20 飛燕の願い
「ああ、疲れた!」
管弦の宴も終わり弘徽殿に戻って来た楓は、母屋に入るなりそう言ってへなへなと座り込んだ。
以前切った自分の髪で作った髢(つけ毛)も外して、ぽいと髪箱に放り込む。
「あらあら、楓子、はしたないわ」
「許して、桜子。本当に大変だったの。裳唐衣なんて着たことないし、箏の琴なんて爪をはめたのは何年振りかもわからないわ。女御様ってこんなにもしんどいのね」
桜子は口元を袖でおさえて、くすくすと笑う。昔のように会話が出来るのが楽しいので、今は女房達も下がらせている。そばにいるのは飛燕だけだ。
否、女御の座る筵(座布団)の角に、艶々と磨かれた蛤のような黒い亀が転がっている。大きいままでは邪魔だと利憲に言われ、小さく姿を変えた玄武だ。
亀はひょっこり首をもたげて女御の顔を見上げ、頭を撫でてもらうと満足したのかまた頭を引っ込めた。
どうも玄武は面食いだったようで、非常に女御に懐いている。女御も小さな可愛らしい亀が気に入ったらしく、てくてく部屋を歩く姿をいつも楽しそうに見ている。外へ出られない彼女にとって、よい慰めになっているようだった。
飛燕が図々しい亀をつまみ上げて筵の外へ下ろしながら、楓に労いの言葉をかける。
「楓様、よく頑張りましたわ。皆、楓様を弘徽殿の女御様だと思って誰も疑ってはおりませんでしたもの」
「そう? おかしくなかった? 主上がいきなり打ち合わせにない歌を詠んでくるものだから焦ったのよ」
「うふふ、それは私が主上に楓子は頭が良いから大丈夫と教えていたの」
「桜子、それはないわ! 影武者はすると言ったけど、こんな宮中行事のあれこれまで代行すると思っていなかったのよ」
一挙手一投足の隅々までを妃や女官・貴族達に監視されながら、どうにか襤褸を出さずにすんだ自分を褒めてあげたい。
「それでも行ってくれて助かった。まだ私もそこまで体調が戻っていないもの」
桜子は脚をさすりながら感謝の言葉をおくる。ひと月以上伏せった身体は、そう簡単には戻らない。立ち上がっただけで少しふらつく時もあった。
ただ、瘴気の影響がないぶん食事も睡眠も取れるようになり、確実に回復してきている。
「本当は妖虎が来るかなと思ったのだけど、さすがに人が多い所には現れなかったみたい。また、利憲様と相談してみるわ」
「危険でしょ? 本当に楓子が囮になるつもり?」
心配そうな桜子に、楓は安心させるように笑みを見せた。
「大丈夫よ。利憲様はすごいもの。ね、飛燕?」
「はい、楓様。主はきっと呪詛の原因を絶ってくださいますよ。もちろん、楓様はきちんとこの飛燕がお守りいたします」
「陰陽頭が……」
利憲の名を聞くと、意外にも桜子は顔を曇らせる。
「本当に大丈夫かしら?」
「桜子、利憲様は蠱毒の妖を一瞬で消したのよ」
正確には利憲に命じられた飛燕が。だが、飛燕が利憲の式神であるなら同じ事だ。
「そして私をここまで連れて来てくれたの。絶対に桜子を助けてくれるわ」
「楓子は陰陽頭を信じているのね」
「あまり話をしない方だけど、優しいのよ。ね、飛燕」
「はい。少々生い立ちが悲惨で性格は暗いですが、幸い性根はひん曲がらずに育ちました。女性の扱いに慣れておりませんので失礼はあろうかと思いますが、基本的に女性に無礼を働くような事はありません。それに容貌は十分鑑賞するに足る男でございますよ」
そうそう呪力も一流です、と飛燕は真面目に付け加える。
桜子と楓は飛燕の説明に一瞬呆気にとられ、そしてくすくすと笑った。
「飛燕、利憲様に酷くない?」
「わたくしは主の初めての式神ですから、付き合いは結構長いのです。鼻をたれた童の頃から仕えていますからね。近頃の悩みは、主の人見知りがなかなか治らず女性との縁がない事です」
そう言って意味ありげに楓を見る。
「どうにかならぬかと日々思っているところでございますが」
全く気付かない楓はきょとんと首を傾げた。
「左近の少将様に紹介していただくのは? あの方は女性にとても詳しそうだけど」
「あの方のお知り合いは皆遊び上手な姫君ばかり。陰陽道の勉学ばかりで気の利いた歌など送れない主など、歯牙にもかけてくださいません」
何やら察した桜子は、飛燕にやんわりと言う。
「そのうち待っていれば良い縁が出来るかもしれないわ。とても奥手そうですもの」
どちらも、という言葉はあえて口に出さない。
「そうでしょうか? もれなくわたくし達がついてくる主の北の方には、普通の姫君では逃げてしまうのではないかと心配で。やはりここは逃してはならぬと思っているのですが」
「飛燕達がいるとなぜ逃げるの? すごく助かるのに」
「ですからわたくしは楓様が好きなのです!」
ぎゅうと楓を抱き締めて、飛燕が頬ずりをする。
桜子はその様子を眺めながら、飛燕の願いが早く叶うといいわねと微笑んだ。
「ね、桜子、利憲様を信じましょう」
楓の言葉に自分の存在も主張したかったのか、えっちらおっちらと筵をよじ登った玄武が着物の裾まで歩いてくる。
桜子は亀の甲羅を指先でそっと撫でた。
「それでも……、陰陽頭でも神と争う事は出来ないでしょう」
桜子の言葉に楓と飛燕は顔を見合わせる。
神とは?
「楓子は忘れているみたいだけど、私達はずっと昔にも姉妹だったのよ。私はその頃から呪われているの」
俯いたまま、桜子はそう言って溜息をついた。




