8 神祇伯
新嘗祭がひとまず無事に終わったものの、宮中は次々と続く行事に向けて皆忙しく活気付いている。
楓は陰陽博士に頼まれた箱を抱えて、内裏から寮へと戻っていた。箱の中には祓に使った道具が入っている。これを片付けた後は、また次の儀式の準備を手伝うことになっていた。下働きの学生は何かと用事を言いつけられるのだ。
しかし、抱えているこの箱は何が入っているのやら少々大きい。
「よいしょ」
声を掛けて持ちあげなおす。大きさもたいがいだが、なかなかに腕力が鍛えられそうな重さだ。
「あっ……、すみません」
箱が大きく前が見にくいせいで、かがんでいた人にぶつかってしまう。慌てて謝罪をしたものの、チッと舌打ちをする音が聞こえた。
「痛いじゃないか! なんだ、おまえ、陰陽寮の学生か?」
後始末に来ていた神祇官の官人だろう。白い袍の若い男が楓を睨みつける。叱られて楓はきゅっと首をすくめた。
「はい……。前が見えなくてぶつかってしまいました。申し訳ありません」
「さっさとあっちへ行けよ。邪魔だ」
追い払うように手を振られる。けれど、色々と道具を持った彼らが道を塞いでいるせいで、荷物を抱えたままでは通れない。困惑する楓を意地悪く見ながら、彼らは口々に聞こえるように話を始めた。
「だいたい祭祀は我ら神祇官の領域なのに、なんで陰陽寮が入ってくるんだよ」
「あいつらの手伝いなんていらないんだ」
「こっちにも卜部はいるのに、いちいち陰陽師ごときが偉そうに口を出してきやがって」
おとなしそうに見える小柄な少年は、格好の不満のはけ口だったのだろう。利憲が神祇官のことを良くは思っていないように話していたことを、楓は思い出す。
(仲が悪いって本当なのね)
何度か神祇官とも話した事はあるが、面と向かって悪意をぶつけられたのは初めてだ。似たような職能を持つ者同士は反目しやすいのだろうか、と楓はのんきに感心する。反論するでもなくじっと待ってみるが、一向に彼らは退いてくれなかった。
これは困った、と重い箱を抱えたまま途方に暮れていると、不意に背後から声が掛けられる。
「一体、何の話をしているのかね」
振り返った楓の目に、白髪の老人の姿が映った。歳を重ねてはいるが背は高く、どこか気品を漂わせている人物だ。
彼は威厳のある顔つきでこちらを見ているが、その目は穏やかで優しい色をしている。身に付けている紫色の朝服は、彼がかなりの高位であることを示していた。
「神祇伯殿!」
「なぜ、こちらに?」
高官の突然の登場に、男たちは驚きを隠せない様子だ。
慌てて頭を下げる彼らに向けて、神祇伯は静かに、されど強い言葉で戒めた。
「我々は神に仕え神の力を乞う。自ら神力を持つわけではない。自身の呪力をもって民を助ける彼等を侮辱するなどもってのほかだぞ」
「……申し訳ありません」
老人が軽く顎をしゃくると、男たちは急いで荷物を持ち走り去ってゆく。
楓はその後ろ姿を見送って、もう一度よいしょと箱を抱え上げた。
神祇伯はその様子を見て微笑む。
「偶然ここを通ったのだが、悪いことをしたね。仕事に誇りを持つのは良いことなのだが、彼らは大切な礼儀を教わる事を怠ったようだ」
「いえ、もともとは僕がちゃんと前を見ていなくて、ぶつかってしまったのが悪かったので」
楓の返答に、神祇伯はふむと顎髭を撫でる。それから、楓の顔をじっと見つめた。
「そなたはもしや、陰陽頭が手元に置いているという学生かな?」
なぜ知っているのだろう。
不思議に思いながら、楓はおずおずと頷く。
「少女のように可愛らしい子だと聞いていたのだが、やはりそうか。鬼を視るのだそうだね」
見鬼の才のことも知っているようだ。楓が目を丸くするのを見て、彼は目を細めた。
「そなたの事は帝から聞いている。陰陽頭とともに弘徽殿の女御を狙う妖を祓ったとか。帝の信頼も厚いようだし、先が楽しみだ」
「そんな……」
帝は楓の正体までは教えていないのだろう。女である楓には、内裏において『先』と呼べる将来はない。
伝えるべき事でもないので黙っていると、彼はちょうどいい、とつぶやいた。
「ひとつ、頼まれてくれるかな?」
「……なんでしょう」
「一人、神祇官が病でね。このところずっと出仕できていないのだ。物の怪のせいなのか、どうにも癒えぬ。そなたは病の祓が得意だと聞く。どうか彼の病を祓ってはくれないだろうか」
神祇伯にそう問われ、楓は少しためらった。今は楓の葉の撫で物は使えない。
この時期は楓の木は葉を落として眠っている。そうやって冬の間に力を蓄えて、また春に新しく芽吹くのだ。
少しの逡巡の後、楓は決心したように頷く。
「数日いただければ、準備をしてうかがいます」
桜子の為に葉が手に入らない時期でも祓えるようにと、楓の葉の代わりに呪符を使う方法を何度か試してみた。勝手は違うのだが、なんとかできそうな気がする。
「ありがたい。頼んだよ」
返答を聞いた神祇伯は、にこりと優しい笑みを浮かべた。
その夜、利憲が三条の屋敷に帰ってくると、楓はいそいで出迎える。
「利憲様、明後日は物忌でお休みをいただいて良いでしょうか」
「物忌?」
「呪符を作るのです」
首を傾げる利憲に、楓は昼間の件を話した。
「神祇伯がそんなことを?」
「とても気さくで良い方でした。神祇寮の人達が、陰陽寮のことを悪く言っているのも諌めてくださって」
楓の言葉に利憲はふっと柔らかい表情を浮かべる。
「彼は私の父と親しかったのだ。父が心を病んでからも度々見舞ってくださった」
そんなことがあったのか、と楓は驚く。そういえば以前、利憲は父親に殺されかけたと言っていた。それにはそういう事情があったのだろう。
それから彼は少し考えると、顔をあげて楓を見た。
「その祓、私も同行しよう」
「いいのですか?」
忙しい利憲の手を煩わせるのはどうかと気を使って、名虎に同行を頼もうかと思っていたのだ。彼がついていてくれるなら、何も心配する事はない。
ぱあっと顔を明るくする楓に『あたりまえだろう』と告げて、利憲はぽんと楓の頭に手をのせた。




