14 呪詛の式神
弘徽殿の前庭まで来た楓達三人は、庭から中へと続く階を駆け上がる。まだ開いている妻戸から中へ入ると、外の釣り灯籠から差しこむ灯りに照らされ乱れた部屋の惨状が浮き上がった。
御簾は半分千切れて垂れ、屏風は押し倒されたように床に転がっている。板の間の隅には、倒れた灯台の油が流れてシミになっていた。芯が飛び火事にならなかったのが幸いか。
先に入った二人の後ろから中をのぞいた楓は立ちすくんだ。
昨晩案内されて入った時とは違い、廂の間は嵐が吹き抜けたように荒れていた。それより何より、目の前の空気が『赤い』のだ。否、利憲達が何も言わないところをみると、これは自分だけに見えているのかもしれない。この建物全体を不思議な赤い霧がおおっていた。
引き裂かれた几帳のすぐ足元に倒れていた女房を、駆け寄った斉彬が抱き起こす。
「息はある」
その言葉にほっとする暇もなく、さらに奥で悲鳴が上がった。
振り返った利憲が床に膝をつく斉彬を促す。
「行くぞ!」
「ああ!」
二人の後ろからついていく楓は、向かう前方に渦巻く濃い霧に二人がのまれるような錯覚に襲われ慌てて頭を振る。
(気を強く持つのよ。これはきっと妖の見せる幻だわ)
あちこちで女房が気を失っているのが見える。
女御は……、桜子は無事なのか。
「一体何が起こっているの……?」
その声がふるえているのに気付いた斉彬が刀を抜き、反対の手で楓の手をとった。そのまま握りしめ、奥へと進む。
斉彬と共に利憲の背を追いかけて、女御のいる母屋の前まで来た楓は、なぜか頬に熱気を感じた。
(熱い……?)
この赤い霧は何なのか。そして御簾の向こうがやけに明るい。まるで燃えているかのように。
「非常時です。無礼をお許しください!」
手を離して楓を利憲の後ろに留めた斉彬が、御簾を押し分けて中へ入る。
それに続いた利憲の背後で、楓は不思議な光景を目にした。
赤く染まる部屋の中で、三人の女房たちが床に伏して倒れている。
その中央で座している女御を見据えているのは紅い虎。霧はその虎を中心に渦巻くように広がっている。
女御の前には利憲が残した式神なのだろうか、艶やかな毛並みの黒い狐が彼女を護るように立ちはだかっていた。しかし、狐の胸にある月型の白い模様が大きく上下している。その背に大きな掻き傷をつけ、肩で息をしながら虎を睨む金色の目は何度も瞬きを繰り返し、これ以上の戦いは無理であろうと思われた。
女御は意識は保っているものの、袖で顔を覆い恐怖にうちふるえているように見える。
「女御様!」
斉彬が弘徽殿の女御の前に飛び出し、妖虎に向けて刀を構える。
虎は紅玉のような毛並みの身体をゆっくりと持ち上げ、新たな獲物と認識したようにぎろりと斉彬を睨んだ。
虎の息づかいが聞こえるような距離で睨み合う斉彬の背後から、利憲が低く呪を唱える。すると赤い霧が突風に煽られるように天井へ向けて吹き流され、妖虎が顔をゆがめた。
機を得た斉彬が無言で虎に斬りかかる。
刀の切先が触れる寸前、虎は身を低くしてかわすと、反対に斉彬に向けてその牙をむいた。間一髪で後ろへ飛び退った彼は、ガチリと噛み合わされた虎の口に刀を突き込む。しかし、刃は虎に届く前にその太い前脚で払いのけられた。
間合いをとった斉彬はすぐに体勢を立て直し、再び虎に刀を向けて牽制する。
グルルル
虎が喉の奥で唸りをあげた。
再び虎の周囲から赤い霧が吹き出て辺りをつつむ。
(この霧は何?)
楓は吸い込むまいと袖で口を覆った。決してこころよいものではない。むしろ、まとわりつくこの霧に本能が警告する。これが妖の放つ瘴気というものなのだろうか。肌をちりちりと焼くような感覚に、楓はこの霧が女御の熱病を引き起こした事を悟った。
この紅い虎は桜子を狙う呪詛の式神。
逃がしてはならぬ。
これを祓わねば桜子が命を失う。
そう思った瞬間、カッと目の前に光が散った。
楓は飛び掛かろうと身構える虎が一瞬透明に透け、その腹の中に篝火のような炎がゆらめくのを見た。
「利憲様、炎が……、虎の中に炎が見えます!」
はっとしたように楓を振り返った利憲は、そうかと呟いて再び虎に向けて人差し指を向ける。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍!」
利憲が素早く九字を切った。
襲い掛かろうとする妖虎がたたらを踏み、その隙に斉彬が素早く女御を抱き上げ後ろへ下がる。
「水剋火! 出よ、玄武」
利憲の言葉が消えるや否や、彼の目の前の床が泡立ち天へ向けて水が噴きあげ渦巻いた。
部屋の中を突如噴出した水が波となってうねる。その飛沫に包まれるも冷たいとは感じない。これは幻影なのだろうか。
水流が水柱となり霧のように消え去ったあと、彼等の目の前には天井に迫る高さの巨大な黒蛇が現れた。蛇はその巨体をギュルリと回してとぐろを巻く。そして、三角の鎌首を紅い虎に向けると、長く赤い舌をチロチロと見せた。




