歓迎会の後、新人にお持ち帰りされた件
「どこだ……ここは?」
俺・溝口秀平が目を覚まして最初に口にしたのは、そんな疑問だった。
ついさっきまで眠っていたのだ。ここが自宅でなければ、一体どこだというのだろう。
そう自分に言い聞かせながら、俺は一度目を閉じて、再び開ける。
視界に入ってくるのは、ごくありふれた白い天井。だけど、それはおかしい。
なぜなら我が家の天井には、ベッドの真上にあってはならない形状の不気味なシミがある筈からだ。
しかし、今見上げている天井には、それがない。つまりここは、俺の部屋ではないということで。
……俄かには信じられない状況だな。
依然として現実が受け入れられないけれど、いつまでも横になったままじゃ何もわからないわけだし、取り敢えず体を起こすことにした。
部屋の中を見回すと、見たことのないデザインのカーテンや、俺の購入したものよりひと回り大きいサイズのテレビが目に止まる。うん、やはりここは俺の部屋じゃないな。
ようやく俺は、ここが自宅ではないという結論に達した。
そして思考は、最初の疑問に帰結するわけで。
「本当、どこなんだ、ここは?」
先程は何の回答も得られなかったが、今回は違った。俺の呟きに呼応するように、「ん〜」という声が聞こえる。
……すぐ、隣から。
これまた見慣れぬシングルベッド。見たこともない掛け布団の中で、「何か」がモゾモゾと動く。
恐る恐る掛け布団を捲ると……そこではスーツ姿の女性が、なんとまぁ気持ち良さそうに寝息を立てていた。
女性と言っても、その表情にはどこかあどけなさが残っていて。
……それも仕方のないことだろう。なにせ彼女は、ついひと月前まで学生だったのだから。
今月入社したばかりの新人社員・八田一香。それが俺の隣で寝ている「何か」の正体だった。
……えーと、ちょっと待て。落ち着け、俺。一先ず円周率でも言ってみようか。3.141592…………(ここまでしか覚えていない)。
自らの学の無さに直面したことによって平静を取り戻した俺は、改めて状況を整理する。少なくとも、「ここがどこか?」という疑問は、解消しそうだった。
「……おい、八田。起きろ」
俺は八田の体を揺する。八田はすぐに目を覚ました。
「んにゃ? 溝口先輩ですか?」
「そうだ、溝口だ」
「嘘だー。だって先輩には、ウサギさんみたいにキュートな耳が生えているじゃないですかー」
……前言撤回。
どうやらまぶたこそ開いているが、意識はまだ夢の中らしい。
というか、一体どんな夢を見ているんだ? 生まれてこの方、ウサギの耳なんて生えたことがない。
「いつまでも寝ぼけているんじゃない。緊急事態だ」
少々強引だが、俺は八田の頬をつねって意識を覚醒させる。
「痛いれす」と漏らす八田は、ちょっとだけ可愛かった。
意識も体も起床した俺たちは、テーブルを挟んで向かい合う形で腰掛けた。
念押しとも言える目覚めのブラックコーヒーを一口啜った後で、本題に入る。
「八田。確認なんだが……ここはお前の部屋ってことで良いんだよな?」
「ですね」
「そして俺はお前の部屋で、お前のベッドで、お前の隣で一夜を明かしたと」
「そういうことになりますね」
「……え? 何で?」
事実確認をしたところで、どうして八田の部屋で一晩過ごすことになったのか、それまでの経緯がわからない。まるで思い出せない。
「もしかして先輩、昨日の歓迎会でのことを覚えていないんですか?」
「歓迎会? ……あぁ、そういえば」
確かに昨日は、八田を含む新人たちの歓迎会が催されていた。
同じ部署なのだ。当然俺も参加している。
昨夜の歓迎会は、それはもう大いに盛り上がった。
ウチの部署に新人が配属されるのは二年ぶりのことだったので、張り切った部長がお高めの寿司屋を予約して。主任がいつもじゃ絶対飲まないような高い日本酒を注文して。
美味い飯と美味い酒と、楽しい会話。有意義な時間だったのは、言うまでもないことだ。
でも……
「おかしいな。主任の頼んだ日本酒は美味しかったけど、酔い潰れるほど飲んだ覚えはないんだが?」
電車を乗り過ごしたり、電柱にもたれかかって爆睡するのはマズいと思い、飲酒はそれなりに留めておいた筈だ。
