Chapter3
さくさく、とブーツが足元の草を平音だけがする。狼が背中に抱えている大きな剣はしっかり留められているようで、意外に何の音も立てない。
狼の歩幅が大きいのか、単純に歩く速度が速いのか、気を抜くと遅れてしまいそうだったので、娘は小走りで狼の後についていた。
狼は何も言わない。娘は内心焦ったが、ここで自分がべらべらと話し出すのもおかしい気がしたし、そのような余裕もなかった。
明けたばかりの太陽によって現れた自分の影が、もうふらふらと落ち着きがないのに気付いて、娘は情けなくなった。全てはまだ始まったばかりだというのに。
狼は誰も、それは娘も含めてだが、寄せ付けないように見えるのだけれど、目の前で揺れる尾はやはりどこか彼女を安心させた。娘はそれだけを見ながら、歩く。
しばらく歩いてから、視線を前に向けたまま狼が口を開いた。
「此処を西に進んでゆくと、シュッツという村がある」
「大きくはないが不便ということもない」
娘は小走りのまま答えた。
「そうなのですね」
「ご教授していただき、感謝いたします」
「それ」
はい、と顔を上げると、狼がこちらを向いて難しい顔をしていたので、娘は慌てて姿勢を正した。
「その言葉遣い」
「他のものには使わない方がよい」
「そうなのですか」
驚いたような声で答えた娘に、狼は頷く。
「旅人にしてはどこか違和感があるからな」
娘は一寸考え込み、悲しそうな、何かを理解したような目をして、答えた。
「分かりました」
「感謝いた……いえ、ありがとうございます」
そして娘はやっと微笑んだ。ふわり、緩やかな癖を持った、耳の下あたりまでの淡い栗色の髪がゆれた。
狼は少し黙って、それから静かに言う。
「じゃあな」
「お世話になりました」
今度は娘の方が狼より早く、教えられた方角にくるりと向きを変えた。そして何かを決心したように強い足取りで歩いてゆく。村、こっちの方角、しばらく歩く、シュッツという名前…娘の頭はそのことで一杯だった。
…い、おい。
何か聞こえる。
立ち止まり振り返ると、狼がこちらを見ている。娘は慌てて狼の元に駆け戻った。
「何でしょうか」
「お前」
「名は何と言う」
「名前ですか」
「何故驚いたような顔をする」
「俺が訊いたらおかしいとでも言うのか」
とんでもない、と娘は首を振った。そして小さく、答えた。
「ミルフィと言います」
「…ミルフィ」
狼が繰り返したので、ミルフィはどくりと胸が鳴った。
「俺はヴァルダスだ」
「ゔぁ、ヴァル…」
「ヴァルダス」
呆れたように繰り返した。
「それだけだ」
「頭に入れておこうかと思ってな」
「妙な娘の名を」
「妙な……」
ミルフィは笑った。
「ほんとうですよね」
ぺこりと頭を下げて、ミルフィはまた小走りになり、今度こそ狼から離れてゆく。
ヴァルダスさん。頭の中で復唱する。初めて出会ったのがヴァルダスさんで良かった。ミルフィは明るい気持ちになった。
早くシュッツ村に着けば良い。それから彼がどんなひとなのか教えてもらおう。いつかまた、会えるかも知れない。
そのとき少しでも何か話せたら。もっとお話出来たなら。
そこまで考えたところで足を止めると、ミルフィは何となく振り返ってみた。ヴァルダスがこちらを見ているのに気付いてミルフィは恥ずかしくなった。そして今度は落ち着いたように歩き出した。
先ほどより速度を落としながらも、真っ直ぐ背を伸ばした。細い獣道に、すらりと伸びた硬い草がブーツに当たって音を立てる。小さな鞭のようだ。
「……」
ミルフィは懲りずにまた振り返った。ヴァルダスはまだこちらに顔を向けているようだ。ミルフィの頬が少し赤くなった。
変なやつだったと呆れているのだろう。目の届く距離でもまた何か変なことをするのかも知れない、とあの尖った瞳で見ているに違いない。
と考えた途端、前を見ていなかったミルフィは、足元にあった小さな岩に全く気が付かずにブーツの踵を引っ掛けると、そのまま背中からどしゃ、と地面に転がった。蹴り上げてしまった砂利や土が顔面に降ってくる。陽の眩しさとその降ってくるものたちに、ミルフィは思わず目を閉じた。
涙が出てくる。砂が口に入った。土の優しい匂いがする。後頭部を強く打ち付けたのではなくて良かった。いろんなことを一度に考えて、ミルフィは仰向けのまま、しばらく動かなかった。
そして腕で目を塞いで、思った。
こんなわたしに一体何が出来るのだろう。どんなことが待ち受けているのだろう。だから呆れられるのだ。
立ち上がることを決めて、ようやく顔から腕を上げる。目を開けると、そこにミルフィの顔を覗き込んでいるヴァルダスがいた。