32 醜女
陰陽師を狙う妖虎の身体が宙へ舞う。
その前に立ちはだかり斉彬が太刀を構えるが、虎の巨体に飛び掛かられては耐えられるはずもない。
「玄武!」
その刃物のような爪が二人に届く寸前、主の呼び声に応えた玄武が側面から牙を剥き虎に襲いかかった。目前で虎の後ろ脚に食らいつき、かろうじてその爪から二人を守る。しかし、獲物を捕らえそこなった虎は、脚を噛む蛇の喉へと反対に食らいつく。
蛇はシャアと怒りの声をあげ、その長い身体でぐるぐると虎に巻きつき締め上げた。
四海を守る神の一柱、玄武の力を凌ぐ神はまずいない。ただの疫神である妖虎が敵うはずもないのだ。——本来であれば。
この妖虎の背後にいる者が、虎の力を増している。それゆえに二匹の力は限りなく拮抗していた。
ぎりぎりと骨の軋む音がする。それでも妖虎の唸りは消えていない。白砂の上で蛇に巻きつかれた虎は、全身から赤い瘴気を放っていた。
しかし、蛇は白い霧によって妖気を抑え込んでいる。
「いけるか?」
斉彬の呟きに、利憲は首を振った。
「……磐長姫の登場だ」
篝火の光の届かぬ闇の深く暗いところで、さく…さく…と砂を踏む音がする。
時折、道に迷い困ったかのように足を止めて、また歩き始める。その音は少しずつこちらへ近付いて来た。
「炎虎……、どこ?」
闇の奥から聞こえたのは、鈴を鳴らすような雅な女の声。
彼女は誰かを呼んでいる。
「どこにいる……? 出てこい」
優しいのに、どこか不気味なその声は、愛しい小さなものを探しているかのようだった。
徐々に近付く足音が止まり、闇の中から男達の前に姿を現したのは小袿姿の一人の女だった。女は頭から深く緋色の単衣を被り、その顔は見えない。
「わらわの猫を知らぬかえ? 可愛らしい赤猫なのじゃが」
まるで場違いな質問を男達に投げかけて、女は衣の中で首を傾げた。
そして絡み合う蛇と虎を見つけると、おやおやと呆れたような声をあげる。
「こんなところで蛇と遊んでおったか。全く、困った奴じゃ」
そう言って男達が見守る中、怖じる素振りも見せず妖虎に向かって近付いてゆく。
「神鳴が落ちる前に帰れ、と申しておいたであろう?」
女は二匹の前に立つと、蛇に締め上げられている虎の頭をそっと撫でた。
虎は食らいついた蛇の首から牙を抜き、身動きとれぬ身体でなんとか女の顔を見る。そして、蛇の拘束から逃れようともがいた。
それをしばし眺めた女は、自分の虎が動けぬことに小さな苛立ちを覚えたようだった。
「蛇……、そなたは北の玄武か。わらわの炎虎をかえしや」
女がそう言うと、玄武はびくりと身を固くする。蛇が女を睨んだ瞬間、女の手から白い光が現れ黒い鱗の上を火花が跳ねた。蛇の身体は利憲に呼ばれた時のように煙となり、そして霧散した。
「!」
驚く利憲達の前で、女は悠然と救い出した虎の首を抱える。
「ずいぶんと痛めつけられたようじゃのう。可哀想に、痛かったか? 無理はするなというたのに」
利憲の背中に冷たいものがながれ落ちた。
なんだ、この女は。
式神の玄武と術者の自分の契約の糸を、この女は一瞬で断ち切り玄武を消した。どれほどの力があれば、そんなことが可能であるというのか。
あの光は先ほどの雷と同じもの。あの落雷も間違いなくこの目の前の女が起こしたものだ。
「わらわの猫をいたぶったのはそなたらか」
女がこちらを向いて首を傾げて尋ねる。
誰も答える者はいない。
女が醸しだすその得体の知れない妖しい空気に、舎人も武士も立ち尽くしていた。
利憲は一人、その空気にのまれることなく女をじっと見据える。
「磐長姫……か?」
利憲がその名を呼ぶと、女は頭に被っていた衣をするりと肩に落とした。
美しい声に比べ、その顔は鬼のように醜い。目と口はやたら大きく、頬はこけて鼻は小さい。まるで人ではないかのような容姿だった。
利憲の顔を見て、ほう、と女の目が細められる。
「わらわの昔の名を知っているとは。そなた、誰から聞いた?」
「誰からでも良かろう。中納言の一の姫、その虎は後宮を乱し人を殺めた。それを命じたのは姫であろう」
ふふふ、と女が笑う。
「命じたわけではない。炎虎は主人の想いを汲んで動いている」
「神の祟りだと言った」
「祟らねばおられぬ扱いを受けたものでな」
「それでも死んだ者に罪はない」
「どうでも良かろう。どうせ束の間しか生きぬ者達だ。そなた達もな」
そう言ってフイと横を向く。
「わらわもまた、この世に束の間の悪夢を見に来たようなもの。人間よりも獣の方がよほど可愛く心がある。わらわを貶めぬからな」
利憲はため息をついた。
これは気の毒だ。彼女は生まれて再び、その容姿を厭われ不当な扱いを受けてきたのだ。
神は正当に奉らねば祟るもの。
磐長姫の怒りは当然のものであると思う。だが、祟る対象はやはり間違えている。
「何故に中納言殿を恨まぬ」
利憲の隣でずっと黙って聞いていた斉彬だったが、思わず思っていたことが口から出た。
それを聞いた姫は、はははと笑う。
「父は伊勢の神に願いをかけて、この世にわらわを呼び寄せた。わらわは父に感謝しておるのじゃ。もう一度気に入らぬ者達を消す機会をくれたのだからな」
そう言って姫は、狂気を含んだ視線を弘徽殿の方へ向けた。抱きしめられた虎は、姫の怨詛の感情を浴びてむくりと起き上がる。
「わらわは磐長姫。わらわを邪神に堕とした神の子孫どもを滅ぼしに来た」




