11 禊祓
楓と利憲が家司を呼ぶと、彼はことの騒ぎを全て知っていた。
そして、主人の異変にも気付いていたようだった。
「やはり、姫は亡くなっておりましたか……」
「誰も世話を命じられていなかったのか?」
主人を放置しておくなど考えられないのだが、と利憲が眉をひそめると、彼はいいえと言って首を横に振った。
「主は誰も母屋にいれなかったのです。新嘗祭から戻られて、その夜から主は中に閉じこもるようになりました。北の方様すら近付けず、お一人で。どなたかに早く助けていただきたかった。本当に助かりました」
「そうか……」
利憲が紙と硯一式に清らかな水を頼むと、家司は女房に準備するよう言いつける。そして、再び静かに話し始めた。
「姫は少し前から病に伏せっておられました。主は毎日ご自分で病の祓を行っていたのです。もちろん薬師にも診せておりましたが、手に負えないと言われまして……」
誰にももう救うことはできない、そう言われた娘を救おうと、神祇官である父は必死で神に祈りを捧げていたのだ。
「あの日の夜、わたくしが様子を伺いに参りましたところ、主は姫を前に伏して激しく嘆かれておりました。驚いておそばへ近寄ろうとしましたところ、入るなと強く叱られ、出ていくように言われたのです」
それから母屋には日に二度、食事を持っていくだけになっていたのだと家司は語った。
楓は壁代で囲まれ、白煙が立ち込めていた部屋の様子を思い出す。あの香は家人に姫の死を悟られないよう、匂い消しの意味で焚かれていたのだろうか。
利憲はふむと顎に手を当て、首を傾げた。
「そなたは姫の死を嘆く主人を見ていたのに、何故『やはり亡くなっていたのか』と尋ねたのだ」
状況を見れば何が起こったのかは明らかだ。なのにどうして彼は姫の死に確証を持っていなかったのだろうか。利憲の問いに、楓も不思議に思う。
すると、家司はその問いを待っていたかのような面持ちで、利憲にある事を伝えた。
「女が主を訪ねて来ていたのです」
「女?」
はい、と家司は強く頷く。
「あの日、母屋には主の客人として若い女が一人、主と一緒におりました。姫の容態は悪くなる一方でしたので、主は姫の病を祓うために呪術師を連れてきていたようなのです」
「女の呪術師?」
京の市井や地方には、口寄せや軽いまじないの得意な巫女が確かに存在する。しかし、陰陽師のように『呪術師』と呼ばれるような女性は、あまり聞いたことがない。
しかし、家司は利憲の疑問の声に当然だという顔をしつつも、それでもそう考えるに足る事実を持っているようだった。
「呪術師でなければなんでございましょう。主には人払いを命じられましたが、わたくしは不安になって陰で控えておりました。そして、確かに聞いたのです。その女が、『たとえ死んだ者であっても、三日のうちならば甦らせることができる』と言うのを」
死者を甦らせる?
その言葉を聞いた楓と利憲は顔を見合わせた。
「利憲様、そんな呪術があるのですか?」
「死者を甦らせるなど、理に逆らうこと。そんなことができるわけない」
少副は姫が生きていると言っていた。
それはもしや……。
「幻術か」
低い声で利憲が呟く。
ひとときの利益を得るために、甘言でもって騙す。そういう輩もたくさんいる。
少副の姫を想う心につけ込み、死者が甦ったという幻を見させたに違いない。
「原因がわかった。その女の術師は薬かなんらかの道具を持ってはいなかったか?」
「いいえ、特には。わたくしはちらりと姿を見ただけですのでわかりませんが」
家司が首を横に振る。
と、ちょうどその時、女房が頼まれていたものを盆に乗せて運んで来た。
「どうぞ」
家司に盆を手渡された利憲は部屋にあった文机に向かう。
墨をすり、紙を広げると小さく呪を唱えた。
みるみるとその場の空気が張りつめていく。
そばにいた楓の目には、利憲の背から薄く青白い光が立ち上るように見えた。
数日かけて作るはずの札をものの四半刻ほどで作り上げた利憲は、書き上げた形代となる札を楓に手渡す。
「行くぞ」
「は、はい」
慌てて背中を追う。
少副には斉彬が別室で付き添っているはずだ。
家司の案内で二人が部屋に着くと、そこには不安げに座る少副と、他愛のない世間話で彼の心を和ませようとしている斉彬の姿があった。
「姫は……!」
顔を見るなり立ちあがろうとする少副を手で制して、利憲はやわらかい笑みを浮かべる。
「姫は式神が守っておりますゆえ、ご安心を。それよりも少副殿の御加減もあまり良いとはいえないご様子。少しばかり撫物で祓をさせていただこうと思います」
「撫物?」
「少副殿、楓は陰陽生ながら祓は主上のお墨付きなのですよ。弘徽殿の女御様の病も祓った腕前です」
斉彬のすすめに少副は戸惑いながらも頷いた。どうやら斉彬が色々と話をしていたおかげで、だいぶん落ち着いてきたように見える。
利憲は彼の正面に座り、楓を隣に導いた。
そろそろと楓も座って札を持つ。
「楓、少副殿に祓を」
「はい。少副様、これを手にお持ちください」
楓が少副に札を渡す。
そして、それを見た利憲は、静かに祓詞を唱え始めた。
「高天原に神留まります神々の大前を、かがらわせて恐み恐みも白さく、掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓え給ひし時に成り座せる祓え戸の大神たち、諸々の禍事罪穢を祓え給へ清め給へと——」
利憲の低く響く祝詞の音の波を感じながら、楓は少副の持つ札に意識を寄せる。
目を閉じると、身のうちに僅かに白く光る輝きが見えた。
(この方を侵している穢れを祓うのよ)
僅かな迷いが楓の胸にはあった。幻術を解き、受け入れ難い娘の死に直面させるのは、果たして救いと言えるのか。
しかし、自分がそうであったように、乗り越えた先に必ず光はある。そう楓は信じて祈る。
まもなく、ゆらゆらと少副の身体は揺れ始め、そしてその場に崩れるように伏す。その手からこぼれ落ちた札は黒ずんで、そして灰のように脆く砕け散った。
斉彬が慌てて少副の顔を覗き込むと、彼の口からは規則正しい呼吸の音だけが聞こえていた。




