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灯蝶の夢

作者: さんこ

 放課後、まだ日が高いにも関わらず校内は既にもぬけの殻のようになっていた。

 小さな山の頂上付近に建つこの女学園は、街の中心部よりも離れた遠隔地にあるため、交通の便がすこぶる悪い。

 通学時間帯のピークであれば短い間隔で来るバスも、そこを外すとめっきり来なくなる。


 加えてこの山の青々とした緑ときたら、夜になれば光も差し込まない程真っ暗闇になるのだ。

 人気(ひとけ)のないカーブの多い道路に、ぽつりぽつりと控えめに立つ街灯の明かりでは、不気味に広がる森の暗闇に対抗するには心許無い。


 だから多くの生徒は塾や習い事などの理由を付けて、日が落ちる前に早々(はやばや)とこの学園を後にする。

 或いは、本能的にこの牢獄のような場所から一刻も早く逃れたかったのかもしれなかった。




 久堂繭美(くどうまゆみ)はそんな生徒達とは違い、ほとんど人のいなくなった校内を一人静かに歩いていた。4階の片隅にある生物準備室で人と会う約束を取り付けていたためだ。

 風紀委員で規律に厳しい彼女は、ジャンパースカート型のセーラー服を着崩す事なくカチリと着こなし、黒髪のポニーテールを楚々と揺らし、その顔には微笑を浮かべて目的地へと向かっていた。

 その微笑みが大きく歪むように崩れたのは、生物準備室へと、あと少しで到着するというところで……。

 彼女は廊下に面している窓からうっかりと、中庭の花壇の手入れを一人の女生徒がジャージ姿でせっせと行なっているを見てしまったがためであった。

 繭美は気を落ち着けるために、女生徒から視線を外し、一度スカートのポケットの中のものを強く握り締めると何度か深呼吸を繰り返した。

 そして何事も無かったかのように生物準備室の前まで行き着くと、間を置く事無くノックをした。

 その顔は先程と同じような、控えめな微笑へと戻っていた。



 今から2ヶ月前、つまり春の頃の事である。

 この女学園に新入生と共に一人の若い男性教員が着任してきた。

 名は影山(かげやま)知樹(ともき)、生物を担当する教員だった。


 この学園に若い男が採用されるのは珍しい。

 何せ居並ぶ教員は皆、初老に足をつっこんでいる中年か老人ばかりであり、生徒は少女しかいないのだから。

 この若い男の唐突な出現は、波一つない静かな湖面に石を乱暴に投げ入れるようなものだった。

 ……波立たないわけがない。

 

 彼が着任の挨拶をするために、生徒が並ぶ体育館の舞台上へと登壇した時、繭美は彼を大学を出たばかりの未熟で凡庸そうな男だ、とそう思った。

 しかし一方で、好奇心に満ちた目で彼を見つめずにはいられなかった。

 それは繭美本来の気持ちだったのか、それとも周囲で高まりつつある熱に同調したものであったのか。

 その心は彼女にも分からない事だった。


 春の出会いから一ヶ月の間、繭美は影山を注意深く観察し続けた。

 授業姿勢、他の教員からの評判、生徒達が話す影山の噂話、そして繭美個人が影山と会話してみて掴んだ感触。

 そこから導き出される答えは、影山は生徒を公平に扱う【真面目で善良で安全な男性教員】である、という結論だった。


 何の面白味もない結論。

 けれど、一生徒としても風紀委員としても安心出来る内容ではある。

 そして繭美自身もこの結論に「誰も選ばないのならそれでいい」と、どこか満足感と安堵を覚えていた。


 

