写本」
「写本?」
「宮中で流行っている物語の写本を、女御様から借りたからと二の姫様が持って来られたの。どうも陰陽頭には見られたくなかったらしくて。また一緒に読もうとおっしゃって、ここに預かっているのよ」
そして、黒い漆塗りの箱から彼女が取り出したのは、真新しい巻子本だった。
「書いた方の香りが移ったのか、それとも紙に薄く香を焚きしめてあるのかしら。外に置いているとあまりわからないのだけど、箱の中に入れていると香りがよくわかるわ。ほら、似てるでしょう?」
高也が鼻を近づけると、微かに青草の香りがする。
「匂いに慣れて鼻が効かなくなっているが、確かに同じような気がするな」
衣に焚きしめる香は人それぞれ自分の調合方法があり、同じ香りを纏うのは親しい者同士である事が多い。誰もが知る有名な調合法もあるにはあるが、それでも自分用に少し変えるのが普通だ。
なのに、宮中で書かれた写本と妖が纏う煙の匂いが同じとは、一体どういうことだろうか。
あの蝶が後宮にいる者によって作り出されたとでも?
陰陽寮の陰陽師が陰陽頭に知られずに、自由に後宮に出入りする事はない。しかし、普通の者に式神などそうそう作れるものではない。
「写本を書いた女官に、香を合わせた人を教えてもらったらどうかしら。こんなに似ているのだもの。その方に調合方法を教えた人を辿れば、何かわかるかもしれないわよ」
周防は夫に向けてにっこり笑う。
若君に感謝されてきなさい、とその顔は言っていた。
「助かるよ、周防!」
高也はぱあっと笑顔になって妻に抱きつく。
我が妻はなんてよく気がつくのだろう。
高也が頬ずりしようとすると、周防は顔をしかめて『うっとうしいわ』と彼を押しのけた。




