5 巫
十一月の終わりの三十日、楓は目を覚ますとだいぶん日が高くなっているのに気付いて焦る。昨日は深夜まで内裏の儀式を手伝っていたせいで寝過ごしてしまった。
飛燕が起こしに来なかったのは、きっとぎりぎりまで寝かせておこうという配慮だろう。
楓はすぐに自分で身支度をすませた。いつもの布衣ではなく、新しい浅縹の袍を着ているのには理由がある。
今夜、宮中で行われる大祭の一つ、新嘗祭が行われるのだ。
新嘗祭は帝がその年に収穫された穀物を神に供え五穀豊穣を祈る祭祀である。主に神祇官が取りまとめるのだが、陰陽寮もその準備はともにする。
そして、陰陽師たちだけでなく、楓たち陰陽生も儀式に参列することになっていた。
(利憲様の準備は終わったのかしら?)
陰陽頭である利憲は公的儀式では束帯を着ねばならない為、飛燕が着替えを手伝っているはずだ。
自分も妻として手伝うべきかと部屋を訪ねると、そこにはすでに着付けを終えた利憲が立っていた。
飛燕が楓に気付いて手招きすると、自慢げに胸を張る。
「楓様、見てくださいませ。なかなかでございましょう?」
長い髪をすっきりと結いあげ、緋色の縫腋袍に垂纓の冠を身に付けた利憲は、いつもの物憂げな雰囲気とは違い凛として見える。
その美々しい立ち姿に楓は一瞬言葉を失った。
女性のようなすべらかな白い肌に、影を孕む銀の眼差し。まるで月の精が昼の光の元に降り立ったかのような、人ならざる妖のような気配すら漂わせている。
髪で隠されずに露わになった冷たい美貌には、老若男女を問わずきっと誰もが目を奪われることだろう。
「とても素敵です、利憲様」
この人が自分の夫であるとは。急に胸がどきどきしてくるのを平静を装いながら、楓はそう感想を伝える。
飛燕がそうでしょうとうなずきながら、楓に向けて片目をつむった。
「顔だけは誰にも負けないと保証します」
「誇れるところがそれしかないみたいに言うな」
非の打ち所がない完璧な造作だが、本人はあまりそれに価値を見出していないのだ。むっとした顔をする主人を飛燕はさらりと無視し、最後の仕上げと冠を簪で留める。
「今夜は女御も参列する。楓、後方ではなく私の隣にいるように」
「はい」
陰陽生達も陰陽師の補佐として儀式に参列し、利憲と同じく神嘉殿の東の回廊で控えることになっていた。
実際に儀式が行われる建物の中には入れないが、主上や女御たちに何かあればすぐわかる。
「昨日の感じでは変な気配は感じませんでした」
「今夜もそうであって欲しいが。公卿も近衛もそろう大祭で、帝に何かあるわけにはいかない」
利憲の呟きに、楓も同意する。
いつもは早朝に出仕するのだが、今日は儀式に合わせて午後からの出仕だ。
普段歩いて行っている楓も、さすがに今日は牛車に乗るよう利憲に念を押されている。出仕して二人はすぐに内裏へ向かった。
内裏では昨夜のうちにすでに一度祓がなされているが、今日も幣帛を持った者が行き交い、異常はないかを見て回っているようだ。
それ以外の陰陽寮の官人達は、そろって儀式の始まりを待っている。
利憲が到着すると、すぐに陰陽助が進行状況を報告に来た。
「通路の確認は終わりました。この後、再度昨夜と同じく祓を行います。その後、日が落ちて戌の刻から神祇官が祝詞を奏上し供物を整えますので、回廊で控えます。子の刻になると左右近衛中将の先導で帝と女御様がた、太政官が神嘉殿へお渡りになります」
「ああ。始めよう」
利憲は軽く頷く。
それからまもなく、陰陽頭の清涼殿前庭での祝詞奏上の後、陰陽寮の面々は静々と路を進んだ。
帝が通る清涼殿から神嘉殿までの道のりを、陰陽師達が祓の儀式で清めてゆく。楓は一番最後尾から行列を追った。
彼等が幣帛をふり水を撒くたびに、楓の目にはその周囲の空気が澄んだ光を持つように見える。穢れを祓われ、まるで見えない結界に囲まれた路が出来上がっていくようだった。
そうやって儀式の行われる神嘉殿までやって来て、再び祝詞による祓がすむと、陰陽寮の役割はひとまず終わる。
「楓、こちらへ」
利憲に呼ばれて、楓は利憲の隣へ並んだ。陰陽頭と陰陽助の間にちょこんと座る。居並ぶ陰陽師たちの前に下っ端の陰陽生がいるのだ。居心地はとても悪い。
しかし、この場所ならば視界を遮られる事がなく、帝の行列も殿舎の様子もうかがえるだろう。
神嘉殿の前ではすでに神祇官達が集まり、帝の到着を殿舎の回廊で待っていた。神祇伯を頂点とする十人の神祇官とその下の祝部など多数の官人達がずらりと並んでいる。
楓はその中に数人の女性の姿を見つけた。
白い装束を身につけた彼女らも、神祇官に属する一員である。
女性のいない陰陽寮とは違い、神祇寮の巫には女性もいる。後宮以外には女性の官人はいないものと思っていた楓は、昨夜の儀式で彼女達を見て驚いたのだ。
宵の新嘗では神祇官たちの祝詞の後に、巫女たちの神楽舞が奉納された。篝火の灯りの中で白い浄衣で舞う彼女らの姿は、神々しく幻想的だったと楓は思い出す。
(あら……?)
そのうちの一人の巫に楓は目をとめた。
それは自分より五歳ほど年上の、凛とした風情の女だった。
女は艶やかな黒髪を白い元結で纏めて背に垂らしている。黒々とした長い睫毛が縁取る瞳は大きく強い光を宿しており、意志の強さを感じさせる。されどどこか儚さも持つ印象的な美女だった。
彼女はじっとこちらを見つめている。
(私じゃない……利憲様を見ている?)
彼女は行列の少し後ろから陰陽頭を凝視しているように見える。
そして赤い紅をさした唇が微かに弧を描いた。
ぞくりとして楓は思わず隣の人物を見上げる。
彼女の視線の先にいる人物は、気付く様子もなく帝の到着を待っていた。
「利憲様……」
なんとなく落ち着かない気持ちになった楓は、小声で利憲の名を呼んだ。
すぐに気付いた彼は隣を見下ろす。目が合った利憲は、楓の様子にいつもと違うものを感じたのだろう。どうしたのかと不審気な表情を浮かべた。
しかし、先触れの声とともに前方に帝の行列の姿が見えるとすぐに前へ向き直る。
楓も慌てて前を向いた。
しかし、どうしても気になり再び神祇官達の方を見ると、先程の女は列の中には見えなかった。
(何処へ?)
こっそりと抜け出したのだろうか。これから本祭が始まるというのに。
なぜか意識を引かれる、そんな感覚を覚えながら楓は目の前を通り過ぎてゆく行列をうわの空で眺めていた。