 生徒達の噂話が影山から学外へと移り変わっていったのをキッカケに、繭美もまた心の平穏を取り戻しつつあった。

 湖面に放たれた石を取り除く事は出来ないが、時間が経てば波も治まり、また静かな湖面へと戻るのである。

 彼女は未だ影山の観察を続けながら、このまま自分の心の波も周囲と同じように平坦に戻っていくものだとそう思っていたし、実際そうなりかけていた。



 しかし転機はそこから2週間後に訪れる。


 その日繭美は、委員会活動のために放課後まで居残っていた。

 多くの生徒達が学外へと()けていった後のがらんどうの校舎はとても静かで、だからこそ声がよく響く。


 それを見たのは、本当に偶然だった。

 席を立つ用事ができて、繭美は中庭に面した2階の廊下を一人で歩いていた。

 窓が開いていて、そこから気持ちのいい風と共に何かを話す声と微かな笑い声が耳に届く。


 こんな時間に人の声がするなんて珍しい。


 だからつい、そちらに目を向けてしまったのだ。

 中庭にいたのは影山と、ジャージ姿で放課後いつも土いじりをしているのを見かける同じクラスで寡黙な少女、草薙(くさなぎ)紗羽子(さわこ)の姿だった。


 二人は楽しそうで、どちらも繭美に見せた事のない表情をしていた。

 「いやらしい」

 ポツリと口をついて零れた言葉は、誰に届く事も無くがらんどうの中へと消えていった。

 けれど彼女の中へはしっかりと根付いて、心の奥深くにあるしこりへと到達してぐんぐん成長していくようだった。

 その日の夜、彼女はあの中庭での光景を何度も反芻してしまって一睡もする事が出来なかった。


 美人で品行方正、謹厳実直(きんげんじっちょく)で、それでいて誰からも慕われ人徳がある。

 頭脳明晰でもあり、それを行動に移していける器用さや勇気も兼ね備えている。

 しかも家も裕福でお金の心配もない。

 全くもって非の打ち所のない完全無欠の少女。


 久堂繭美は自身をそう認識し、周囲の人間もまた繭美をそのような人物であると評価していたように思う。

 けれどそれは、そう思われるためにコツコツと陰ながら努力して振舞った結果でもあるのだ。


 彼女は影山や草薙紗羽子を見かける度に、今まで築き上げた人物像という仮面に(ひび)が入っていくのを感じ取り、焦燥感に(さいな)まれた。


 いつか公衆の面前で取り返しのつかない事をしてしまいそうで、そうならないよう表面上の穏やかさだけは必死の努力で取り繕った。


 今や繭美一人が大嵐に見舞われている。

 波どころか渦を巻くようにして荒れ狂うこの心をどうにか治めない事には、どんな努力も結局無意味で、繭美は徐々に己がノイローゼ気味になっていくのを感じていた。


 疲弊していく心にあわせて、身体にも不調をきたし始めていた繭美は、ある日ポキリと水分を失った枯れ枝のように折れてしまった。


 それは学園内で、昼なか頃の事だった。


 自分は夢を見ているのだ、繭美はそう思った。

 今は使われてない旧校舎の中を、足取りも軽く進んでいくのは自分であって自分ではない。

 どこか現実感のない夢の中を、自分ではない繭美はウロウロと彷徨うように、けれど迷いなく進んでいく。

 旧校舎の中なんて入ってはいけないと言われていたから、入った事も入ってみようとも、繭美は一度たりとも考えた事などなかった。

 だからこれはきっと夢なのだ、そう繭美は結論づけてこの夢をもう暫く楽しんでみようと思った。


 夢の中の繭美は旧校舎を意味ありげにうろついた後、いつの間にか暗い部屋の中に立っていた。

 目の前には古びた布の掛かった小さな丸テーブルと、その上には3本の蝋燭(ろうそく)が立っているアンティーク調の燭台(しょくだい)

 そして、テーブルを挟んで差し向かいに誰かがいる気配。


 声も形もない気配であったが、夢の中だからか何を伝えたいのか微かな蠢きだけで分かるように感じた。 「この蝋燭に火を灯してくれたら何でも願いを叶えてあげるよ」

 気配はそう言っているようだった。



 どこから取り出したものか、繭美の手にはマッチ箱があった。

 生唾をごくりと飲んで、繭美はマッチを擦ると3本立っている蝋燭のうち真ん中の1本に火を(とも)した。

 蝋燭の明かりによって丸テーブルの上だけが明るくなり、テーブルに置かれていた気配の手だけが見えるようになった。

 その手は包帯をぐるぐる巻きにしているが、鋭く尖った長く赤い爪だけは隠しきれずに見えている。

 そんなおどろおどろしいものだった。


 繭美はぎょっとしてマッチとマッチ箱を床に落としてしまった。

 音も立てず、吸い込まれるように闇へと消えたそれを探せるわけもない。

 繭美は結局蝋燭1本にしか火を点けられなかった。


 ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりを挟んで、気配は恨めしそうに「1本ね」と呟いて、茶色い小瓶を差し出してきた。

