シビック タイプR
私は携帯の待受け画面を見て舌打ちする。
時計が12時15分を表示している。予定では、もう東七里駅行きのバスに乗っていなくてはいけない。確かにラウンジに貼ってあった時刻表には、12時5分発と載っていたのに。
私は七里高専前と書かれたバス停の前で立ちすくみ、わずかに見える田んぼに続く道路をじっと見つめた。四方は山に囲まれており、人はもちろん車さえ通らない。
東七里駅まではバスで40分、それから福知山行きの電車に乗って、綾部で乗り換えて京都まで2時間。出だしのバスが遅れると、全てが狂ってしまう。
今日は朝から予定が狂いっぱなしである。
同室の芳月先輩が落研の友達からもらったという寄席のチケット二枚。
実は私は祖父母の影響もあり、落語が大好きなのだ。それを知っていた、優しい芳月先輩が私のために入手してくれたのだ。
ところが、今朝になって先輩は生理痛でベッドから起き上がる事さえ困難な状態になってしまった。
「ごめんね――友紀ちゃん。せっかくだから一人でも行っておいでよ」との言葉に甘えて、私は一人で京都へ繰り出すことにした。
先輩の車で行く予定だったので、慌ててバスと電車の時間を確認した。慌てすぎて時間を見間違えてしまったのかもしれない。
ふいに目の前に一台の車が止まった。道路の方ばかり見ていて、全然気が付かなかった。学校の方から出てきたらしい。
黒のシビックから顔を覗かせたのは、なんと松原先輩だった。
「やあ若竹。出掛けるの?」という先輩に「バスが来ないんです――」と、ここぞとばかりに泣き付いた。案の定先輩は「東駅までなら乗せてくけど?」と言ってくれた。
私は目の前に車が止まった時点で、その台詞を絶対吐かせるつもりだったので、先輩の呑み込みが早くて助かった、と思いながら助手席のドアを開けた。
松原先輩は京都まで車のパーツを買いに行くという。私は落語好きという事を出来れば伏せておきたかったが、乗せてもらった以上行き先を言わない訳にもいかず、正直に京都まで寄席を聴きに行きます、と話した。お互い目的地が京都であったため、先輩は「じゃあ京都まで乗せていくよ」と言ってくれた。なんて優しい奴なんだ、松原。
ついこの間、堂々とレズ宣言をしてしまった事もあって、若干気まずかったが、何とか車内の会話は保健委員の話で盛り上がった。こんなに世話になるなら、あんなその場限りの嘘をつくんじゃなかった、と私は自分の浅はかさを悔いた。
何とか開演前に京都に着くことができ、私は会館の前で先輩にお礼を言って、車から降りた。
開演までに時間があったせいで、うまく良い席を確保でき、ホッと胸を撫で下ろして座った。
しばらくすると隣に眼鏡をかけた若い男性が座った。寄席では、私くらいの若い人は珍しい。
「先輩!」
その男性は、さっきまで一緒にいた松原先輩だった。
「落研の友達がいてさ、面白いって聞くから一度聴いてみようかと思ってね。当日券あって良かったよ。
それに、これ終わってから急いで帰るの大変だろ? 帰りも送るよ」
確かに、最終の高専行きのバスは20時発なので、逆算すると寄席が終わってすぐにとんぼ返りしなければならなかった。
「ありがとうございます」と私は声を震わせた。
「その代わり、帰りに車の部品買うの付き合ってよ」と先輩はニコリと笑った。
間もなく開演のブザーが鳴った。
寄席が終わってから、約束通り先輩と私は車の部品を買いに行った。
その後先輩は「他に寄りたい所ない?」などと、気軽に口にしてしまったために、私を抹茶で有名な和菓子屋と北野天満宮に連れて行くはめになった。
私にとっては松原先輩というより、もはやシビックタイプRでしかない。
気がつけば、シビックタイプR先輩と何故か手をつないで境内を歩いていた。
最初に手を握ったのは私だったかもしれない。境内にある牛の像を見ようと先輩の手をつかんで連れて行った……ような気もする。
手を離すタイミングを見計らっていると、先輩の方から手を離されてしまった。嫌われているのだろうかと一瞬思ったが、次の瞬間、先輩は私の手に指を絡ませて、カップルつなぎにしてしまった。
マジかよ……と驚いたが、別に先輩の事が嫌いな訳でも無いし、かと言って大好きでドキドキする訳でもないので、結局私はそのまま放っておくことにした。
「夕飯何がいい? ちょっとくらいならおごるよ」
「ん――じゃあ京風会席?」
私は悪戯っぽく笑った。
「松原先輩うまくいったかな――?」
