19 饗宴の夜
事件後数日が過ぎた。妖による弘徽殿の女御襲撃事件は帝の威信にもかかわるため、表向きは何事もなかったかのように皆口を閉ざしている。
しかし、裏では扇で口元を隠した噂好きの貴族達は、弘徽殿ばかりを贔屓する帝への他の妃達の生霊が具現したのでは、とひそやかに語っていた。
一方、他の女御に仕える女房達は、自分達の主人が狙われていないとはいえ、ごく身近で起こった出来事に戦々恐々としている。
日頃互いに牽制し合い嫌味の応酬に明け暮れていた彼女達も、さすがに今ばかりはよもや自分の前に妖が現れるような事はないかと恐れ、情報交換に明け暮れていた。
警備は更に厚くなり、家に帰れぬ役人達は目の下にクマを作っている。
そんな中、宮中では月を愛でる管弦の宴が開かれた。姿の見えない妖に怯える後宮の、不穏な空気を払拭しようという目的だ。
満月の夜、清涼殿で開かれた宴には全ての妃と女官達がそろい、今上帝の周囲を華やかに取り巻いた。
見目の良い公達が琵琶や篳篥を奏でる中、弘徽殿の女御は病に伏せっていた気配など全く見せず、今上帝の隣で見事な筝の琴の腕前を披露する。
「女御の琴の音色は天上の曲のようだ。ほら、月も恥じて雲に隠れてしまった」
薄雲のかかる満月を扇で指し満足気に誉める帝に、女御は琴の爪を外して平伏する。帝の詠む歌にさらりと返歌を送る様も、仲の良い二人の関係を周囲に伝えている。
それを御簾ごしに透かし見る殿上人たちは、妖のことなど忘れて才長けた女御を口々に褒め称えた。
前庭の白砂の中央に設えた舞台の上では美しい衣装を身につけた舞姫が、奏でられる曲に合わせて優雅な舞を見せている。
公達はそれぞれに酒を飲み、楽を奏で、月や舞姫を歌に詠んでは互いに笑い合っていた。
麗景殿の女御も藤壺の女御も、帝の関心が弘徽殿の女御だけに向いているのもいつもの事と半分呆れ気味に眺めている。悋気をおこすのも馬鹿らしいと、それぞれに仕える女房達と月を愛で宴を楽しんでいた。
左近の少将・斉彬も宴に参加していたが、半分は妖虎が来たとき用の護衛のためである。すみの方にいると、姉である藤壺の女御に呼ばれた。
「あなたは飲まないの?」
酒を勧める女房を断った斉彬に、女御が尋ねる。
「一応まだ仕事中なので。弘徽殿の女御様の護衛を主上に仰せつかっているのです」
「もう、主上もひどいこと。妃の弟に別の妃の護衛をさせるなんて」
「それが私の仕事ですから。藤壺の女御様は呪詛など無縁でしょう」
「あら、どういうこと?」
帝のお召しがない事を皮肉っているのかと不機嫌になる姉に、斉彬は違いますよと答える。
「我ら左大臣家が公正な人柄の者ばかりという意味です。それに私の姉は昔から強くて、物怪にも薙刀を持ち出して私を助けてくださるような気性の方。妖でも敵いませぬ」
「まあ」
目を丸くして抗議の声をあげる女御に、斉彬はくすりと笑って席を立った。
宴の中心から少し離れ、全体が見渡せる場所へと移動する。
「しかしまあ、すごいな。楓は」
帝のいる御簾を眺めて斉彬は小さく呟いた。
あそこにいるのは弘徽殿の女御ではない。入れ替わった陰陽生の楓だ。
琴を奏で、和歌を詠み、まるで女性のように振る舞うのを遠目に見ながら、斉彬は感嘆の溜息をつく。帝は事情を知っており、さも女御を扱うかのように振るまっているせいもあるが、これでは誰も男が女御とすり替わっているとは気づくまい。
楓のそばには青い花薄の襲を着た飛燕がそっと控えている。
万が一、妖虎が襲って来れば、彼女と自分とで虎を取り押さえる事になっていた。利憲は本物の弘徽殿の女御の方へ行っているが、偵察の式は幾つも飛ばしてある。現に斉彬の頭上の屋根の軒にも、蝙蝠が一匹逆さまにぶら下がっていた。
見上げて確認していると、不意に横から声を掛けられる。
「こんな所で色男が隠れていて良いのか?女房達が探しているだろうに」
そう言いながら近付いてきたのは、権の少将だ。彼は中納言の一の姫の夫である。
同僚とはいえ、斉彬にとってはあまり良い印象のない相手だ。
「権の少将殿、貴方こそ私などに声を掛けている場合ではないのでは? 近頃はあちらこちらで噂を聞きますが」
「ははは、君には負けるよ」
斉彬は遊び人を気取っているが、まだ独身。一方、権の少将は歴とした北の方がいるにもかかわらず、何人もの恋人がいるのだ。それも、人妻と遊びと割り切ったやりとりを楽しむ斉彬と違って、初心な姫に手を出しては泣かせていると聞く。
同じ女好きとはいえ、遊び方が感心できない。
「近頃は兵部卿宮の姫に執心されているとか。あまり中納言殿に心配をかけてはどうかと思いますよ」
「大丈夫だよ。中納言殿は遊びに関しては寛容だからな」
「あまり他家に入り浸っていられては、一の姫が嘆かれるのでは?」
「妻は僕よりも猫を可愛がっているよ。妻は自分の容色に難ありなのを理解しているから、僕が自由に恋愛することは承知している。ちゃんと帰ってくる限り、文句は言わない」
「……」
中納言の一の姫は書も歌も素晴らしいが、弘徽殿の女御と違い醜女だと言う噂だ。
斉彬としては、外見が少々地味でも内面が優しく素晴らしければそれもまた魅力的だと思う。しかし、歌も書も代筆であろうが可愛らしい容姿の姫の方が良いという男がいるのも確かだ。
この権の少将はそういう性の男だった。しかも、権勢の良い中納言の後ろ盾を得るために、気に入ってもいない一の姫の婿に入ったのだ。
愛する妻を持ちたい斉彬とは、全く考え方が相容れない。
なのにどうも相手は自分を同類だと思っているそぶりが見える。それがまた斉彬の嫌悪感をそそっていた。
「君は近頃、弘徽殿の女御の護衛を主上から命じられているらしいじゃないか。どうして義理の兄である僕ではないのかと残念に思っているんだよ」
それは権の少将に問題があるからでは、と思ったが斉彬は黙っている。
「木花咲耶姫と呼ばれる女御の顔は見られたか? どれほどに美しいのだろうか。あの御簾が風で飛んでくれないかと願うばかりだよ」
「貴方の北の方の妹姫なのですから、北の方様のお顔をご覧になられたら面影があるでしょうに」
「いやいや、中納言家のどの女房に聞いても姉妹とはいえ全く似ていないという返答だ。少しでも似ていれば、僕もこんなに遊び歩いたりはしないよ。中納言殿もそれがわかっているから、よく婿に来てくれたと感謝しているんだよ」
妻の悪口を公言する男に、斉彬はうんざりしていた。これでは一の姫も気の毒としか言いようがない。なんともつまらない男を夫にしてしまったものだ。どう考えても彼女の方が気の毒だろう。
「まだいなくなった二の姫の方が女御に似ていたという。夜盗に攫われたという話だが、僕がもっと早くに攫っておくべきだったな」
「……用事があるのでもう失礼してよいかな?」
姉妹ではべらしたいとはこの変態が、と心の中で毒づき、斉彬は権の少将の前から逃げるように立ち去った。