それなのに途中からの記憶がないということは、自分の思っていた以上に酔いが回っていたというこわけか。
酒は飲んでも飲まれるな。飲み会の度に、自分に言い聞かせてきたつもりなんだけどな。
そんな風に反省していると、ふと八田が思いがけないことを口にしてきた。
「まぁ、先輩が寝たのはお酒じゃなくて、睡眠薬が原因ですからね」
「……睡眠薬?」
「はい。無味無臭で粉末タイプのやつなら、意外とバレないんですよ?」
言いながら、八田は自慢げに睡眠薬を見せつける。
……って、ん? ちょっと待て。
睡眠薬とは文字通り眠る為の薬であり、他者に使用すれば眠らせる為の薬となる。
そして俺は昨晩、睡眠薬を日本酒に混ぜて飲まされた。
それが意味するところは、つまり――
「こうなった原因は、お前なんじゃねーか!」
急転直下。犯人の自白と証拠提示によって、「どうして俺が八田の部屋にいたのか?」という謎は瞬く間に解明されたのだった。
睡眠薬を盛ったことを糾弾する俺に、八田は淡々と反論する。
「ですからきちんと、「一服して良いですか?」って聞いたじゃないですか」
うん、確かに聞かれたよ。だけどさ、
「一服ってそっちのこと!? 一服盛るってこと!? タバコ吸ってくるって意味じゃなかったの!?」
彼女の意図した結果かはわからないが、俺は見事に勘違いしていたわけだ。つくづく、日本語とは難しいものである。
俺の八田もスーツを着ているままなわけだし、恐らくそういう行為には及んでいない。
熟睡していて一向に起きる気配のない俺を、家が近くの八田が面倒見てくれたのだろう。
そう言えば親切なように聞こえるが、そもそも俺が熟睡した原因は八田なわけだし、実際のところマッチポンプも良いところである。
「ここがどこなのか?」と、「どうして八田の部屋にいるのか?」という疑問は解けた。最後に残ったのは……「なぜ八田が睡眠薬を使ってまで俺を部屋に連れ込んだのか?」という疑問だけである。
駆け引きとかぶっちゃけ面倒だったので、俺は単刀直入に八田の真意を尋ねてみることにした。
八田は人差し指を唇に当てると、悪戯っ子のように無邪気な笑みを浮かべながら、答えるのだった。
「さあ? 童心に帰ってみたら、わかるんじゃないですかね?」
◇
「童心に帰る」という不可解極まりない発言の意味を聞き出せないまま、俺は八田の家をあとにすることになった。
翌日。
俺は急遽母さんに呼び出されて、実家に帰ってきていた。
日曜で仕事は休みだし、予定もないからどうせゴロゴロして過ごすだけだし。
軽い気持ちで呼び出しに応じたことを、俺は早々に後悔する。
母さんの要件とは……物置の整理だったのだ。
「切羽詰まった感じで「帰ってきてくれ!」って言うから、何事かと思えば……。掃除の手伝いって……」
「四の五の言わないの! 終わったら、美味しい日本酒出してあげるから」
「……睡眠薬とか、入ってないよね?」
「睡眠薬?」と聞き返されたので、俺は「何でもない」と答える。このボケは、八田にしか通じない。
物置の中を整理していると、工具箱の下から一枚の写真が出てきた。
随分と古い写真だ。写っているのは、小さな男の子と女の子。
男の子の方は、俺だろう。この太々しい面構えは、間違いない。
対して女の子の方はというと……うーん、わからん。どこかで見たことあるような気がしなくもないんだが……。
俺が写真を凝視しながら考え込んでいると、突然母さんがぬくっと現れる。そして俺の背後から写真を覗き込むなり、一言、
「あら、それ一香ちゃんじゃない。懐かしいわね」
「懐かしいって……母さん、この子のこと知っているのか?」
「知ってるも何も、近所に住んでいた西田一香ちゃんでしょ? 小さい頃は、毎日のように一緒に遊んでいたわよね。年は確か……アンタより4つ下だったかしら?」
4つ下の、一香ちゃん。そう言われて、俺の脳裏にある可能性が過ぎる。
もしかしたら俺はこの子を、写真以外の場所で見ているのかもしれない。会っているのかもしれない。
それもつい最近。すぐ近くで。