俺は掃除で疲れた体をソファーに投げ出し、時刻表を貼り変えている舞木に聞いた。
「うまくいってなかったら、若竹こんなに遅くならないだろ」
既に掛け時計は22時を指している。
「まっ、これで機械実習のレポートゲットだな」と舞木は貼り変えた時刻表を眺めて、手をパンパンとはらっている。
ラウンジの時刻表を偽物に貼り変えて、若竹にバスの時間を勘違いさせる事くらい、俺等にとっては朝飯前だった。
そんな事より、今回舞木と俺が一番手を焼いたのは、若竹の同室の芳月先輩の買収だ。俺達二人が考えた計画には、芳月先輩の協力が絶対必要だったからだ。
芳月先輩は、一見おっとりとした優しそうな女の先輩だが、すぐに金と舞木の色気なんぞに目がくらむ野郎共とは違って、頭が切れる。貢物として売店のシュークリームとプリンを渡した上、二つほど頼み事をされ、ラウンジの掃除を約束し、最終的には若竹本人の為だと説得して、なんとか寄席のチケットを受け取ってもらう事に成功した。もちろんそのチケットは松原先輩に購入してもたらった物だが。
おかげで俺達二人は、こんな時間までラウンジの掃除をするはめになってしまった。自分達でも関心するほどラウンジは綺麗になった。流し台もピカピカだし、ポットの洗浄までした。
「ただいま――」
ようやく若竹が帰って来た。ジャージでは無く、白いワンピースを着ている。いつも頭の上でおだんごにしている髪を、今日は下ろしてふわふわパーマにしている。こうやって見てみると、同い年とは思えないほど若竹が大人びて綺麗に見える。松原先輩はさぞ嬉しかった事だろう。
帰って来た若竹は、落語の良さを10分程熱く語り、最終的には落語のDVDがレンタルで出ていないと、何故か俺が怒られた。
舞木はいつの間にかテレビを見ていたが、携帯を開いて言った。
「若竹――明日制服貸せよ。前言ってた、部活の集まり明日だからさ」
「あんたマジで行くの――?」
二人の会話をまったく理解できず、俺は会話に割って入った。
「なんの話?」
「あ――吉野には言って無かったっけ? これこれ……」
そう言って、舞木は携帯のメール画面を見せてきた。
――演劇部 部活動依頼内容:パクパク企画準備要員 報酬:現金3万支給 依頼主:高専祭パクパク企画実行部 活動日時:9月23日(日)21時半 第三会議室前(女子用制服が用意できる人は持参して下さい)――
うちの学校には、高専祭と呼ばれる学園祭のような行事が存在する。一ヶ月以上前から実行委員会が発足して動きだす、かなり大規模な行事で、その裏では結構な額の金が動く。
その高専祭のメインイベントが、男子学生がアイドルグループの格好をして口パクで踊る「パクパク」という、くだらない企画だ。しかし、これが孤立した学園内で、刺激を求める色ボケした高専生には熱狂的に大受けで、高専祭後はパクパクに出演した学生のファンクラブが立ち上がったりする。よって、パクパクは年々本格化し、去年は一ヶ月以上も前から踊りの練習があったそうだ。
確かに金の匂いがぷんぷんする高専祭には、俺も目を付けていたが。でも舞木がパクパクに出るというのはどうだろう……松尾先輩と言う恋人もいるわけだし。
「お前パクパク出んの?」
俺は恐る恐る聞いてみた。
「それとはまた別だろ。準備要員だから、設定決めたり曲決めたりするんだけじゃないかな――?」
俺は松尾先輩の気持ちを思い、ちょっとだけホッとした。
「でも、それにしては報酬3万って高すぎない? ちょっと怪しいのよね――」
確かにパクパクに出演するならまだしも、準備だけで3万って話はうま過ぎるような気がする。
「でもさ、年末までに三十万。
俺達あんま悠長な事言ってらんないし……俺体張るわ。罠だったら、その時はその時だ!」
そう言って舞木は、ニコリと久しぶりに無邪気な笑顔を見せた。
俺は、この一言と笑顔で決心した。
舞木、おまえは知らない内にもう充分体を張ってんだよ。
「舞木! それ俺が行くよ!」
「うそ……」
若竹が信じられないと目を丸くした。
舞木は、一瞬口の端が上がったように見えたが、それは俺の見間違いで、心配そうな顔でこちらを見つめていた。
いかがでしたでしょうか?
冒頭でも書きましたが、実体験も参考にしていますので、たまに作者が実際に体験した話なんかも入ります。例えば無理な設定に思われがちなパクパクとか……あります。実際に(汗)
今から話がもう一山超える予定なので頑張ります。
少しでも読者様の現実逃避に貢献できれば幸いです。