第五話 1932-1933 再び渡欧 次の戦闘機の形を模索する旅
主人公は新型機を模索します。
昭和七年九月
中島飛行機の敷地内に建設中だったレンチェラー発動機製作所の工場が完成した。
日本法人は中島飛行機とレンチェラーの合弁会社で、敷地と人員を株主でもある中島飛行機が提供した為、早期の立ち上げが出来たらしい。
これからは米国から出向してきた米人スタッフと、レンチェラー出向組の復帰者を中心に運営されるという話で、使われる機械も米国製の物ばかりとなる。
米国から事業所開所式にレンチェラー本人が初来日し、中島飛行機の二代目社長と初対面も果たした。
二代目社長は英語が堪能というのもあるが、同じく技術屋出身のレンチェラーと馬があったのか意気投合したらしく個人的にも付き合いを始めるらしい。
日本土産に社長秘蔵の日本刀を一振り贈ったくらいだから本気の付き合いなのだろう。美術品としても評価の高い日本刀を贈られレンチェラーも感激していた。
とはいえ、中国での紛争に日本が関わっているせいで欧米との関係は微妙になっており、恐らくこれは前世での歴史と変わらないのだろうが、後十年もしない内に米国とは敵対関係になるということを考えると、この蜜月も長くは続かないだろう。
レンチェラーのホーネットは三菱がライセンス生産を検討しているらしい。
昭和八年春
海軍から偵察機としても使える複座戦闘機を中島と三菱の二社に競作発注した。
社内からはボーイングモデル248をみて様々に影響を受け、その中から明川技師が手を挙げる。
しかし、社長は海軍の提示した仕様を見て一言、『何だ、これ陸軍に入れた九一式複座そのままじゃないか』と。
それで、既に存在する九一式の戦闘機翼の複座型を海軍に提示する。海軍は必要仕様の追加を提示し、中島は九一式複座型をコンペに出すことになった。
小山はPAの構想にあたって248に大きな影響を受けたのか、殆ど小山が私物化するかの様に何回も飛ばし、色んな部分を分解して構造を見て、自ら248の図面を引いてみたりとぞっこんの様子でかなり気に入ったようだ。
私は次の私が担当するPBを検討するにあたって、前世での経験なども踏まえ検討してみた。
前世であれば、I-16を開発していた頃だが…
1931年、つまり昭和六年だが、当時アメリカのグランビルブラザーズという小さな航空機メーカーに居たロバートホールが開発したジービーレーサーというレース専用機が当時の地上機の速度記録を達成し、レースを総なめにして航空業界の話題をかっさらった。
ソ連に居た私もそれを航空関係の雑誌で見て、その時掲載されていたジービーレーサーの写真や図面に大きな影響を受けた。
その後私は新たな単座戦闘機を開発することになったが、そのジービーレーサーの影響を受けなかったかと言われれば、否定することは出来ない。
私は次の戦闘機は速度を制するものが空を制するという確信があったから速度に優れた戦闘機にするつもりだった。
それで、スピードレースを総なめにしたあの機体の特徴あるフォルムを採用したのだ。あの頃は胴体の短い機体のほうが速度性能が優れていると考えていたしな。
引き込み脚など当時の新技術を意欲的に盛り込んでできたのが開発コードTsKB-12ことI-16というわけだ。
最初のエンジンはジュピターのソ連版のM-22を搭載していて、それでも要求仕様を上回る速度を出せ運動性の評価も悪くはなかった。
その後ライトサイクロンのソ連版のM-25に載せ替え当時としてはレーサー並の437キロにまで到達した。
運動性は先のI-15に劣るが、速度や機体強度は優れていたので、一撃離脱を得意とするエースパイロットを生み出した。
だが、完成した時は卓越した性能を持っていたと自負出来るがその後各国から次々と意欲的な新型機が登場し急速に旧式化していった。
そして複葉機時代の格闘戦に拘る古いパイロットの不評が上層部より改良指示として降りかかり、時代錯誤の複葉機をいつまでも作らなければならなかった。
いずれにせよ、このまま前世と同じ事をしては同じことになる。
少なくとも二度目の世界大戦が始まるまで、エンジンの換装など改良だけで使い続けられる様な機体を作るべきだ。
その為には、私の知り得た後の世に標準となった様々な仕様の先取り、そして余裕のある機体設計は必須といえる。
