1 待つ女
月のない夜は星々が空を埋め尽くす。
そのうちの一つの光が、明るく弧を描くように瞬いた。
(不吉な……)
行く前方に消えた流れ星を見上げて、男は胸がざわつくのを感じる。
長年質素な暮らしをしていた男だったが、数年前に仕えていた家の息子が国守に任ぜられた。
『どうだ、京で貧乏暮らしをするよりも、私と一緒に来ないか?』
そう誘われた男は、その国守と共に任国へ下ることにした。そして男は妻を京に残し、新しい地で別の妻と不自由なく暮らしていたのだった。
それから四年の任期を終えて、主人と共にまた京に戻ろうという頃、男のもとへかつての妻が病で寝ついているという知らせが届いた。
今は疎遠になってしまったとはいえ、一度は情を交わした妻だ。何か出来ることはないかと、男は慌ててやってきた。
夜道を急いで歩いていると、土塀に囲まれた見慣れた板葺きの屋根が見えて来た。
自分が通っていた頃に比べて、小さな屋敷はやや古びたように見える。門の中へ入ると誰もいない。閂かんぬきもかけられていないことを不審に思いながらも、男は屋敷に上がり奥へと入っていった。
「誰かいないのか」
呼びかけても答える声はない。
覚えているままに妻の部屋へと入ると、ほんのりと薫物の甘い香りが鼻をくすぐる。御簾の向こうには小さな明かりが灯っていた。
「どなたですか?」
女の上品な声が聞こえた。聞き慣れた妻の声は、記憶の中と変わらず優しく耳に心地よい。
ほっとしながら男は返事をする。
「私だよ。長く病にふせていると人から聞いて来たのだ。大丈夫なのかい?」
そう言って御簾の中へ入ると、部屋の中央で座っていた女は男を見て微笑んだ。
「まあ、いつ京へ戻っていらしたの?」
そう言って嬉しそうに笑う女は、別れた頃と寸分違わず美しかった。
「この屋敷はどうしたのだ? 誰もいないように見えるが」
「あなたと別れてから良くないことが続いてしまって、人を雇う余裕もなくなってしまったのよ。みんないなくなってしまったわ」
言いにくそうに伝える女をじっと見ながら、男は妻を捨てたことに罪悪感を覚える。女は申し訳なさそうな男の様子に慌てて首を振った。
「でも、大丈夫。なんとか暮らしているから」
気丈に笑う女の肩に、男はそっと手を置く。
「お前のことを放っておいて悪かった。これからは私がなんとかする」
「でも……」
迷う妻を愛おしく感じ、男は腕の中に女を強く抱きしめた。
「今夜はここに泊めておくれ」
その願いに女は男の背に腕を回して了承した。
しかし——。
翌朝、目覚めた男は呆然となる。
明るくなった屋敷は昨夜とは様相が違っていた。
屋根は所々落ち、青い空が見えている。床はめくれてささくれだち、御簾は破れて垂れ下がっている。どこもかしこも荒れ果てていて、とても人が住める状態ではなかった。
寝ていた自分の隣を見ると女はおらず、そこには薄汚れた着物が落ちている。
(何だ?)
