第四十八話:異世界で数学を教えることになりそうです。
どうして数学の話をしようと思ったのか。
高校出てから数学なんてほとんど触ってないのに……!
とりあえず、この先でまた数学の話をする時には参考書を買おうと思います。
なんの話や。
ヴォイノフ商会の方々を見送り、私は改めてスヴァンテ様を見ました。
「学業は疎かにしてはいけませんよ」
「大丈夫です。学年主席を譲ったことはありませんから」
「流石の一言ですが、そういう問題でもありませんよ」
呆れて見せますが、スヴァンテ様はどこ吹く風です。まぁ、多少好きにしてもお咎めなしになる立場と実績を確保しているのなら、まだいいのかもしれませんけれど。立ち話も悪いので応接室に案内します。お茶を淹れてもらって一息つきます。
「今週はずっと落ち着かなかったようですが、お体に障ってはいませんか?」
「お気遣いありがとうございます。これでも身体だけは昔から丈夫なので、問題ありませんよ。スヴァンテ様こそ、私たちが知らないところで色々動いてくれたそうじゃないですか。無理なさったりしてませんか?」
「ええ、ボクも身体は丈夫にできていますから。ご心配には及びませんよ」
「それならよかったです」
社交辞令合戦みたいになってますね。何だか可笑しくなって笑えば、スヴァンテ様も可笑しそうに笑います。一頻り笑って、仕切り直しです。先に口を開いたのはスヴァンテ様です。
「一つ、ご報告があって」
「いい知らせですか?」
「ええ、もちろん。特別課程を修めたので、来月から自由にできる時間が増えました。まぁ、生徒会の仕事はありますが、それ以外なら基本、アカデミーは気にする必要はありません」
「つまり、平日もこちらにいらっしゃる日が増えるということですか?」
「そうなりますね。なので、フラーディアに出入りする許可が欲しくて、今日は参りました」
それくらいなら全然構わないというか、わざわざ許可を取るまでもないことだと思いますが。第三王子に訪ねられて、追い返せる人なんていないでしょう。っていうか、それこそ手紙で十分な内容だと思うんですが。わざわざ直接会いに来てするほどの話ではありません。それに今まで通り、異邦のことについて話をするだけならフラーディアに足を運んでもらう必要もありません。人の仕事場に来て、ただ遊んで帰るみたいな真似、スヴァンテ様がするとも思えませんし。ということは、他の意図がある。……面接しろってことか?
「スヴァンテ様は、身分に囚われずにやりたいと思うことがあるんですか?」
「今のところは突き詰めたいほど好きなことはありません。でも、強く興味があることならあります」
「へぇ、なんですか?」
「数字です」
「……数字? 数学ではなく?」
「異邦では数学というのですね。思ったよりもそのままだ。こちらの世界では学問と言えるほど、それは発達してないんです」
数学ってこっちの世界にないんですね。いや、きっとなくはないでしょう。それがそのままそういうものだとされる傾向に強いから、数学が発達しにくかっただけで。現象の理解がなくても魔法は使えますから。むしろ力学的なものがすべて魔法によるものとされるなら、現象そのものの研究は進まないのかもしれません。だから異邦に存在する数学に興味が出たってことでしょうか。
あれ、私、今まで数学の話したことあったっけ?
