終わりと始まり
「なにが、『記憶が戻っただろう?』だ。こんな記憶の戻し方があるものかっ。」陽帝が月華を刺した瞬間、彼の中にある映像が流れた。その時、彼はある名前を呼んだ。かつて、月華と二人でいるときにだけ呼んでいた呼び名だった。月華は分かっていたのだ。記憶が戻っていないだけで、己もまたこの世に生を受けていたことを。
「約束したというのに、守れなかった。あの表情を、もう二度と見たくないから、させたくないから、約束したというのに…」
本来ならば数百人が入れる広間には、陽帝とその側近、護衛を含めてたった5人。陽帝の声は職人の手作業で織られた分厚い絨毯にじわりと吸い込まれていった。陽帝の、黒彦の呟きに返事はない。そして、きっと返事が欲しいわけでもないのだろう。己の中の何かを整理するように、頭の中の言葉を無意識に声にしているようだった。
「そういえば、賭けをしていたのだったな。さて、何を賭けていたか…。」
乾いた笑い声を零しながら、黒彦は少しの間、考え込んだ。月華は何が好きだっただろうか。食いつきの良かった話は何だっただろうか。表情の変わりにくい彼女が、目を輝かせていたものは何だっただろうか。
「はあ。部屋をこのままにしておく訳にもいかん。遺体は安置所に、絨毯は張り替えるように手配しろ。」
努めていつもの調子で側近達に指示を出す。指示を聞いて部屋を後にした彼らを見送り、一人残された部屋で、黒彦は深くため息をついた。
「記憶が戻っても、思い出せないものなのだな…。日記でも付けておけば良かった…。」
ため息と共に吐き出されたそれは、まだ年若い青年がぽつりとつぶやいたような響きがあった。
月華の葬儀は大々的には行われず、ひっそりと、国民に知らされることなく執り行われた。参列者はあの日、あの場に居合わせた、たったの5人。この葬儀は、総理大臣や宮内庁長官を含め、議員でさえも知らないものだった。墓も黒彦の私邸の中庭にある桜の木の下に小さく建てられていた。本当ならば、月華の宮の者達と共に弔ってやるべきなのだろうが、どこに眠っているのか、どれだけ調べても見つけられなかったのだ。
「こんなところで悪いが、勘弁して欲しい。」
季節が巡り、庭の桜が美しい衣を纏って春風にその身を躍らせる頃、黒彦は酒瓶を片手に墓石の横に腰を下ろした。
「何を賭けていたか、調べたりもしたのだが見つけられなかった。お前とて、覚えていないだろう?これで手打ちとしてくれ。一等良いものを選んだのだ。」
墓石をてっぺんから上等の日本酒で濡らし、半分ほどかけたところで自身の衣が濡れることも気にせず、黒彦は墓石に背を預けた。そうして己も瓶から直接酒をあおった。
あの頃の二人は、人の頂点に立つ者、国の安寧を背負う者同士ではなく、確かに友人だった。くだらない話をして、酒を飲み、互いに誓い合った戦友だった。月華を刺したあの日から、黒彦はこう思わないときはなかった。
『もし、再び、争いのない世で共にいられたら、友でいられたら…』と。
願っても、そんな日は二度と来ないだろう。酒瓶片手に執務室まで乗り込んできて、仕事を強制的に終わりにさせられる日は、二度とやって来ない。ゆっくりと声を、かつて語り合ったことを、くだらないことを言ってみせたときのあの笑顔を、忘れていくのだろう。
それでも――。
「それでも、命つきるその時までは、お前のことを語り継ぎ、この国を守ろう。」
桜の香りを胸いっぱいに吸い込み、黒彦は立ち上がると何も言わずに去って行く。この後も仕事が山のように待っている。
『せいぜい足掻け、我が友よ。そなたがこちらへ来たときはその苦労話を肴に花見をするのも悪くなかろう。』
桜の木のざわめきの中、シャラリと金飾りの鳴る音が聞こえた気がした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。気が向いたらというか、思いついたらその後も書きたいな、なんて思っていたりします。