13 襲撃
少し前、夜闇に包まれた弘徽殿のあちらこちらに灯りがともされ、母屋では女御の為に女房が御帳台を整えていた。彼女は主人の傍らでぱたぱたと上筵を敷き直し、寝所の準備をしている。
このところずっと昼間も起き上がれなかった女御が、今朝は自ら起きて顔を洗った。その後の体調も良く帝が下された絵巻物を眺めて過ごせるほどだったことに、弘徽殿は久方ぶりに明るい空気に包まれた。
昨夜の陰陽頭とその弟子の二人による祈祷が、これほど劇的に女御を回復させるとは。女房は何故もっと早く依頼しなかったのかと、かえって後悔したくらいだった。
「今日は久しぶりに起きられて、ずいぶんお疲れになりましたでしょう。主上も見舞われた時に、驚くほど元気になられたと微笑まれておりましたね」
女房はうきうきと話しながら、女嬬が準備した灯台の位置を直している。
その隣で部屋の主人は脇息によりかかかり、二階棚の上に生けられた花のない葉のみの枝をじっと見つめていた。
「ねえ、この枝をくれたのは誰?」
手を伸ばして緑の葉をつけた楓の枝を、桜貝のような爪先に摘んで尋ねる主人に、女房は手を止めて振り返る。
「陰陽頭ですわ。女御様のご病気を祓う呪符の効果があるそうです。夜お休みになる前に葉を身に付けておくようにと言っておりました」
「呪符?」
ぷつりと葉を一枚摘み、懐紙の上に乗せる。
雪のひとひらを受け止めた時のような、かすかな冷気と清らかな空気の香りが漂った。
連日の身の内に焼けた栗を飲み込んだかのような燃える熱さを、昨夜の祈祷は清々しい冷涼な風でもって払い去った。意識がなかった為にどのような呪術を持ってしたのか不思議に思っていたのであるが、届けられたこの楓の枝に女御の心は騒めいた。
この楓の葉には幼い頃から非常によく覚えがある。
「陰陽頭が本当にこれを?」
女御の疑問に女房は『はい』と答えたものの、女御の納得がいかない様子を見てそういえばと続けた。
「昨晩、陰陽頭が祈祷に来られた時、若い弟子を連れておりました。陰陽寮の学生だと聞いておりますが、楓の葉を使って祓を行ったのはその陰陽生ですわ。おかしいのですよ。その者の名も楓というそうです」
楓の精でもあるまいに、と女房はふふと笑う。
やはり、と女御の唇がほころんだ。
(間違いない、楓子だわ)
母の異なる姉姫。
如何なる手段で陰陽生となったのかは甚だ疑問ではあるが、自分を助けるために動いてくれたのに違いない。
「綺麗な葉っぱ……」
懐紙に包んで胸に抱きしめる。するとひんやりと気持ちの良い空気が身体を包むのを感じた。
病がちだった桜子を、姉はいつも東の対屋に忍び込んで来ては見舞ってくれた。楓子が自分の代わりに、と言ってくれる葉っぱの御守りは不思議と苦い薬より良く効いて、すぐに元気な自分に戻れた。
あの頃は楓子の優しい気持ちが自分を元気付けているのだと思っていた。でも、今ならわかる。この楓の葉はただの御守りではなく、瘴気をはらい病を退ける神力を封じたもの。楓子が守ってくれていたから、自分は無事でいられたのだと。
内裏に来てからしばらくは、不思議なくらいに病が消えた。あんなに度々出ていた熱が、嘘のように消え去ったのだ。
そう、中納言邸を出てから。
やっと気付いた。
ずっと自分は狙われていたのだ。
そして逃れたはずなのに、またここまで追いかけてきた。
呪詛は場所に仕掛ける。中納言邸では三の姫の居室。
今は内裏となり、この守りの厚い場所には仕掛けることができない。
だから、疫神を使役している。
古い古い記憶の中でも同じことを繰り返した『誰か』の姿を思い浮かべて、女御はほうと深いため息をついた。
「いつまでも私のことが嫌いなのね」
女房には聞こえないよう小さく呟き、天井を見上げる。
するとそこに黒い狐の姿を見つけて、女御はにこりと笑みを見せた。
「主人に私を守るよう言われているのね。ふふ、可愛い」
こんなにも嫌われる自分なのに、守ろうとしてくれる存在がいることが有り難かった。
狐は梁の上で寝そべり目を閉じている。しかし、その耳はピクピクと動いており、常に警戒は怠っていないようだ。
「さあ、そろそろお休みになられてください」
女房が座臥具(寝具)の準備ができたことを告げる。
しかし、女御は御帳台へと移ろうとして、周囲の異変に気付いた。
なまぬるい湿り気を含んだ風が、屋内だというに何処からか吹いてくる。その風はねっとりとまとわりつく霧を運んで、みるみるうちに異様な空気があたりに満ちてゆく。
灯台の火がジジジ…と音を立てて小さくなった。
(何か……、来る)
ぞくりと背に冷たいものが流れ落ちた次の瞬間、
「キャーッ!」
表の細殿の方から誰かの悲鳴が響き渡る。
「何事です!」
ガタン、バタン、と大きな音が屋敷の中を駆け巡り、何者かが暴れているかのような音と、それに襲われたらしき女性の声が次々とあがった。
「女御様!」
「危険です、お逃げください!」
二人の女房が駆け込んで来る。
「何事です?」
女御を守るべく女房達が側に駆け寄り、これから来ようとする危険から遠ざけようと反対側へ逃げろと押す。
「早く! 妖が来ま……!」
駆け込んで来た女房が言い終わらぬうちに、御簾を突き破って紅色の大きな塊が飛び込んで来た。
悲鳴をあげる間もなく、一人の女房がその塊に弾き飛ばされ気を失う。
「ああ!」
そして次に女御の目に映ったのは、天井から飛び降りた黒狐が巨大な紅い虎に向かって飛びかかる光景だった。