男が着物を持って立ち上がると、からんと乾いた音がした。
白い骨が落ちている。黒ずんだ袴は何故か小さく膨らんでいた。何か丸いものがその下にあるようにも見える。
ふるえる男の手から着物がすべり落ちた。
男は一目散に崩れかけた屋敷を飛び出した。昨夜は気づかなかったが、庭は草が茂り屋敷を囲む土塀もあちらこちらが崩れている。
すると、隣の小さな家から老婆が出て来て、男を見ると驚いたように声をかけた。
「どうなさった? その家はずっと誰も住んでいないのですよ」
「そんな馬鹿な。ここに住んでいた人はどこへ行ったのだ?」
「女性が一人で住んでいたのですが、夫が遠い国へ下ったそうで、それを嘆いて病になったのです。この夏にとうとう亡くなって、誰も葬送する者がいなかったのでそのままになっています」
男はそれを聞いて驚いた。ではあの骨は妻だったのだろうか。
昨夜自分を出迎えてくれた女は、死んだ妻の亡霊か。
背中がぞっと冷たくなる。
朽ちてゆく屋敷を振り返り、妻の姿を思い出して男はぎゅっと目を閉じた。
しかし、とおに時は過ぎていて、今更どうすることもできない。
男はただ、とぼとぼと昨夜通って来た道を戻って行った。
* * *
星を読み占術と呪術でもって京を守る陰陽寮、その長官である陰陽頭の屋敷は都の三条の東の端にある。
人嫌いで有名な彼の屋敷には式神しかいないと常々噂されていたが、最近になって彼が弟子をとり共に暮らすようになったと知られていた。
得体の知れなさゆえに誰もが訪れることを躊躇ちゅうちょするその屋敷に、陰陽頭の親しい友人であり帝の覚えもめでたい左近の中将が訪ねて来ている。
また来たのか、と半眼で腕を組む親友の姿を見ても、彼は全く動じていない。
中将は屋敷の住人たちに先日聞いてきたという話をし終えると、『不思議だよねえ』と肩をすくめた。
「私の知り合いが先日、国守の任期を終えて京に戻って来たのだけれど、これは彼が任国へ連れて行った従者の話だそうだ」
この話をじっと聞いていた楓は、ほうとため息をつく。
「その女の人は亡くなっても愛する人を待ち続けていたのですね」
死んでしまっていた女は可哀想だが、それでも想い続けていた夫に逢えたことは良かったと思う。
一方その隣にいる利憲は、しんみりとする楓を横目で見て、ふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。その男の勝手な幻想だろう。自分を捨てた男のことなど、いちいち覚えていられるか」
そもそも妻を捨てて行く方が問題だろうと文句を言うのを聞いて、楓はそれもそうかと思い直す。利憲の言うことの方が現実的だ。
斉彬はそんな利憲の言葉に、不服そうに唇をとがらせた。
「もう、相変わらず情緒がないな。男女の仲はそんな簡単なものじゃないだろう」
「幽鬼の話だというからどんな内容かと思って聞いてみれば、酔っ払いの妄言のようなものではないか。くだらぬ」
「あ、ひどい。内裏の怨霊騒ぎが解決していないからって、私に八つ当たりするのはやめてくれ」
磐長姫の事件の後、内裏の中で新たな怨霊騒ぎがあった。そのため楓は正体を知った帝から、妹である弘徽殿の女御を守るよう命じられている。
あれからすでにひと月ほど経つのだが、当の幽霊が形なりをひそめているため一向に原因がつかめていなかった。
「楓のためにも、なにか手がかりになるようなものが見つかれば良いのだけれどね」
「他人事のように言うな。内裏の警護は近衛府の役目だろう」
「怨霊関係は陰陽寮が専門じゃないか」
「陰陽寮うちの本来の仕事は主に暦の作成と祭祀だ。それに、祓えの儀式はすんでいる」
色々と大きな出来事があった事もあり、利憲は陰陽師たちと共に内裏に結界を張る四角祭を行っている。四角祭は宮城内の穢れを祓い、悪しきものから帝を守る為の儀式だ。
しかし、その儀式の後も幽霊を見たという女房が出ている。
弱い物の怪程度であれば、祓いきれると思っていたのだが、と利憲は首を傾げていた。
「宮中ではこれから年の暮れに向けて色々祭祀が続く時期ですし、きっと大人しくなってくれますよ」
このまま何もないのが一番です、と明るく言う楓に斉彬もうなずく。
「祭祀といえば、お互いに仕事が忙しくなるだろう? ここにはあんまり来れなくなるから、また寮の方へ顔を出すよ」
「来なくていい。仕事しろ」
「この男はどうしてこう、親友に冷たいんだろうか。ねえ、楓」
ふくれる斉彬とそっぽを向いた利憲を交互に見て、楓はふふふと楽しそうに微笑んだ。
〜*〜*〜*〜
※ 原典 : 『今昔物語集』二十七巻二十四話より
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