シベリア抑留兵の祖父を想う
氷点下の1日。
雪も絶え間なく降ってくる。
凍った窓ガラスを見て、朝ごはんを作りながら、シベリア抑留兵の祖父を思った。
祖父は、シベリア抑留兵だった。
復員して、結婚して、色々あって、私の祖父になった。
祖父から直接シベリア抑留の話を聞いたことはない。
小さすぎて、そんなことすら知らなかった。
祖父が生前話していたことを、父や叔父から聞いて、繋ぎ合わせて知っている。
けれど、祖父は、そのままの状態でも、戦争を背負っていた。
他の家のおじいちゃんたちと、違う。
幼い私でも、他の家のおじいちゃんたちが、もっとほんわかして、ゆるんだ空気をまとっていることを知っていた。
祖父は怒りやすい人ではなかったと、記憶している。
孫の私相手だからかもしれないが、別にキレやすい老人ではなかった。
むしろ、何かを抑え込んでいるものを抱えていたように思う。
祖父は、生涯のあいだ、食べるものには困らなかったと言う。
それは本当に、死なない程度に、食べるものがあった、というだけだ。
平成に入ってから、総理大臣の名前でもらったシベリア抑留を慰労する賞状と、銀盃が届いた。
「これで終わりにするつもりか!」
そう言って、銀盃を庭に投げ捨てたらしい。
その銀盃は、まだある。
こっそりと。
戸棚に隠してある。
まったくもって、誇れるものではなかった。
何かの時に、シベリア抑留時代の賃金が示された紙を見たことがある。
少しの数字に、単位はルーブル。
ふざけんな、と思った。
空から雪が降ってくる。
澱のように溜まった冷気の地上へ。
祖父の昼寝をする姿は、今でも覚えている。
まっすぐに体を仰向けにして、ポケットに親指を出して入れている。
顔には新聞紙。
それはピン、と伸びた姿勢で、夏でも冬でも緩むことはなかった。
それが祖父にとっての当たり前なので、私は何も疑問に思わなかった。
その寝姿と同じ姿勢をしている人たちがいると知ったのは、ユダヤ人強制収容所の描写だった。
狭い板の寝台に、折り重なって眠る人たち。
体をまっすぐに伸ばして、できるだけ身を寄せ合って眠る。
そうしないと寒さで死ぬから。
マッチ箱に入った棒のように、人が扱われていた。
そして、それから何年か経ってから、シベリア抑留兵の本を読むようになった。
祖父の昼寝の姿は、シベリア抑留に書かれていた姿勢と、同じだった。
祖父はもう何十年も前に亡くなっている。
それでも、祖父の中にある戦争は、まだ私の中に残っている。
消えない。
終わりの見えない雪が、祖父を思い出させる。
じいちゃん、シベリアはもっと寒かった?
思わず、そんなことを考えさせられる寒波。
みなさんは、暖かくして、お過ごしください。