怪訝な顔をしたからでしょう、スヴァンテ様は笑みを深めました。悪戯が成功した子供みたいな表情です。如何に私を驚かせるか、考えて来たんでしょう。でも数学に興味があること自体は、きっと嘘ではない。
「王位継承権を持つ王子、王女には異邦の方についての情報は逐一報告されます。長い付き合いになりますし、皆様をどう使うかはボクたちの裁量になる時間の方が長くなるからです」
「……それは、そうでしょう。どれが何故、数学の話に?」
「異邦の方は男女関係なく、高度な計算ができる。むしろこちらの想定を軽く超えています。それはつまり、異邦はこちらの世界よりも数字についての学問も発達していると考えられます。数字を使って様々な事柄の基準を作るくらいはこちらの世界でも行いますが、それ自体を学問として研究する人間はあまりに少ない。もし、数字が学問として異邦にも存在しているのなら、ボクはそれを知り、勉強したいと思っています」
「はぁ……。あ、いえ、すみません。とてもいいことだと思います。ただ、数学……。数学か……」
天敵、なんですよね。大の苦手だったくせに高校での選択授業、物理学取って散々な目に遭ったのもあって。世の理を数式で表すそれは面白いとは思いますが。何度説明されてもわからなかったそれを、人に教えられるわけもないんですよね……。これは、困ったなぁ……。
「私は、数学が大の苦手でした。大まかに、異邦で使われていた概念を教えることはできても、詳しくどうだと解説できるわけじゃありません。もし、スヴァンテ様が何かを証明する為に数字を使ったのだとしても、それが正しいと保証できないです」
「それでも結構です。異邦で学問として確立されているそれと、答え合わせがしたいわけではない。それはこちらの世界で新しく数学が発達したときに為されればいいと思う。ボクはただ、世界を知るのに数字を利用できないかと漠然と考えていたに過ぎませんから」
何か前例があるからそれをしたいわけではなく、前例はないけれどそういうことができるかもしれないと可能性を見出した。しかも目を付けたのが数字というのが、純粋にすごいと思います。魔法があるから、科学が発展しない。でも、人間が人間である限り、数学は切っても切り離せないといつかどこかで聞きました。科学系動画投稿者の動画だったかな。もし身一つで異世界にトリップしたなら、一番役に立つのは数学である、と。本当にそうなのかどうかは、私自身が数学ができないので検証のしようもありませんが。この魔法の世界に科学が入ったのだとしたら。魔法と見紛うほどに発達したそれが、実際の魔法と融合したのなら。それは確かに、これ以上なく、面白いかもしれません。
「では、私が知っている数学の問題を一つ」
そう言えば、スヴァンテ様はわかりやすく両目を煌かせました。何を出してくるのか、楽しみだと言わんばかりの顔。それに笑って、私はティーカップを3つと、角砂糖の瓶を持ってくるように言います。
「数学に、ティーカップと角砂糖ですか?」
「実際に物があった方がわかりやすいというだけです。他の物でも変わりありません。少しだけ目を瞑っていてもらえますか?」
「……わかりました」
不思議そうに首を傾げるスヴァンテ様に笑いながら、私は持ってきてもらったティーカップをソーサーの上に伏せて置きます。その内の一つに角砂糖を積んで、3つのティーカップを並べておきます。知っている人は知っているでしょう。モンティーホール問題と呼ばれる、有名な確率問題です。
「もういいですよ。さて、スヴァンテ様。この三つのカップの内、一つに角砂糖が隠れています。どれだと思いますか?」
「え? えぇっと……、ヒントはないんですか?」
「ないです。先ずどれか一つ、直感で選んでください」
「わかりました……、じゃあ、真ん中ので」
戸惑いつつ、スヴァンテ様は言われた通りにティーカップを選びます。選んだそれをお付きの人が手に取ろうとしたので止めます。
「これに角砂糖が隠れている確立は1/3。それはわかりますね?」
「……はい。3つの内、1つということですからね」
「では、ここで私は残り2つの内、1つを開けて外れのティーカップを除外します」
左のティーカップを開け、表に直して置き直します。スヴァンテ様は曖昧な返事をしつつ、続きを促しました。
「角砂糖が隠れているティーカップは、スヴァンテ様が選んだものか、選んでない右のものか。選択し直せますが、どうしますか?」
