30 再来
「利憲様!」
弘徽殿から去ろうとする利憲を追って、楓は簀子へ出た。利憲と斉彬の二人は階を降りようとしているところを、楓に呼び止められて立ち止まった。
「どうした、楓」
「中納言はこの事を知っているのでしょうか」
「いや、伝えていない。保身の為に下手に動かれては困るからな」
「でも……、この事は中納言家だけの事ではありません。隠匿する事は女御様も私も望んではいません」
この事が明らかになり、世を騒がせたとして中納言が失脚すれば、おそらく弘徽殿の女御も後宮を追われるだろう。帝がどれだけかばおうとも、後ろ盾を失った妃の行末は暗い。
それでも真実を、と思う二人の心は穢れを知らない。
「楓、この件は解決するまで中納言殿には報告しない」
「少将様……」
斉彬は楓に近付き、彼女の顔をしかと見る。
「主上はなんとしてでも弘徽殿の女御を守ろうとなされている。誰かを死ぬかもしれない身代わりに据えてでもね。私達は主上の臣下だ。今は女御様を守る」
「そう……ですか」
「君の事もね」
俯く楓の肩に手を置き、斉彬は小さく呟いた。
斉彬にとって本当に守りたいのは楓の方なのだ。人によって与えられた憎しみ、妬みが神であった磐長姫を変質させた。神の祟りを鎮めるにはどんな犠牲が必要なのか。女御のそばにいる楓は最も危険な位置にいる。
姫を貶め今世でも再び荒御魂へと追い込んだ、中納言と権の少将を代わりに放り込んでやりたい。そう思うが、きっと姫はそれでは満足しないだろう。過去に囚われた姫が一番執着しているのが、妹姫である女御なのだ。
利憲も斉彬と同じことを考えたようだった。
「楓、女御に一の姫を説き伏せる事ができると思うか?」
利憲の問いに楓は首をひねった。はなから自分が話をする選択肢は、彼にはないようだ。どうやって調伏するつもりなのか。
楓の不思議そうな視線を受けて、利憲は口をへの字にする。
「女心は私にはよくわからぬ。要らぬ事をする男を捻り上げれば済むことを、何故相手の女を憎む。兵部卿宮の姫はとばっちりではないか」
飛燕の言葉を思い出し、楓はこんな時にもかかわらず吹き出した。
「もしかして、くだらないと思っています?」
「よくわかったな。どうせ権の少将も斉彬のように、ふらふらと女のもとを渡り歩くのが趣味なのだろう。嫌なら捨てればよいのだ」
「おまっ……、ちょ、酷い言い草を……。楓が誤解するじゃないか!」
「誤解? 何がだ。参議殿の北の方や式部卿宮の姫にも手を出しているのだろう」
「うわっ、楓、聞くな!」
慌てて楓の両耳を手で塞ぐ。
交流があるのは確かだが、楓に知られるのはまずい。いや、楓も男なのだからまずいと思う必要はないのだが、それでもなんだか知られるのは嫌だ。斉彬は複雑な心中を抱えきらずにぶんぶんと頭を振った。
利憲は斉彬のそんな様子に冷淡な眼差しを向け、そして訳のわからないまま斉彬の手を耳からはがした楓に告げる。
「今夜、来るぞ」
「え?」
「中納言邸に行った時、姫は私の式に気付いていたはずだ。正体がばれた今、すぐにでも動くに違いない」
構えておけ、そう言って利憲は白砂の上に音もたてずに降りた。
それから数刻が過ぎた。
月のない夜、殿舎を照らすのは庭の松明の灯りと、屋内の灯台の火が作る小さな明かりのみである。
虫のチリチリと鳴る鈴のような声が、突如消えた。しんと静まり返る後宮で、警護の者達が踏む砂利の音がかすかに聞こえる。今夜も異変の起こる気配はないと思っていた侍達は、叱咤する左近の少将の声に姿勢を正した。
不穏な空気が漂っている。
利憲は目を細めて周囲を見る。
この気配には覚えがある。
「妖虎だ」
弘徽殿の女御のもとから煙となり玄武が呼び寄せられ、利憲の前に降り立った。亀であった彼は、首を伸ばすとみるみる巨大な蛇へと変化する。
身体に粘りつくような空気は、きっと楓には赤い霧に見えていることだろう。紅い虎が放つ瘴気が弘徽殿の周囲に漂っている。
利憲の隣に、異変に気付いた斉彬が走ってきた。
「来たか」
「ああ……」
短く返答し、利憲は両手で印を結ぶ。
「高天の原に神留まり坐す皇親神漏伎・神漏美の命以ちて、八百万の神達を神集へに集へ給い、神議りに議り給ひて、我が皇御孫の命は、豊葦原の瑞穂の国を、安国と平けく知ろし食せと、事依させ奉りし国中に、荒ぶる神達をば、神掃いに掃い給い……」
利憲の口から紡がれる『解除』の祝詞が周囲に響く。その声が辺りに漂う見えない瘴気を祓い、薄めている。
息苦しさが消えた斉彬は、弓を片手に妖虎の姿を探した。
(何処だ?)
気配を消そうとしたとしても、見鬼の力を持つ斉彬は妖の姿を捉える。
庭の木の陰、殿舎の床下に目を配るが、虎の姿は見えない。
舎人達が口々に声を掛け合いながら、招かれぬ侵入者を探す。しかし、祓えの祝詞に対抗するかのように、更に瘴気は濃くなりつつあるというのに、まだ虎は現れぬ。
玄武がぬるりとその黒曜石に似た鱗を持つ身体をくねらせた。まだか、とでも言うかのように、ちろちろと舌を出し入れし、敵の登場を待ちかねている。
「あそこだ!」
利憲の声と同時に斉彬の手から放たれた矢が、弘徽殿の孫廂の屋根に突き立った。
黒く大きな影が空を飛ぶ。
矢に耳を切られながらも、虎は平然と玄武の前に降り立った。
「ようやく現れたか」
冷たい声でそう言った利憲に向けて、妖虎はその赤い口を開き、にやりと笑った。




