36 中納言の後悔
まだ陽の上らぬ寅の刻、目立たぬ造りの網代車が、密かに中納言の屋敷の中へと入っていく。一体誰の牛車なのか屋敷の者も知らぬまま、緋色の衣に包まれた大きな荷物が車から下ろされると、それは東の対屋に運び込まれた。屋敷は暗く静まり返り、ただ来訪者を迎え入れた部屋だけが灯台に火を灯し、主人の登場を待っている。
利憲は部屋の中央に座り、中納言の訪れを待っていた。
式神に運ばせた姫の亡き骸は母屋の奥へと連れていかれ、今頃は北の方と無言の対面を果たしていることだろう。何故に、という問いに、利憲はまだ答えを返してはいない。屋敷の主人である中納言は、内裏で姫が殺されるという、あり得るはずのないこの出来事をどう思うのであろうか。
そして——、殺したのは自分だ。
しばらくして、部屋の灯りが風で揺れ、中納言が御簾の中へ入って来た。利憲は居住いを正して平伏する。そして、自分の前に座った中納言が言葉を発するのを待った。
「今宵も女御の護衛に参っていたそうだな」
中納言の声に利憲は頭を下げたまま、はいとだけ答える。
「一の姫は無事かと陰陽頭が問うたのは、こうなることを予見していたのか?」
「……」
利憲は答えない。それが肯定の返事だった。
中納言は顔を伏せたままの陰陽師に、『どうして』とは聞かない。姫がいかにして内裏への門をくぐり弘徽殿にたどり着くことが出来たのかも、問わずとも明らかだった。
「呪詛を行っていたのが、長子だったとはな……。私は謀叛人の父親ということか」
覇気を失った声で中納言はそう呟いた。
「弘徽殿の女御様はお怪我もなく無事でございます。ただ、姉姫がこのようなことになり、心をたいそう痛められております」
「そうだろうな。女御は長子を慕っていた」
「一の姫様のお身体は内密に内裏から運んできております。おそらく、左近の少将と女御様、そして私しか真相は知りませぬ」
「隠せ、と?」
「判断は主上にお任せします。事が明らかになれば……」
言葉を切り黙る利憲に、中納言は口元を歪めて笑う。
「そうだな。少なくとも私は都を追われ、女御も後宮にはおれぬ」
「主上がそれを望むとは思えませぬ」
だろうな、と言って、中納言はほうと深く息を吐いた。
「しかし、長子がどうして呪詛など行うことが出来たのだろうか。妖虎を操るなど陰陽師でもなければ無理な事。ただの姫が何故……」
深い苦悩の刻まれた眉間を見ながら、利憲は中納言に尋ねる。
「中納言様は伊勢を訪れた事がおありでしょうか」
伊勢詣は貴族たちの遊山の一つ。中納言も過去に行っていたとしても不思議ではない。案の定、何故そんな事を問うのか、という顔つきをしつつも、中納言は小さく頷いた。
「姫達が産まれる前に行った事がある。主上が毎朝祈りを捧げる大神に、私も直接祈りたかったのでな」
「何を祈ったのか、良ければ教えていただけないでしょうか」
「何故そんな事を聞く?」
中納言は怪訝な顔をしたものの、案外すんなりと利憲に教えた。
「伊勢で願ったのは、帝に入内出来る娘の誕生だ。娘が主上の妃になれば、出世は間違いないからな。思い通り、姫は入内した」
伊勢神宮に祀られる神は天照大神。帝が毎朝祈りを捧げるのは神を慰めるため。常に祈りを捧げねば神はその清浄さを失い力を失う。それどころか、禍ツ神へと変化して祟りをもたらすのだ。度々祟る女神を鎮めるためにその宮は造られた。
天照大神は生死を司る最も強力な神。中納言の強い願いを聞いた女神は、邇邇芸命をめぐる揉め事を知ってか知らずか、その転生先として中納言に白羽の矢を立てたのだろう。そう、神は気まぐれなもの。
「中納言様、一の姫は古の神の魂をその身に降ろしていました。おそらく伊勢の大神のご意志で」
「なんだと?」
「一の姫は神の巫女、玉依姫でございます」
「……」
娘の意外な真実に、中納言は声を失う。
「姫に宿った神は磐長姫。容姿を理由に帝の祖先の神に捨てられた女神です。一の姫も容姿を理由に虐げられていた様子。神の祟りは姫を粗末に扱ったせいでございましょう」
お前のせいだ、とは言えない。しかし、ここまで言えばわかるはず。姫を追い込んだのは周りにいた者達である事を。
「姫は荒ぶる神にその身を支配されておりました。二の姫の住む西の対屋に蠱毒の呪いを掛けたのも、女御を標的に疫神の呪詛を行ったのも、その神の仕業でございます。姫は帝を狙う邪神に操られておりました」
中納言は利憲の言葉を反芻するように頷いた。
「では、長子は私のせいで……。私が娘を殺したのだな」
そう言って、中納言は目を閉じる。利憲の目の前に、死んだ女のみを見続け地位にこだわる男の姿はもうなかった。
「此度の件は、決して一の姫が自ら望んだ事ではございませぬ。姫は操られ、苦しみ自ら死を願いました。せめて安らかに弔っていただくよう、お願い申し上げます」
長子姫のために優しい嘘をつき、利憲は立ち上がった。彼が少しでも娘の苦しみを理解していれば良いが、と利憲は思う。これが呪詛を終わらせた自分に出来る、姫へのせめてもの償いだ。
そして、もう一つ、確認すべき事がある。
「中納言様、二の姫様の居所がわかるかもしれない、と言えばいかがなされますか?」
陰陽師の言葉に、中納言はぴたりと止まった。
「見つけられるのか?」
中納言の目の中に父親の持つ光を見出し、利憲は頷く。
「姫が望むのであれば、見つけ出す事も可能でしょう」
「そうか……」
頼む、という言葉に陰陽頭はわずかに微笑む。そして白々と夜が明けつつある薄明かりの中、彼は中納言の屋敷からたち去った。




