10 愛
少副の高笑が響く中、半分垂れ下がった壁代をはためかせるように、一陣の強風が屋敷の中を渡る。
その風は立ち込めた煙を吹き飛ばし消し去って、少副のくずれた髪をさらに乱した。
「少副殿……、本気でそう思っておられるのですか?」
斉彬は愕然とした表情をしていた。
動かぬ身体を抱きしめ笑みを浮かべる師に向けて、信じられないといった声色で尋ねる。
その問いかけに、少副は笑うのをやめると、弟子に向けて大きく頷いた。
「姫はしばらく病で床についていたのだが、祈りの甲斐あってこの通りだ」
「私には姫が動けるようには思えませぬ」
師を見つめる斉彬に、少副は何を言うかと瞳を暗くし睨みつける。
「何をしに来た、中将。いくらお前といえど、今は姫とは会わせるつもりはなかったのだ。姫はやっと病が癒えたところなのだぞ」
「どうかしております! 姫はすでに……」
「触るな!」
目の前に伸ばされた手を、少副はパシリと払いのけた。
「出て行け。姫が怯えているではないか! ——ああ、大丈夫だ。心配するな。誰もそなたに触れさせはせぬ」
血走った目が斉彬に向けられる。
後の言葉は姫に向けたものだろう。魂の抜け殻に本気で少副は語りかけていた。
——これは、正気ではない。
袖を握りしめたまま立ちすくむ楓を、利憲がそっと後ろへ下がらせる。
そして、彼は斉彬の横へ並ぶと膝をつき、少副に静かに語りかけた。
「少副殿、陰陽頭です。神祇伯殿から依頼を受けて来ました」
「神祇伯殿……?」
上官の名前に一瞬現実に呼び戻されたのか、少副の目に理性の光が戻る。
「我々は姫君の病を祓いに来ました」
「姫の病はもう治って……」
「いいえ、姫君の病はまだ癒えきってはおられぬ様子。どうか姫を褥に休ませてあげてください」
利憲はなだめるようにそう言うと、斉彬に目配せした。少副は戸惑うように腕の中の姫と陰陽師とを交互に見ている。
勢いを失った少副から斉彬が小柄な少女を受け取り、そっと八重畳の上に寝かせた。青白い頬をした姫は、眠っているかのように穏やかな顔をして目を閉じている。
「斉彬、少副殿を別室へ」
「わかった。……さあ、少副殿、ここは陰陽頭に任せて。我々は少しだけ座を外しましょう」
「い、嫌だ。姫、私は姫のそばに……」
まるで駄々をこねる子どものようにイヤイヤをする少副を、斉彬が抱えるように立たせて連れてゆく。
二人が出てゆく後ろ姿を見送りながら、利憲は楓に向けてそばに来るよううながした。
「利憲様、姫君は……」
「事切れてからすでに数日は経っている」
「少副殿は姫が生きているとおっしゃっていましたが」
「錯乱しているな」
姫の腕の強張りを確かめながら、利憲がつぶやく。
「物の怪の気配もない。姫の中身は空虚だ」
妖の類が姫を操り、少副を惑わしているわけでもなさそうだった。
楓も利憲の隣に座り、ぴくりとも動かぬ身体を見つめる。
誰がどう見ても生きているとは思えない。
姫の死が受け入れられず生きていると幻想するほど、彼は娘を愛していたのだろうか。楓は痛ましさに胸を押さえた。
亡くなってからずっと父は娘を抱きしめ、語りかけていたのだろう。幾日もの間、彼女が答えてくれると信じながら。
「楓、これは病ではなく、別のモノを祓わねばならないようだ」
利憲は銀を帯びた瞳を伏せ、姫の袖の衣をそっと直す。そして、立ち上がると褥に横たわる哀れな姫を見下ろしたまま、楓に問いかけた。
「少副殿に取り憑いた幻を祓えるか? 女神の神力で」
楓はその問いに一瞬答えを躊躇い、黙り込む。
木花知流姫が磐長姫にのまれた長子姫を止めた時のように、幻にのまれた少副を呼び戻す。今の自分に出来るだろうか?
楓の不安を察知した利憲が、やわらかい笑みを見せた。
「私の術よりお前の浄化の方が優しいのだ。安心しろ。お前の神力が常に内にあることは私も感じている。祓の祝詞で引き出してやればよい」
利憲にそう言われ、楓ははっとした。
幻を解くには身体ではなく、精神の穢れを取り除く心祓の儀式が必要だ。
「用意しているのは病祓の呪符です」
「よい。祓に必要な形代は今から私がつくる。あの家司に道具を準備させよう」
「はい」
桁外れの呪力を持つ利憲ならば、潔斎も省略して符をつくれるのか、と楓は驚く。
「姫をこのまま残していくのも良くないな」
そう言って、利憲は懐から式符を取り出すと小さく呪を唱えた。
白い紙が煙となって消えると、目の前に黒い狐が現れる。
「夜狐、少副殿の大事な姫だ。この身体に入ろうとするモノが来ないよう見張れ」
利憲の命に、夜狐は頷き姿を消す。
魂の抜けた器は妖が好む依代となりやすい。
少副が納得し、野辺に送るまでは守るつもりなのだろう。
利憲の配慮に楓は尊敬の念を覚える。
そして、二人は姫を残して部屋を後にした。
「愛というのは、ときに人を滅ぼしかねないものなのだな」
いつのまにか茜色に染まる空の下で、簀子を歩きながら利憲がぽつりと呟く。
それは誰に聞かせるのでもなく、彼の口から自然にもれた声だった。愛情を知らずに育った彼にとって、少副の愛は少なからず衝撃を与えたのだろう。
遠い記憶を呼び戻しているかのように思いに耽る利憲を、楓は声もなくただ見つめることしかできなかった。
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