6 朴念仁
寅の刻、霜が降り冷たい空気が衣服から出ている肌を刺す頃、神嘉殿から儀式を終えた帝が出てきた。階の上で立つ左右近衛中将の下へ、利憲を筆頭に陰陽寮の高官達が進み出る。
再び、帝の行列の行先を祓いながら清涼殿へ戻るのだ。
楓は陰陽師達の後ろに続きながら、殿舎を見上げる。
そこに帝を先導するべく待つ斉彬と目が合った。
まだ夜明けは遠く空は黒い。しかし、その夜空に溶け込むような深紫の縫腋の袍に進止冠を被る彼の姿は、いつもの武官姿とはだいぶん印象が違って見えた。
彼が遠く、手の届かない場所にいる。そんな気持ちになって、楓は改めて斉彬の立場を再認識する。
なんだかんだと優しくしてもらっているが、一歩下がってみると彼は左大臣の息子であり、帝の重臣となる事が約束されている貴人に違いない。本来なら気安く話すことなど出来ない相手だ。
少しさみしく思っていると、そんな楓の気持ちを知ってか知らずか、斉彬は周囲にわからないように楓に向かって目配せしてきた。思わず立ち止まった楓に、後ろにいた陰陽生が怪訝な顔をする。
慌てて前に続いて歩きながら、楓は相変わらず冗談が好きな人だなと思い微笑んだ。
「寒……」
楓は冷たくなった手に、はあっと息を吐きかける。
何時間も屋外で待っていたのですっかり手がかじかんでいた。重ね着をしているとはいえ、冬の夜の冷気は厳しい。雪がちらつかなくて良かったと思う。
陰陽寮の者達も篝火のそばで思い思いに暖をとり、明けに始まる次の儀式に備えている。
同じように一旦休憩に入った楓のもとへ、陰陽助と話していた利憲が近付いてきた。
「楓、儀式の始まる前に何を言おうとしていたのだ」
「利憲様」
「……何かを視たのか?」
楓の呼びかけをずっと気にしていたらしい。あの時いつもと違う不安げな声は、妖を見たのではないかと視線が問うている。
——神祇官のところにいた巫の女性。
思わず利憲を呼んでしまったものの、彼女のことを利憲に伝えるべきか、楓は少し迷う。
彼女は儀式の終了後も戻ってくることはなかった。
「妖ではないのですが……」
ただ若く美しい陰陽師に見惚れていただけであれば良い。しかし、楓はどこか引っかかる気がしていた。
言い淀む楓を利憲がじっと待っていると、二人の背後から聞きなれた声がかけられた。
「お疲れ様、二人とも」
振り返ると、左近の中将がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
利憲がぴくりと眉をしかめる。
「お前、帝は?」
「休憩だよ。あちらは近衛府のみんながついているから大丈夫だ。それより楓、庭で待つのは寒かっただろう。こんなところで立っていないで火にあたりなよ。うわっ、冷た!」
楓の手を握って、斉彬は氷のような冷たさに飛び上がった。それから仕方ないなあと呟くと、袍の袖の中に楓をくるみ込む。
「!」
「おい、何をする」
「あんまり身体を冷やしてはだめだよ。君の上司は全く気が利かないねえ」
目を剥く利憲に、斉彬はにやりと笑って見せた。
埋もれた袖から顔を出して、楓はぷはあと息を吐く。
「中将様……、こんなところでちょっとこれはどうかと思うのですが」
「大丈夫、大丈夫。今の楓は陰陽生だろう。次の儀式が始まるまで温めておいてあげるよ」
「お前の所属は近衛府だろ。うちの学生から離れろ」
お前のところの舎人を温めてやれ、と言いながら、べりりと斉彬を引き剥がし楓を救い出す。
斉彬はあーあ、と言って残念そうに肩をすくめた。
「それで、真剣な顔をしてなんの話をしていたのだい?」
どうやら彼は近付いてきた時に、自分達の会話に気付いていたようだ。
「楓、気になることがあるなら悩まないで相談してごらん。利憲はこんな奴だが陰陽頭だけあって頼りにはなるんだよ。新嘗祭に異常があったら困るしね」
「はい……」
うながされた楓は二人に儀式が始まる前に見た事を説明する。
話を聞いた斉彬は『へえ』と言って隣を見た。
「利憲、心当たりはあるかい?」
「いや、全くない。そもそも神祇官とは神祇伯くらいとしか話したこともない」
「同じ儀式の要を担う機関のくせに」
「あっちは格式を重んじる。うちのように実力主義の組織とは気が合わぬのだ」
仕事は一緒に行うが、上の方の職員同士は反目しがちらしい。利憲はムスッとして答えた。
「でも向こうは利憲のことを知っていそうだったんだね。それは気になるな。美人だったのかい?」
「とても綺麗な方でした。昨夜奉納していた舞も、とても」
思い返せば、彼女の舞は誰よりも美しかったと思う。
その答えに斉彬はニマニマとする。
「楓がこんなに気にするとはねえ。ふふ、嫉妬かな」
「え?」
「いけないな、利憲。楓を不安にさせるなんて。日頃の愛情が足りないのじゃないかな。私なら他の女性のことなど気にする暇もないほど可愛がってあげるんだけどね」
そう言いながら肘で利憲をつつく。
「朴念仁もいい加減にして、妻は大事にしておくものだよ。こう忙しいとゆっくり触れ合うことも難しいかもしれないけれど」
「触れ………」
『触れ合う』とはどういう意味か、さすがの楓も察しがついた。
斉彬が言うのだから、絶対例のあれこれのことに違いない。そう考えて、思わず想像してしまい、楓はぼんっと顔が熱くなった。
真っ赤に頬を染める楓を見た斉彬は、ふと何かに気付いたように首を傾げる。
利憲も口をへの字にしたまま、どうやら言葉が出てこないらしい。
黙りこくった二人を交互に見て、彼はどうも自分が思っていた反応と違うことに疑問を持った。
「あれ……もしかして、利憲、お前まだ?」
よく見ると、ふるふると利憲の肩がふるえている。
拳を握りしめてうつむく彼を、このおせっかいな親友は『まさか嘘だろ?』と呟きながらのぞき込んだ。
「私が教えてあげようか? その……やり方を」
「お前はさっさと帝のところへ戻れ!」
明けかけた空に向けて、陰陽頭のぶちぎれた怒鳴り声が高らかに響いた。




