夏空ディストレス
七月末の昼下がり、吸い込まれそうな深い青空に、ギラギラと照り付ける太陽。遠くの空には要塞のように聳える入道雲がこちらをじっと見つめている。私は制服に身を包み死体のような足取りで帰路についていた。
高校三年の夏休み、今まさに受験生にとっては大事な時期だった。「クラスメイトの誰しもがきっと、どこかの塾だとか予備校だとかに通って夏期講習を受けているのであろう。」私はそんなことを他人事ようにただぼんやりと思い浮かべて歩く。私もクラスメイトと同様の立場の筈なのだが、未だどこか気分が乗りきらないでいた。担任は私に対し「『皆木さん』は、将来どうするのか? 進学か就職か?」と先程の個人面談で言っていた。その時は「進学します。」と空気を読んで返事をしたが、実際私には将来何をするのかなんて言う未来のビジョンは何一つなかった。興味のある学問も、興味のある仕事もない。欲を言えば「このままである」と言うことが私の望みだった。
「そこの君、浮かない顔してどうしたの? お姉さんが悩みを聞いてあげるよ。」
町の一角にあるゴミ捨て場を通り過ぎた時、燃えるごみの山から声がした。だがそこには人の影など無い。
「誰かそこにいるの…?」
「ここにいるよ。ここ。目の前。」
「え…?」
声の方向を頼りに、正面のゴミの山に目を凝らす。長い黒髪に、白い肌。そこには喋る人間の首がいた。私は息を飲んだ。何故こんなものが此処にあるのか、私には全く見当が付かない。だが何かとんでもないものと出くわしてしまったのは紛れもない事実だった。
「ここで何してるんですか…?」
「何って捨てられてる…のかな? 目が覚めて此処にいたからよく知らないんだよね。」
「それなら、この話は置いておくとして、私に何か用ですか?」
「用と言うか、浮かない顔してたからさ。何に悩んでるんだろうかなぁって。」
「それだけ?」
「それだけ。」
「じゃあ場所移動しませんか? 私、こんなゴミの前で話したくはないので…。」
よく事情は分からないが、この生首はそんな私を気遣ってか話を掛けて来たらしい。だったらまずは自分の見た目について考えて欲しいものなのだが、取り敢えず彼女と少し話してみることにした。
「で、生首さんはどうやって移動するんですか…?」
「生首さんじゃなくて『ゆきえ』って呼んでね。」
「すいません、ゆきえさんはどうやって移動するんですか…?」
「持ち運べばいいと思うよ。」
「は?」
「だから私を抱えて持ち運べば良いと思うよ。」
あのゴミ捨て場から歩いて十分程度。私たち二人(二人と数えていいのか不明だが)は近くの駄菓子屋に来ていた。ここに来るのは小学生以来のような気がする。店主の御婆さんは未だ健全のようで、極端に度の強い眼鏡を掛けながら今日の新聞を読んでいた。
「疲れたぁ…」
駄菓子屋のベンチに生首を置いた時、自然に声が漏れた。久々に重いものを持ったせいで腕が痛い。『ゆきえ』と名乗った生首の横に座る。
「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかった。教えてくれる?」
「『皆木』…、『皆木詩織』。」
「皆木さんね、覚えたよ。」
「それで悩みを聞いてくれるんですよね?」
私は彼女に尋ねた。彼女がどんなアドバイスをするか、あまり期待はしていなかったが時間つぶしぐらいにはなるだろうと言う思いだった。
「悩みは聞くし、アドバイスはするけど、最終的に問題を解決するのは君ってことだけは覚えておいてね。それで何に悩んでるの?」
釘を刺しているが、その眼差しは真剣なものだった。
「私、今受験期なんです。でも勉強に身が入らなくて…。周りがどんどん進んでいく中、私だけなんだか取り残されていくようで、どうしたらいいのか。それに将来の夢に合わせて進む学部を選べと言われても、私、何がしたいのか未だに分からなくて…。」
本音を言えば『何もしない』と言う選択肢を選びたい。変わらず、このままで、平凡に人生を送れるのならどんなに素晴らしいことか。私には『変化する』と言うことが恐ろしかった。
「受験ってどうやって乗り越えればいいんでしょうかね。何も手につかないし、未来も見えないし…。」
「へー、そんなの簡単じゃん。」
「簡単って?」
「勉強するしかないでしょ。」
まさに正論だった。その言葉は深く胸に突き刺さる。多分、自分でも心の何処ではそのことを理解している。だがこそ、今まで、その単純で明々白々な答えに辿り着かないように思考が遠回りしていたのだ。
「でも、目的地が分からない状態で勉強なんて…。」
「そんなこと言ってたら多分、いつまでも目的地に辿りつけないよ。」
「そんなの分からないじゃん!」
私は大声を出して立ち上がっていた。それを聞き驚いたのか、遠くに座っていた駄菓子屋の御婆さんがこちらの方を見つめていた。私は「すいません。」と申し訳なさそうに会釈をして急いで座る。
「別に私の事じゃないからどうなろうと勝手だけど、これだけは言うよ。間に合う内に手を打って置いた方が良いんじゃない? 手遅れになったら御終いなんだから。」
「そう…ですよね…。」
もう私には反論する気力など無かった。彼女の言葉は正しいのだ。あとはもう受け入れるしかない。
「別に勉強したくないって思うなら、無理に強いることはないけど、しておいた方が選択肢は増えると思うよ。人生って選択の連続なんだから選べる選択肢は多い方が良いと思わない? まあ、これからどうするか、あとは自分次第だよ。せめて私みたいにはならないでね。」
「どういうことですか?」
「努力を怠った人間の辿る末路ってことだよ。」
彼女のその視線は遠く広がる夏空を見つめていた。
彼女と他愛のない雑談をして、気が付けば夏空は一面朱色の絵の具で染まり、遠くの空には西へ西へとカラスの群れが羽ばたいていた。どうやらもうこんな時間らしい。
「すいません、もう私帰らないと…。」
「長く引き留めて悪かったね。それで一つお願いなんだけど。あそこに連れてってくれないかな?」
私は彼女を両腕で抱え、最初に出会ったあのゴミ捨て場に向かった。
「本当にここで良いんですか?」
「まあ、ここが私の場所だからね。今日は何か悪かったね…。」
「良いんですよ。やっと私も現実に向き合う気持ちになれましたから。明日からは学校の図書館に行って勉強しようと思います。」
「それが良いと思うよ。受験頑張ってね。」
「それじゃあ、またどこかで!」
心機一転、生まれ変わった心を胸に私は別れを告げた。
彼女が何故あそこにいて、何故私と巡り合ったのか、結局のところ分からなかった。本当は意味なんて無くて、実はただの神の悪戯だったのかもしれない。それに多分この事実を誰かに話してもきっと信じて貰えないだろう。逆に喋る生首なんてもの信じる人が居たら、その人こそおかしな人である。当分の間、この話は私の胸の中に留めて置こうと思う。私の受験が終わるまで…。
次の日、早めに家を出てパ〇コを買い、あのゴミ捨て場に向かった。だがそこには既に何も無かった。ゴミも彼女の姿も。冷静に考えたら、多分ゴミとして運ばれて行ったのだろう。私は半分に千切ったパ〇コの片方を地面に置き、もう片方を口に咥える。今日の夏空も相変わらず果てしなく広い。私は学校に向けて一目散に駆け出した。
読んでくださりありがとうございます。
この物語は実際に私が見た夢をモチーフにしています。
いつかこの生首の生い立ちが書ければいいですね。