後編 人面蜘蛛
利憲はがやがやと騒がしい屋敷内を抜けて、悲鳴のあがった現場にたどり着いた。その途端、案内役の女房は立ち止まってヒッと小さく叫んで飛び上がる。
こんな明るい光の中で常人の目に入る怨霊・妖の類いはまずいない。彼女の前に一体何があるというのだろうか。
利憲は不思議に思いつつ、立ち尽くす女房のその着物の隣から前方を見ようと首を伸ばす。そして目に入った光景に、さすがの彼もぎょっとのけぞった。
「姫さま、危のうございます! そんなものは降ろしてくださいまし!」
利憲の視線の先には勾欄にしがみつきうずくまる少年がいる。これが左大臣の子息であろう。そして、彼のそばには少女が仁王立ちで立っていた。
少女は少年の姉であろうか。利憲より少し上くらいの、非常に美しい凛とした風情の姫である。しかし、その細腕に握られているのは小さな扇ではなく、武者が持つ長い薙刀であった。
反りは少なく刃も太刀ほど長くはない造りのものとはいえ、柄はそこそこ太く少女が握るには重いはず。貴族の姫が何故そんな物騒な武器を振り回しているのか。
そして、少年の方へと目をやった利憲は、すぐに何事が起こったかを理解した。
少年の足に白く細い帯のようなものが絡まっている。彼はそれに足を取られて立ち上がれなくなっていた。そしてその白いものはぴんと張って庭の方へのびており、その先はすぐそばに植っている木の上へと消えている。彼は引きずり込まれようとするのに必死であらがっているのだ。
「た、助けて! 生首が!」
少年の声に冷静さを取り戻した利憲は、彼の指差す木の枝の中を透かし見て何が彼を襲っているのかを理解した。
そこに身をひそめていたのは生首ならぬ、人の頭に脚が生えた姿をした蜘蛛だった。おぞましい断末魔の表情をその背に浮かべた巨大な人面蜘蛛が、獲物を絡め取ろうと白い糸を引いている。
「斉彬、どこに物の怪がいるの!」
姉姫は父親ゆずりの気性なのか、たいそう勇ましい。しかし、何が起こっているのかわかっていないように辺りをきょろきょろと見回してる。姫にはあの蜘蛛が視えていないようだ。
薙刀で少年を拘束する糸を切ることも可能なのだが、視えないままに刃物を闇雲に振り回されてはたまらない。
(あれで斬られるのはごめん被りたいな)
ここは彼女を引かせるのが得策。
利憲は薙刀の間合いに入らないように気をつけながら、姫に落ち着いた声で呼びかけた。
「姫君、危険ですのでお下がりください」
危ないのは自分なのだが、そこは言わないのが礼儀であろう。
利憲の呼びかけに薙刀を構えたまま姫が振り返る。
「その木の上に若君を狙う妖が隠れております」
「誰? 貴方には見えるのね」
「左大臣様のご依頼で賀茂家から参りました。ここは僕にお任せください」
「賀茂家? 陰陽師なの?」
怪訝そうな表情にも無理はない、と利憲は思う。自分と年の変わらない子供に任せろと言われても、すぐには信じられないだろう。
「陰陽頭に命じられて来ました。弟君に取り憑いた妖を祓います」
敢えて堂々と声を張る。その自信たっぷりな様子に、姫も信用する気になったのだろう。薙刀を持つ手を降ろして後退った。
それを確認して利憲は袖から呪符を取り出す。そして、いまだ床に座り込んだまま動けないでいる少年の元へと近付いた。
蜘蛛は幼い子供を狙っている。あの大きさでは大人は喰えぬのであろう。妖としては小物の部類。父の使う式神であれば簡単に砕いてくれるだろうが、わざわざ父を呼ばずとも祓える。
利憲はそう判断すると、呪符を口元に当て小さく唱えた。破邪の呪符はあの蜘蛛にも効果があるはず。
向かってくる利憲に不快を示した蜘蛛は、木の中に張り巡らせた巣の中央でゆさゆさと身体を揺らした。
「ここはお前がいて良い場所ではない」
蜘蛛は時に屋敷を守るが、この蜘蛛はそうではない。どこから入り込んだのか、人間を攫い餌にする妖の一種に違いない。祓うべき危険なものだ。それもこんな日の高いうちから動くとは、よほどこの子供が気に入ったと見える。