「……いえ、変えません。2つに1つであることに変わりはないですから」
変えることに意味はない、というわけですね。まぁ、そこが落とし穴なんですけれど。実際に真ん中のティーカップを開ければ、空です。スヴァンテ様は少し残念そうに声を出しました。それに笑って、もう一つを開けます。そこにはもちろん、角砂糖が積まれています。
「実はこれ、選択を変えると当たる確率が二倍になるんです」
「え? そうなんですか?」
「スヴァンテ様が選んだティーカップに角砂糖が入っている確立は3つに1つ。でも、選んでないティーカップに角砂糖が入っている確立は3つに2つ。あとから私が外れのティーカップを確実に教えるので、最終的には選んだ1/3と選んでない2/3の2つに1つになります」
「なるほど、そういうことか……。選んでない2つのカップは片方が除外されることで一つの選択肢に纏まるから、確率が上がる。開けられたカップはただ無意味に除外されたわけではないということですね」
「そうですね。では、最初に真ん中のカップを選び、必ず選択し直す。これを50回繰り返したときに角砂糖入りのティーカップを引き当てる割合はどうなるでしょう?」
「え? えぇっと……、3つに2つを50回……、2/3×50だから……?」
「その計算式が違いますね」
「え? あ、そっか、最初は1/3から選ぶのか……。その後に選び直して2/3にするんだから……」
考え始めたスヴァンテ様は、頭で考えるだけではどうにもならないと思ったのでしょう。紙とペンを要求しました。私と話していることさえ忘れそうな勢いで、流石にお付きの人に止められましたけれど。気付いたのか、スヴァンテ様は気恥ずかしそうにします。
「すみません、あまりに面白くてつい……」
「いえ、いいんですよ。むしろどこまで食いつくのだろうと試させてもらってたので。ちなみにこの問題の場合は試行回数が増えれば増えるほど、66%に近づきますよ。まぁ、本当にそうなのかは、実際に何百回と繰り返さないとわかりませんが」
「しかしこれを何百回と繰り返すのは大変でしょう。……そのための数学、というわけですか」
「そうですね。もしこれが単純なゲームではなく、政治的な高度な駆け引きの中で行われたとしたら……?」
「その選択を取るか、数字という絶対指数を基準に決められる。……やはり、数字という学問は発展させておくに越したことはないな」
それを紙とペンで検証するのが数学。世界の事柄を如何に数字で表すか。実際にやろうと思えば膨大な労力が必要になることも、手を動かすだけで答えを出せる。スヴァンテ様はそれを、面白いと捉えるようです。なら、大丈夫でしょう。
「先に言った通り、私は数学は苦手でした。これくらいの簡単な説明で理論が通るものは教えられますが、詳しく計算式を使って説明することはできません。そこはスヴァンテ様自身に考えていただき、理論を確立してもらうしかありません。異邦に存在している数学の概念を、この世界でも証明する。できそうですか?」
「できるできないではなく、やってみたい。ボクはそう思います」
寸分の迷いもない返事。できるか否かを聞かれたときの返事は最初から決めて来ていたようです。私に近づくための出まかせでもなんでもなく。本気で数学をやりたいと思っている。ならば、止める権利はありません。
「明々後日の月初め、オフィスにいらしてください」
「……っ! じゃあ!」
「はい。歓迎しますよ」
勢いよく身を乗り出してきたスヴァンテ様は今まで見たことないくらい無邪気な笑顔で声を上げました。どこまで協力できるかはわかりませんが、できるかぎりの概念は教えましょう。数学自体は苦手でしたが、こういう理論的な話を聞いたり見たりするのは好きだったんですよね。それが世界にどう影響するかはまだわかりませんが。
異邦だって数学が発展して世界が発展したわけですから。黄金比とかはデザインにも関係ある話ですし。物の耐久性とかは物理学で、数学が大いに関わってきますしね。薬液の濃さで効果が変わるなら、その濃度計算も数学が関わってくるか。スヴァンテ様が数学を深めてくれるなら、今、フラーディアでやってることに幅も広がる可能性がある。
何事も無駄にはならない。スヴァンテ様なら、それを証明してくれる。フラーディアでみんなと一緒に、楽し気に勉強している姿を思い描けば、すごく楽しみになります。とりあえずまずは、スヴァンテ様がオフィスにやってきた時のみんなの反応が楽しみですね。