「アンタと一香ちゃん、本当に仲良かったわよね。残念なことに小学生の時、両親が離婚した関係で引っ越しちゃったけど。お母さんに引き取られて、その時苗字が変わった筈よ。今の苗字は、えーと……」
「……八田か?」
「そうそう! 八田一香ちゃん! 何よ、もう! きちんと覚えているじゃない」
覚えているのではなく、思い出したんだ。
子供の頃八田と遊んでいたという思い出も、その時交わした「約束」も。
物置の整理を終えた俺は、一人暮らしの自宅に戻ることはせず、そのまま実家に居座った。
他にも子供の頃の写真が残っているかもしれないと思い、俺は当時のアルバムを引っ張り出す。
こんなことでもない限り、アルバムなんて決して見返さないだろう。
結論から言うと、物置から出てきた写真以上の成果は得られずに、自宅へ帰ることになった。
余談だが、ご褒美として母さんから勧められた日本酒は、丁重にお断りした。
万が一睡眠薬が入っていたら、折角思い出した八田のことをまた忘れてしまうからな。
◇
週が明けて、月曜日。
昼休みに入ったところで、俺は八田に声をかけた。
「昼、一緒にどうだ?」
つい先日あんなやり取りがあったばかりなのだ。当然八田は断らない。
寧ろ何かを期待するかのような、そんな表情をしていた。
内容的に社員食堂で話をするのは憚られたので、職場近くの洋食店に入ることにした。
ただの同僚と来るにはいささかオシャレで、ランチと呼ぶには少し高価だ。
彼女の前で格好つけたかったというのも理由の一つだが、それ以上に子供の頃の思い出を忘れていたことへの謝罪の意味が強かった。
注文を済ませてから、早速本題に入る。
「八田。お前がくれた、「童心に帰れ」ってヒントの意味なんだが……」
「わかりましたか?」
俺は一つ頷く。
「全部わかったよ、一香ちゃん」
「一香ちゃん」。そう呼ばれて、八田は心底幸せそうな笑みを浮かべてみせた。
「ようやく思い出してくれたんですね。嬉しい……」
「その、悪かったな。お前が子供の頃一緒に遊んだ一香ちゃんだと、すぐに気付いてやれなくて」
「見た目も中身も成長してますし、仕方ないですよ。それよりも……全部わかったってことは、あの「約束」も思い出してくれたんですよね?」
「……あぁ、勿論だよ」
当時俺が八田と交わした「約束」。それは……「一緒にお泊まり会をする」という、何気ないものだった。
はたから見たら、大した約束ではないのかもしれない。20年近くも後生大事にし続ける約束ではないのかもしれない。
だけど、八田にとってはそうではなくて。
なぜなら俺たちの交わした何気ない「約束」は、彼女が引っ越したことで終ぞ叶わなかったのだから。
「しかし幼馴染と同僚になるなんて、そんな偶然あるんだな」
「偶然じゃないですよ。運命ですよ、きっと」
「運命って、大袈裟な……」
「大袈裟じゃありませんよ! 先輩……ううん、秀兄ちゃんは、私の初恋の人だから」
秀兄ちゃん。懐かしい呼び名だ。
しかも俺が初恋の人って……。
勘違いや思い上がりじゃなければ、八田の初恋はまだ続いている。
だとすると、俺は大きな間違いをしていたな。
八田が睡眠薬を使ってまで俺を部屋に連れ込んだ理由は、子供の頃の「約束」を履行する為じゃない。俺が好きだからだ。
俺は気恥ずかしさを誤魔化すように、わざとらしく話題を変える。
「ていうか、何で睡眠薬なんて使ったんだよ。素直に「泊まりに来て下さい」って言えば良かったのに」
「それは……「男を持ち帰るなら、睡眠薬が最適よ!」って、おばさんに教えられたから……」
成る程。黒幕は母さんだったか。
子供の頃の「約束」は、既に果たされている。よって、過去の話はこれで終わりだ。
これから考えるべきは、今と未来の話である。
「なぁ、八田。もし良ければ今晩、またお泊まり会をしないか? 今度は俺の部屋で」
「それは構いませんけど……」
「けど?」
「一香ちゃんとは、呼んでくれないんですね」
あからさまに不貞腐れる八田だったが、その希望に応えるつもりはない。
俺にとっての一香ちゃんは、やっぱり写真で見たあの女の子で。それでは彼女に手を出せなくなってしまうのだから。