 「飲ませれば意のまま」

 使い方の指示だろうか、気配は確かにそう言った。


 何が入っているのか分からない小瓶をこわごわと受け取ると、蝋燭の明かりがたちどころに消えて、繭美は保健室の布団の上で目を覚ました。


 時刻は正午を少し回った頃で、繭美の右手にはあの茶色い小瓶が握られた状態だった。



 迎え入れられた生物準備室で、繭美は大人しく座っていた。

 倒れる前に影山と会う約束をきちんと取り付けていたのだ。

 倒れたままじゃなくて本当に良かった。

 繭美はスカートのポケットに忍ばせたものを撫でながら、心からそう思った。


 影山は繭美のためにコーヒーの準備をしている。

 生物準備室を訪れると、飲み物を出してくれるというのは噂話で聞いていたから知っていた。

 それでも繭美は気分が良かった。


 気分が良いまま、繭美は影山が席を少し外したタイミングで、影山のカップに茶色い小瓶の中身を傾ける。

 とろりとした黄金色の粘液がカップに少量注がれ、コーヒーの中に消えていった。

 後は影山が飲むのを待つだけ。

 こんなにうまく行っていいのだろうか?繭美はほくそ笑んだが、影山が帰ってくると表情を微笑へと切り替えた。



 けれどうまく事が運んだのはここまでだった。

 影山は帰ってくるなり、カップが違うからと影山と繭美のカップを入れ替えてしまった。

 繭美のほうも「まだ口をつけておりません」と正直に告げてしまったから、カップの交換を拒否するわけにはいかなくなり、そして目の前には(くだん)のコーヒーが湯気を立てて存在している。


 心なしか、繭美がコーヒーを飲むのを期待の篭った眼差しで見ている気がする。

 繭美は意を決して、コーヒーを口に含んだ。

 いつもの久堂繭美なら、きっとこうするから。


 繭美の意識はまた闇へと落ちていった。



 気付くとどこかで蹲るようにして眠っていた。

 薄暗くゆらゆらと揺れて安定しない光源。どこか古ぼけている布を張っている硬い床。

 一体ここはどこなのだろう?

 ぼんやりとした頭で思考をめぐらせてみるが、はっきりしない。


 「おかえり」

 頭上から声が降ってきた。

 それと同時に、鋭く尖った長く赤い爪に繭美は摘み上げられていた。

 その先には包帯をぐるぐる巻きにした大きな手、繭美はこの手に見覚えがある。

 あの気配だ。そして繭美は自身が小さくなってしまった事を悟った。


 「飲ませれば意のまま」

 そう言うなり、気配は繭美を更に高く持ち上げる。


 高いのが怖い、鋭利な爪が怖い、あの禍々しい気配が怖い、この先自分がどうなってしまうのか分かりたくなくて怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 「いただきます」

 気配はそう告げると、器用に繭美から爪を外した。

 

 落下してゆく繭美は大声の限り叫んだが、気配はその声もろとも飲み込んでしまった。

 繭美はもっと深い闇の中に落ちていった。



★☆


 放課後、皆が下校していく中、草薙紗羽子は一人ジャージに着替えていつも通り花壇の手入れを行なっていた。


 同好会を発足させる人数すら集める事が出来ず、今は学園側に無理に頼み込んで趣味で少しだけいじらせて貰っている。





 本当はそれすらもさせたくない教員もいるみたいで、世の中本当にままならないものだと、紗羽子は極力目立たないように縮こまって活動していた。


 ここに一生いるわけでもあるまいし、この学園にいる間はこの小さなスペースで満足していよう。


 それに人がいないこの花壇を独り占めできるなんて、それはそれで幸せな事だし!と紗羽子は前向きに捉えていた。








 「あ」


 花壇の土の上で青い蝶が動かなくなっていた。


 この前弱って動けなくなっていたのと同じ個体だろうか?


 あの時は影山先生が蝶に吸蜜きゅうみつさせて助けていたけれど、この子はどうだろう?大丈夫だろうか?





 まず生きているのかどうか確かめようと思って、紗羽子は青い蝶に近づいた。


 蝶は紗羽子に気付いたのか、羽を微かに振るわせる。





 生きてる!





 ほっとしたのも束の間、音もなく日陰がぬっと伸びて蝶と紗羽子に覆いかぶさってきた。


 影の主は、同じクラスの久堂繭美で。


 苦手なクラスメートの不意打ちな登場に、紗羽子は何も言えずに固まってしまった。


 けれど繭美のほうは特に気にした様子もなく、真っ直ぐ睨みつけるように蝶だけを見ている。





 「蝶が死んでいるの?なら、捨てなくちゃね」


 と、青い蝶を指さしてそう告げた。





 紗羽子は繭美から何かただならぬ気配を感じていた。


 繭美の事は確かに苦手だが、こんな所にくるような人物でもなければ、こんな事をいう子でもなかった。


 ……それに何より、あの指先の爪。


 長く尖って、毒々しい赤色に染まっている。





 「久堂さん」


 紗羽子が呼びかけると、繭美は青い蝶から視線だけを紗羽子へと移した。





 「……あなた、誰?」


 何となく聞いておかなければいけないような気がして、紗羽子は勇気を出して問いかけた。


 もしかしたら、笑い飛ばされるかもしれない。


 もしかしたら、馬鹿にされるかもしれない。





 けれどそれで良かった。むしろそうであってほしかった。





 久堂繭美は答える代わりに、顔を歪めて崩して見せた。


 それは逆光の中でも分かる程に、繭美の顔ではなくなっていた。

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