43 楓の心
楓が四条の別邸に来てから数日が経った。斉彬は毎日顔を見に来ては、色々と話をしていく。楓が漢詩の書物が好きなことを知ると、手に入れてくれたりもする。その書物を読み、周防と一緒に碁を打ったり絵巻物を眺めたりして、楓にとっては穏やかな日々が過ぎていた。
楓は気になっていたが、斉彬は利憲についての話題は避けているようで、彼については何も教えてはくれない。尋ねてみても、いつものように笑ってはぐらかされる。『私のことは気にしてくれないのかい』と、甘く口説かれてしまうので、楓もあまりしつこくは聞けない。ただ、楓のことは大切に思っているようで、無理に手を出すような素振りは見せなかった。
そうしているうちに妖虎の騒動のせいで遅れていた除目が行われ、父・中納言が大納言に昇進したと斉彬が教えてくれた。斉彬自身も左近の少将から中将になったという。そして、弘徽殿の女御がおめでたらしいという噂も斉彬から聞き、楓は素直に喜んだ。
しかし、その話をしに来た斉彬はどこかいつもと違って、楓は心がざわめいた。
「楓子姫、大納言殿に結婚の許しをもらいに行こうと思うのだが、どうだい? まだ貴女のことを彼には伝えてはいないのだけれど、この機会にと思うのだ」
「え……」
楓が驚いていると、斉彬は少し不安そうな顔をする。
「嫌かい?」
「……」
斉彬のことは嫌いではない。周防や飛燕と同じく大切に思っている。もし彼とこのまま一緒に夫婦となったとしても、互いに大切に思いあいながら暮らしていけるのだろうと思う。
しかし——。
楓の顔が一瞬曇ったのを見た斉彬は苦しげに眉をひそめ、それからふっと表情を緩めた。
「また今夜、返事を聞かせてくれないか」
そう言葉を残して出て行く。
斉彬が出て行ったあと部屋に入って来た周防は、その会話を聞いていたようだった。いよいよですねと言って嬉しそうに祝いの言葉を楓に送る。
「初夜の単衣はわたくしにお任せくださいね。準備は万全に整えますわ」
張り切る周防に返事を返すことなく、楓は黙って俯いた。その様子を見て、周防もおかしいと思ったらしい。主人の顔をのぞき込んで尋ねる。
「姫さま、若君との結婚が嫌なのでございますか?」
「……」
「もしかして、姫さまは陰陽頭のことを……?」
周防に聞かれて、楓はぽつりぽつりと話しはじめた。
「周防、私はね、お母様達が亡くなってずっと一人でいた時、もうこのまま忘れられたままなのだわって思っていたの。誰にも覚えていてもらえないまま、一生を終えるんだって。だから、私の代わりに私に似ている桜子には幸せでいて欲しかったの。だから助けたかった。桜子を救うために内裏に行った時、彼女は女御になって皆に愛されて幸せだなって思ったわ」
内裏で病を退けたあと、楓はしばらく女御の身代わりとして一緒にいた。その時、桜子は女御として帝に愛され、周囲の人達からも大切にされていた。何も思い悩むことなどないかのような、幸せな生活。表向きには誰もがそう思っていただろう。
「でも、本当はね、桜子はそうじゃなかった。お父様には政治の道具のように扱われ、ずっと呪詛に苦しんでいて。でも、過去の辛いことも全部抱えて笑っていたの。御所で桜子にあって、私は桜子に教えてもらったわ。桜子は自分で幸せになろうとしていたの。長子姫にも、自分の価値は自分で決めるのだと言って……」
自分と違い、桜子と長子姫には女神であった頃の記憶があった。長子姫はそれに囚われ、今の自分を見失った。けれど、桜子は今をきちんと生きようとしていた。女神であった頃のように流されるのではなく、自分で。
楓は顔を上げて周防を見る。
「私は誰かに必要とされたかった。でも、そうじゃないわ。一方的に愛されるだけなんて、そんなこと求めては駄目。それでは長子姫と同じよ。斉彬様が私のことを必要としてくださるのは、とても嬉しい。だけど私は……、自分の気持ちをまだ彼に伝えられていないの。この状態で斉彬様の北の方にはなれないわ」
「姫さま……」
その夜、楓の部屋を訪ねて来た斉彬は、どこか静かな空気を漂わせていた。
「周防から聞いたよ。やはり利憲の事が気に掛かっているのだね」
「斉彬様、申し訳ありません」
顔を伏せて謝る楓に近付き、斉彬は肩を抱いた。
彼女が利憲を師としてだけでなく、男として慕っていたことには気付いていた。そして、利憲の方も否定はしていたが、人と深く付き合うことに拒否を示す性格から、敢えて恋情を隠しているのだと知っていた。
二人とも斉彬がじれったく思うくらいに鈍感で、全く二人の関係が進まないことに途中から安堵するようになっていた。
だが、彼女は気付いてしまったのだ。
「このまま貴女を抱いてしまいたい。けれど、それは貴女にとっては苦しみでしかないのだね」
楓の頬の上をほろりと水滴が流れていった。斉彬はその涙を袖でおさえる。
「どうして私は君を泣かせてしまうのか」
自分の求めていたものは、こんな恋ではない。
斉彬はぐいと楓を抱き上げた。
「楓、もう一度あの朴念仁と話す機会をあげよう。私は君の泣き顔を見るのは嫌だ」
腕の中で驚く楓に、斉彬は優しく微笑む。
このまま手に入れてしまえば、彼女は自分のものになる。陰陽頭のもとへ連れて行けば、きっともうこの手の中には戻っては来ないだろう。
しかし——。
「笑ってくれ、楓。私は君の笑顔が好きなのだ。たとえ私のそばにいなくても、常に笑っていて欲しい」
斉彬は母屋を出て、屋敷の外へと向い簀子を歩く。
「高也!」
名を呼ばれ何事かと、こけつまろびつ高也が飛んで来た。
「馬を引いてこい!」
「馬! 若君、このような時間に姫君とどちらへ?」
斉彬はその問いに、強い口調で言い切った。
「陰陽頭の屋敷へ行く」




