赤い風船に手が届くまで
XI様主催「男前ねえさん企画」の参加作品です。
「あー! ちーちゃんの風船が!!」
デパートの屋上でもらった赤い風船を、小学一年生の娘が飛ばしてしまった。
かろうじて、木の枝に引っかかってはいるが、おそらく諦めるしかないだろう。
「だから、手を離しちゃダメって言ったでしょう?」
「ママ、取ってー」
「ママも、あんなに高いところは無理よー。それに、お腹に赤ちゃんがいるからね。ジャンプはできないの」
「そうなの?」
「そうなの。ごめんね、千夏。風船は、また今度もらいに行こうね」
「わかった」
娘はわりと聞き分けが良い。
二人目を身ごもってからは、つわりがひどく、あまり構ってあげられなかった。
しかし、千夏が不満を言ったり、駄々をこねる姿を見たことがない。それでも時々、表情が陰ることがある。
もうすぐ、初めての夏休みが終わる八月。
つわりもずいぶん楽になったため、娘と二人でデパートに出かけた。
その帰り道に、大きな公園の中を通ろうかということになり、広い遊歩道を手を繋いで歩く。
しかし、珍しい大きな遊具に気を取られたことで、風船の紐を離してしまったらしい。
(困ったな……)
千夏も諦めるしかないと理解したものの、目に見えて落ち込んでいる娘を見ていると自分も辛くなる。
「取りましょうか?」
何か代わりになる物を……と考えていた時に、明るい女性の声が後ろから聞こえた。
振り向くと、小柄なショートカットの女性が、にっこりと笑っていた。
彼女が身に着けているのは体の線が分かるような、本格的なランニングウェア。太ももやふくらはぎの筋肉がとても綺麗な人だ。
(しまった。こんなにジロジロと見ては失礼ね)
「ありがとうございます。でも、かなり高い場所ですから……」
「たぶん、大丈夫だと思いますよ」
そう言った彼女は、二、三歩後ろに下がって助走を付けてから樹の下で垂直に跳んだ。
「わぁ! お姉ちゃん、すごい!!」
ジャンプの高さにも驚いたが、スタッと地面に降り立つ姿にも見惚れた。娘も感動して、思わず拍手をしている。
「はい、どうぞ。もう離しちゃダメだよ」
そう言って、彼女は千夏の頭を撫でてくれた。撫でられた娘は、小動物のように嬉しそうな顔をして笑っている。
(この子のこんな顔、久しぶりに見たな……)
「お姉ちゃん、ありがとー!」
「とういたしまして」
そのやり取りで、お礼を伝えていないことに気づいた。
「本当にありがとうございます! 助かりました」
「いえいえ。風船って、飛んでいっちゃうと何かショックですよね」
「そうなんです。大人になっても、どこか寂しさを感じますよね。子どもの時は、なおさらで……。そういえば、とても綺麗な跳躍でしたけど、何かスポーツをなさってるんですか?」
「はい。――あ、すみません! そろそろ時間が……。ここで失礼します」
「こちらこそお忙しいのにお引き留めして、すみません。本当にありがとうございました」
「いえいえ」
「お姉ちゃん、バイバーイ」
「バイバイ」
軽やかに走り出した彼女の後ろ姿を見て、どこかで会ったことがあるような不思議な気持ちになった。
帰宅し、少し休憩をしてから夕飯の支度をしていると、興奮した千夏の声が聞こえてきた。
「ママ! ママ! 見て、さっきのお姉ちゃんだよ!!」
千夏に呼ばれてリビングに行くと、器械体操の全国大会がテレビで放送されていた。
先ほど会ったばかりの女性が平均台の上で軽やかにターンしたり、前後開脚で跳んでいる。
まるで、鳥が羽ばたいているようだ。
「木下千鶴……。そうか、『ちーちゃん』だ!」
「ちーちゃん?」
娘が自分のことかと思い、不思議そうな顔をしている。
「あのね、お姉ちゃんは『器械体操』っていうスポーツをしてる人なの。応援してる皆からは、『ちーちゃん』って呼ばれてるんだよ。ママ、さっきは気づかなかったよ」
「ふーん。すごい人?」
「うん、すごい人」
「ちーちゃんも、『ちーちゃん』みたいになれる?」
「そうねぇ……。体操教室に通って、いっっぱい練習したらなれるかな?」
素質や体型など、努力だけでは補えない部分が人にはあるため、可愛い娘といえども断言はできない。
「ちーちゃんも体操したい!」
「えー? お姉ちゃんと一緒のことは、すぐにはできないよ? 足を開いて、ペターってお腹が床に付くようにしたり、でんぐり返しとかするんだよ?」
「いいの! ちーちゃんもしたい!」
「じゃあ今度、教室に行ってみよっか?」
「うん!!」
元気よく返事をしているが、果たして娘に続けることができるだろうか……。
そう思いながら、近所の体操教室に体験の申し込みをした。
あれから約十年が経ち、娘は高校一年生になった。
驚くことに、千夏は体験教室のあとすぐに入会し、今でも器械体操を続けている。
今日は高校の全国大会だ。
中学三年生の時に足首の靭帯を痛めてからは、初めての大きな大会。テーピングで補強しながら、何とか予選を勝ち続けてここまで来た。
これから始まる種目は床。
名前をコールされると、千夏は真っ直ぐに手を挙げて上を向く。体育館の照明を浴びながらピンッと立つ姿が、夏のヒマワリのように見えた。
ジャンプ、バク転、ターン。音楽に合わせて、時折笑顔も見せている。
教室に通い始めたばかりの頃には、とてもできなかった演技をする娘を見て、涙腺が緩む。
しかし、残念ながら結果は二位だった。
一位になるには、総合得点がほんのわずかに足りなかった。
怪我さえなければ……という気持ちもあるが、スポーツに怪我は付きもの。それは皆、同じだ。
銀メダルを首にかけられる時、千夏は一瞬、涙を堪え悔しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔で上を向いた。
翌年、娘の机には一枚の写真が飾られた。
そこには、満面の笑みで金メダルを持つ千夏が、憧れのお姉さんと二人で並ぶ姿があった――。
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