39 かどわかし
久しぶりの三条の屋敷だったせいか、楓が目を覚ましたのは昼もだいぶん過ぎた頃だった。疲れていたのもあるが、やはりこの屋敷は安心するのだと思う。
「ん……」
意識の浮上と一緒に背中が痛くなり、楓は寝返りをうつ。すると、薄く目を開けた視線の先に、黒色の袴が見えてぎょっとした。飛燕の袴はいつも赤系統のものばかりで黒はない。
がばっと飛び起きると、案の定、枕元に座っていたのは利憲だった。
「と、利憲様、どうして?」
利憲は寝ている側で、じっと自分を見ていたようだ。寝顔を観察されていたかと思うと、楓の頬は羞恥で真っ赤に染まる。掛けていた袿で顔を半分隠しながら問うと、利憲は無表情のままうーんと唸り腕を組んだ。
「あいつが楓の寝顔が見たいと言っていたので、どういう気分なのか考えていた」
「はい??」
謎の発言に混乱しつつ、ただ見ているだけとはいえ、女人の寝顔を適齢期(たぶん二十代)の男性が眺めるのはいかがなものか。楓はいたって常識的な疑問を抱きながら、それでも師は何か学術的探究心でこんな事をしているらしいと、動揺する自分を納得させる。
「それで、何かわかりましたか?」
「……わかったような、そうでないような」
「お役に立てずに残念です」
見られ損だったのか、と楓はなんとなく落ち込んだ。
「身体の具合はどうだ?」
「特にはもう……」
「女神の怨嗟を押さえ込むほどの浄化をしたのだ。どこにも異常が出なくて良かった。神の力は人の身には余るからな。あまり使わぬに越したことはない」
そう言って、利憲は楓の頭を撫でる。
「桜子は……、長子姫はどうなりましたか?」
「女御は問題ない。長子姫は中納言邸へ送り届けた。帝も中納言に非はないと言っておられる。呪詛は終わった」
「そう……ですか」
楓はほっとすると同時に、胸の奥の不安が大きくなるのを感じた。
事件は終わった。これから先、自分はどうなるのだろうか。
楓の浮かない顔に気付いた利憲は、中納言と話した事を楓に伝えた。
「中納言はお前が見つかれば、また受け入れると言っている。今度は身の周りの事も心配いらない。父親としてきちんと面倒は見るだろう」
やはり、という思いが胸を押しつぶす。女御を助けるために、そう言って自分は利憲に願いここに連れて来てもらった。目的を果たした以上、彼は自分を置いておいても利益はない。
父はどうだろう。受け入れると言っても北の方の手前、手放しで喜んで、となるとは思えない。また、あの寂しい生活になると思うと、今の式神たちとの暮らしが楽しいだけに帰りたいとは思わない。
それに、あの父のこと。どこかの有力な貴族の男に楓をあてがうだろう。長子姫にそうしたように。そう思うと、心の奥がちくちくと痛んだ。
出ていくのが筋だ。でも、別れは辛い。いけないとは思いつつも、楓はまだここに置いて欲しかった。
「……帰りたくないか?」
楓の様子に気を遣ったのか、利憲が遠慮がちに問う。しかし、楓は迷惑はかけられないと思い、首を横に振った。
「もう少しだけ、ここに置いていただいても良いですか? 陰陽寮に用事があるのです」
「まだ男の格好をするのか?」
「あと一回だけ。陰陽寮の友人に別れを告げたいので。駄目でしょうか?」
「いや……、構わない」
何故か利憲の顔がほっとしたように見えたのは気のせいだろうか。楓も名虎にお別れが言えることを素直に嬉しいと思った。
翌日、陰陽寮に出仕した楓は、名虎に遠い故郷の国に戻らねばならなくなったと告げた。名虎は急なことにびっくりした様子で楓に迫る。
「おい、嘘だろ? お前この間入って来たと思ったのに、もう辞めるって?」
「そうなんだ。残念なんだけど」
「誰かにいじめられたとかじゃないだろうな! そんな奴がいたらぶん殴ってやる」
「あはは、違うよ。本当に事情があって。帰らなきゃならなくなったんだ」
「せっかく将来有望な同僚が入ってきたと思ったのに」
「ありがとう」
楓が笑ってそういうが、名虎は陰陽博士も残念がるだなんだと、まだぶつぶつ言っている。ここでは自分が必要とされていたのだ、そう思うと一層残念に思う心が慰められた。
じゃあね、と立ち去る名虎に手を振っていると、背後から急にその手を握られる。
「誰?」
驚いて振り返ると、そこには斉彬が立っていた。
「今のは誰だい?」
「陰陽寮の同僚ですが……」
楓は答えながら、何故ここに斉彬がいるのかと疑問に思う。ついでに『落とし前をつける』といった事を思い出して青くなった。まさか中納言の姫である事を黙っていた文句を言うために、わざわざここまで来たのだろうか。
「屋敷に行ったら出仕したというから慌てて追いかけてきたけれど、全く油断も隙もないものだね。利憲だけじゃないとは」
と、わけのわからないことをぶつぶつ言っている。
「少将様、お仕事は?」
「今日も物忌だ」
「は?」
では何故ここ大内裏にいるのだろうか。訳がわからない。楓が怪訝な顔をしていると、斉彬は握ったままの手をぐいと引いた。
「本当の名前を教えてくれるかい? 楓、ではないのだろう。私を騙していたのだから、そのくらいは教えてくれるよね」
半ば脅迫のようだが、楓は一応黙っていた事を悪いと思っているので教えることにした。
「……楓子、です」
「そう。楓子姫、良い名だ。しかし、相変わらずこんな姿でも可愛いね」
「少将様、ここであまりその名を呼ぶのは……!」
慌てる楓の耳元に顔を近づけ、斉彬は囁く。
「斉彬、だ。名を呼ばないとやめないよ」
ぞくっとして楓は耳を押さえて飛び上がる。なんの嫌がらせだろうか。やはりこれは騙していた仕返しなのか。
「な、斉彬様……」
「よくできたね。ついでに教えてくれないか。姫は本当に中納言殿の屋敷に帰るつもりかい?」
「え……」
意外なことを問われて楓は言葉を失う。
「あの方は冷たい。長子姫が追い込まれたのは、父である彼にも責任はある。そんな人の所に私は君を帰したくない。どうだい?」
「でも……、いつまでも利憲様に迷惑をかけるわけにはいけませんから」
俯く楓を斉彬はじっと見つめる。
「本当は、帰りたくない?」
斉彬の確認をとるような質問に、楓はこくりと頷いた。すると、斉彬は何故かにっこりと笑みを浮かべる。
「では、私が攫って行くとしよう」
そう告げると、斉彬はいきなり楓を横抱きに抱え上げた。
「斉彬様、どこへ……!」
「心配しなくていい」
「そんなの無理です!」
攫うと言われて心配しないはずがない。
しかし、斉彬は目を白黒させる楓を抱き抱え、驚くような手際良さで連れ去って行った。