私がI-16の次の主力戦闘機として開発していた機体にI-17という戦闘機がある。
この機体はフランス製のイスパノの液冷エンジンを搭載した戦闘機だった。
メッサーシュミットやスピットファイアの様にスマートで、空力的にも優れて優速で優れた運動性能を持っていた。
この機体も又エンジンに苦労したが改良を重ね最終的には高評価を得ることが出来た。
現時点で私はI-17で必要だった全ての改善点を把握しているし、それ以降に開発したI-180から188に至るまでに得た知見も全てあるのだ。
新しくI-17を作ったとしても、同じコンセプトのより良い機体になることは間違いない。
採用するエンジンはロールスロイスのケストレル、ただこのエンジンでは物足りなく、ロールスロイス自体が既にマーリンを開発中だ。ただしそれが手に入るかはわからない。
それで、もう一つの選択肢として、I-17で採用していたイスパノも手に入れるべきだと思う。
イスパノの12Y、これを劇的に性能アップさせたキーマンが居る。
ポーランドのユダヤ人、シロフスキィ技師。
前世で1936年、フランス航空ショウにI-17を展示した時、イスパノを使用していた関係であちら側のエンジン関係の技師として会ったことがある。
彼は当時イスパノの12Yの過給器を開発していた。
完成したのが二年後の1938年、その技術はライセンスを取っていたソ連のクリモフにもフィードバックされ、それが後のM-103以降に続きラボキンやヤコブレフなどの戦闘機に使われたのだ。
彼は1920年代はドイツに居たが、ナチズムの台頭とユダヤ人排斥を忌避して1930年代にフランスに移ったと聞いている。1933年の今だとフランスに居るはずだ。
イスパノの12Yのライセンスを獲りシロフスキィを我が中島飛行機にスカウトしてくれば良い戦力になると思う。
それとは別に、私は今の標準である7.7ミリ機銃は明らかに力不足だと思う。二度目の世界大戦で一番普及していた12.7ミリ機銃を早期に搭載すべきだと思うのだ。
翼に二挺ずつの合計四挺を搭載する余力と、エンジン軸の空洞を通して撃つ20ミリクラスの機関砲を搭載できる余力を持たせる。
ただ、武装はエンジンパワーに応じて載せ替えていくべきなのは言うまでもなく、最初は7.7ミリ二挺で十分だろう。
私は一先ず考えがまとまると、社長にイスパノと有望な技師の話をすると、イスパノとは既に付き合いがあるとの事で、社長自身がフランス留学中にイスパノにも行ったことがあり、向こうの上層部とも面識があるらしい。
ちなみに、中島飛行機は元々発動機部門があり、未だ大量生産の経験はないが1924年に設立後、ブリストルジュピターをライセンス生産している。
海軍向けの九○式戦闘機もライセンス生産のジュピターが搭載されているのだ。
ライセンス生産品はジュピターのジュを漢字に当てて寿という名前が付けられていたが、普通に木星じゃ駄目だったのだろうか。
現在も独自開発を模索しているが、今のところはライセンスを取ってきた色んなところのエンジンを参考に設計したり試作したりといったかんじで独自設計の物は無い。
レンチェラーが日本に合弁工場を作ったのも多少は中島製エンジンに影響を与えそうな気がするな。
海軍は液冷エンジンに関心が高いようで中島も含め複数の会社に度々制作を依頼し、実際に試作品を作ってテストに持ち込んだりしているがどうも芳しくない。
今年の三月にも水冷エンジンを試作して持ち込んでいるらしい。
レンチェラーから今年になって新しいエンジンが届いた。
ワスプの十四気筒拡張版のツインワスプ、エンジニアリングサンプル品で既に800馬力もある。
このエンジンは直ぐに1000馬力クラスになったと記憶しているが、九十一式に搭載したら爆撃も可能になるだろう。
昭和八年七月
イスパノスイザの12Yのライセンス取得とサンプル購入為に中島のエンジン技術者と共に渡仏した。
既に社長が来ていたのもあるのかライセンス取得自体はそれ程困難ではなく、エンジンのサンプルもあっさりと買えた。
エンジン技術者とはここで分かれ、彼はイスパノで生産指導を受ける予定だ。
恐らく今後のためもあり、契約だけではなく生産することになるだろう。
水冷エンジンは陸軍、海軍もどちらも欲しいらしい。