利憲は自分もまた呪術を覚えていなかった頃、様々な妖が近づいてきていたことを思い出し嫌悪を覚えた。
蜘蛛を見る利憲の瞳が銀色を帯びる。
「子どもを諦め今すぐ去れ。去らねばお前を消す」
低い声で警告する。しかし、蜘蛛はギチギチと口を鳴らして糸を吐きだした。
利憲に向けて吐きつけられた粘い糸が、しゅるりと彼の左腕に巻き付く。そのままぐいと引かれるのを、利憲は裸足の足を踏ん張って堪えた。
大丈夫、思ったとおりそこまで奴の力は強くはない。調伏は術師と妖との力比べだ。相手の力をはかるのも実践経験。この妖も自身の経験の一つとなる。
利憲は巻き付いた糸を逆にぐいと引き寄せ蜘蛛の動きを止めると、右手の呪符を蜘蛛に向けて投げつけた。
「どちらの力が上か、わからぬならわからせるまで」
呪符が蜘蛛の人面に張りついた。驚いたように蜘蛛がバタバタと長い脚を動かし、その呪符を剥がそうと身を捩る。しかし、利憲は口元に笑みを浮かべて蜘蛛を見つめた。
「消え失せろ。燃えて灰になるがいい」
その言葉と同時に呪符がぼうと火を吹いた。みるみるうちに青白い炎が妖を包み込む。人面蜘蛛は踊るように身をくねらせながら燃え上がり、そして黒い塊となって地面に落ちた。
蜘蛛を包んだ炎は燃え尽きるまで白い煙を上げ続ける。そしてさらさらとした灰となった残骸を地面に残し、ふわりと風がその灰を攫っていった。
「若君、人面蜘蛛はもういなくなりました」
そう言って利憲はうずくまる少年に手を伸ばす。
「ほんとう……?」
きりきりと足を引っ張っていた糸が燃え落ち、解放されたことを知った少年は涙の残る顔を上げた。そして人面蜘蛛のいた木を見てそこに何もいないことを確認すると、自分を救ってくれた恩人に満面の笑みを向ける。
「すごく怖かった。助けてくれてありがとう、綺麗なお姉ちゃん!」
「おね……っ?」
無邪気に礼を言う少年に、利憲は返す言葉を失った。
*****
「それで、中将様が物の怪を見つける度に利憲様が呼ばれていたのですか?」
「ああ。呪術の腕を磨くのにちょうど良かろうと、父と左大臣に言われた」
「まあ」
くすくすと笑う楓を利憲は優しい目で見る。
斉彬との馴れ初めを聞きたいと請われて話し始めたが、楓が楽しそうに聞いてくれるのでついつい色々と話してしまった。
「斉彬は祓う方は教えてもさっぱりなのに、妖を引き寄せる力だけは強くて参った」
「さっぱりで悪かったな」
不意に二人の背後からぬうっと影がさす。
「中将様、いらしていたのですね」
「噂をすれば影、か」
いつものように訪ねてきた斉彬に、利憲はあきれたように溜息をついた。親友の態度にぶすっとしたまま、斉彬は二人の前にどっかりと座りこむ。
「私をダシにして笑うなどひどくはないかい? だいたい利憲みたいになんでもできる方が可愛げがないだろう」
「自分は可愛いとでも?」
「幼い頃は可愛かっただろう。兄を慕う弟のようで」
「私にくっついていたのは、妖退治をしてもらうためじゃないか」
「仕方ないだろう。幼気な童子なのに、虫やら獣やらの化け物がいっぱい寄ってくるんだから」
「途中から女の妖ばかりに魅入られていたがな」
「それも不可抗力!」
楓が仲良く言い合いを始めた二人を見ていると、折敷を持った飛燕がひょっこり顔を出す。
「中将様は一体何をしにこられたのです?」
「さあ……。兄上にご挨拶に、では?」
おかしそうに袖で口元をおさえる楓に、飛燕は甘葛の蜜をかけた削り氷を手渡しながら『兄上とは?』と解せぬ様子で首を傾げた。
せっかく用意された削り氷が溶けないようにと、楓が二人に声を掛ける。顔を見合わせた男達は、言い争いをやめて白く光る銀色の金椀を受け取った。
冷たい氷は熱い口の中ですっと溶ける。ほんのりと甘いそれを三人はしばし無言で味わった。どこからか飛んできたのやら、柱の上の方に蝉が止まっている。静かになった屋敷に響く蝉の声が、あの子供の頃の夏の思い出とふと重なった。