その後シロフスキィを訪ねるが、彼はやはり優れた技術者としてドイツに居た頃から著名だったようで、フランスに移住してすぐにフランス政府の航空省から仕事を依頼されて働いていてとてもスカウトできるような空気ではなかった。
いずれ彼の開発したターボチャージャーが12Yに搭載され、性能が向上するのだがそれまでフランスから調達が可能であればいいが…。
渡仏したついでにドイツに足を伸ばし前回行けなかったユンカースを訪問した。
ユンカースではユモ210というエンジンを見せてもらったが、エンジン出力が今ひとつだった。
確か、ここの会社のエンジンはメッサーシュミットのBf109の初期の頃に搭載されていた記憶がある。
折角来たのだからとライセンスの売り込みの話があったが、何でも去年経営破綻して今でも財政危機らしく、少しでも売上が欲しいのだとか。
それで、急ぎ社長に電報でこの話をすると、安いなら良いじゃないかとライセンス購入の許可。しかし、水冷は今回イスパノの購入を決めたのもまともに開発に成功していないからとのことで、エンジンそのものより技術がほしいから交渉しろとの命令。
その話をユンカースにして日本で生産したいから技術者の派遣や製造ラインの立ち上げの協力が可能か聞いた所、二つ返事で了承。
このまま経営が悪化すると技師を解雇しなければならなくなる可能性もあるから、日本で仕事があるなら是非とのこと。
やはりナチに睨まれるとこういう事になるのか。
ユンカースはライセンスの購入で気を良くしたのか大歓迎で、現在売り込み中の新型旅客機も見学させてくれた。Ju52という二度目の世界大戦でドイツが輸送機に使ってたアレだな…。
見せてもらったのは普通に真っ白な塗装の綺麗な機体で、前世で見たこともある軍用機としての塗装の時と印象はまるで違って見えた。
だが、この鋼管骨格にジュラルミンの波形外板を張った構造は、重量をまさずに機体強度が上げられる半面、空気抵抗に問題が出る。
この機体はかなり頑丈だと聞いたことはあるが、かなり遅かったような記憶があるな。
反面、離着陸距離がかなり短くて空港設備の整わないところでも運用が可能。
流石に即答は出来ないから、資料を貰って帰ることにした。
その後日本への帰路についたが、日本に帰り着く頃にはPBの大体のデザインが頭の中に完成していた。その機体はスマートな機体に美しい形の翼の綺麗な戦闘機だ。
不評だった後方視界を広げるためにもI-188で採用したようなキャノピーの後ろをスッキリと空けるデザインだ。
結局、私が死ぬ辺りに開発された機体は殆がそのデザインになっていた。
スピットファイアも、P51も、ヤコブレフもラボーチキンも皆そうだったからな。
日本機やフォッケウルフが正しかったということだ。
会社に戻ってから社長に今回の報告をし、報告書と資料を提出した。
社長は一度輸送機で失敗しているのがあるからかはわからないが、Ju52には興味を示してどんな機体か聞いたので、ありのままを答えた。
すると、民間でも使う旅客機としてこの日本で使うなら特にこのJu52の持つ特性はむしろ条件にあっているとの話。
滑走路にしろ何にしろ欧米諸国ほどには整備されていないのが我が皇国だからな。
一度民間機を購入している得意先に話してみると話していた。
その後、ドイツから技術者が到着しもとからあった発動機の事業所で暫く指導してくれることになった、しかしレンチェラーの合弁工場でもそうだったように、製造設備がかなり駄目だそうで、ユンカースや他のドイツ企業からだぶついている工作機械を安く輸入することになった。
案外、自社開発の液冷エンジンがうまくいかないのって工作精度のせいか?
それはともかく、私が不在の間に小山がずいぶん仕事を進めたらしい。
小山が私が進んでいないのを知っていてわざとらしく調子を聞いてくるが、構想段階だなんてことをいう訳にはいかない。
再び、遅れを取り戻すべく寝食を忘れて仕事をするのだった。
なにげに序盤に書いてある九一式の海軍版のを競作に提出。
そろそろ三菱もあのお方の影がちらつき出します。
ちなみにジービーレーサーの開発者、ロバートホールはこの後F3Fから始まりF4Fなど海軍の戦闘機の主任設計者として戦後まで携わり戦後もジェット時代まで活躍した著名な技術者です。




