閑話一 Over dose
本編主人公の娘視点での話です。
閑話一 『Over dose』
1964年9月、米国ネバダ州リノ。
私は篠崎彩。
十七年前の世界大戦に於いて中島飛行機で数々の傑作機を世に送り出し、偉業を成し遂げたと言われる篠崎健一の娘だ。
今日は米国ネバダ州のリノで初めて開催されるエアレースを観戦する為に、母と姉夫婦そして独身の私の一家四人でやって来た。
ネバダ州は荒涼たる荒れ地の多い土地で、如何にも西部劇に出てきそうなところだと聞いて居たけれど、空から見るリノの街は大きくて、タホ国際空港に降り立ってみれば空港内にスロットマシンが置いてあったりと華やか。
でも日本ではちょっと考えられない光景。
今回のエアレースは民間主催で、参加チームは地元米国のアマチュアチームが大半だけど、第一回記念という事なのか、一番の目玉である改造無制限のアンリミテッドクラスには米国内だけでなく海外からも有名メーカーが招待されている。
日本からは中島飛行機が参加し、その他イギリスやドイツ、ロシア、フランスなどの名だたる航空機メーカーが参加していて、プロモーションの機会と会社の威信を賭け、かなりの力の入れようだ。
アンリミテッドクラスへの参加条件は、機体は先の大戦で実戦に参加したレシプロ機がベースである事、また搭載するエンジンも先の大戦での使用実績があるレシプロエンジンで無ければだめ、と言う二つ。
つまり、一機しか作られなかったような試作機や試験機は駄目だし、機体が先の大戦で使われたプロペラ機でも、大戦末期に開発されていたターボプロップエンジンなどのレシプロ以外の高性能エンジンを搭載するのもダメという事。
日本も中島の他、三菱や川西などのメーカーも招待されていたようだけど、日本からの参加は中島飛行機だけだった。
その中島飛行機のワークスチームを率いるのが父である篠崎健一。つまり今回の旅行は父の応援が目的なのだ。
父は既に現場を退いて久しく、現在は小山のおじ様の後を継いで中島飛行機の会長だ。
そろそろ引退と言っていたのだけど、エアレースへの招待に本人が意欲を見せ、現場からも最後の花道をという声が上がり、結果総指揮として参加を決めたと話していた。
中島飛行機から参加する機体は四式艦上攻撃機。中島飛行機が最後に開発した、そして日本が最後に採用したレシプロ軍用機。
日本は世界に先駆けてジェット機を実用化し、軍用機がジェット機に切り替わるのがかなり早い時期だったので、日本のレシプロ機の中では設計的にもこの機体が一番優れているのだとか。
四式攻撃機はあの独特のフォルムで知名度があり、今も海外で飛んでいるくらい長く使われているから名機なのは間違いない筈。
でも、あくまで攻撃機であって戦闘機ほど速くはなかったと記憶しているのだけど。
関係者として中島のハンガーに入って見せて貰った四式攻撃機は、あの独特のフォルムはそのままに中身は全く別の機体に生まれ変わっているそうだ。
その機体の横で、父から今回のエアレースでパイロットを務める赤松一真さんを紹介された。先の大戦からの父の友人である赤松のおじ様の息子で、今中島飛行機でテストパイロットをしている人なのだとか。
赤松のおじ様もハンサムだったけど、息子の一真さんもハンサムでパイロットスーツが似合う凛々しい人。
私は一目で好きになってしまったのだ。
準備に忙しい父の代わりにと一真さんが新しい機体の説明をしてくれた。
この四式攻撃機はその必要特性を高めた結果、最高速度は戦闘機に劣るものの空力的には優れている。
そこで、機体を最高速度を追求するレース仕様にする為に、まず武装は勿論防弾装備など軍用機としての装備を全て下ろし、また主翼も攻撃機の為の重く頑丈な翼ではなく、戦闘機で使われている軽いタイプの主翼に変更。
更には、元々搭載されているハ48エンジンの中でも最もバランスの取れたモデルの三千五百馬力エンジンを更に胴体内にもう一基搭載し、エンジン二基で二重反転プロペラを駆動させる仕様に変更したそうだ。
二基で七千馬力にも達する大トルクも、攻撃機として頑丈に設計された機体だからこそ十二分に耐えることが出来た、と一真さんは語ってくれた。
目を輝かせながら彼はこの機体の素晴らしさを力説し、この機体ならレシプロ機では限界に近い八百キロを超える最高速度を叩き出せる、と豪語した。
その速度がどれ程速いのか、私には分からないけれど彼の熱の入った話を聞けば、きっと素晴らしい事なのだろう。
戦時中の写真で見た軍用カラーとは異なり、銀色に磨き上げられた機体には旭日旗を意匠に日の丸の赤でカラーリングが施されて居て、その機体には日の丸の国籍マークの他、目立つように英語で『Over dose』と書かれていた。
私はどういう意味か直ぐには解らず、彼に意味を聞いたところレースが終わったら教えてくれることになった。
その後、一真さん自身の話を少し聞くことが出来た。
彼の父である赤松のおじ様は、私の父の作った戦闘機で先の大戦を戦い抜き、多くの戦友たちとともに生きて戦争を終えられたのは私の父のお陰だと、彼が幼少の頃から語っていたそうだ。
そんな事もあり、彼は今も皇国空軍で基地司令を務める赤松のおじ様と同じパイロットの道を志し、空軍パイロットとして経験を積んだ後、中島飛行機のテストパイロットになったそうだ。
今日は花道を飾るという父と同じく、正に彼の晴れ舞台でもあるのだ。
場内アナウンスで関係者以外の観客席への移動が指示され、私は母達が待つ招待客席へと移動した。
母達とレースの後の観光の話をしていると、いよいよレースが始まるとアナウンスがあった。
駐機スペースにずらりと並んだ参加機は、それぞれ色とりどりに綺麗なカラーリングが施されて美しい。
パンフレットを見れば、どれも先の大戦で活躍した機体ばかりで、米国のP51やF8Fの他、イギリスやドイツ、ロシアなどの国籍マークを付けた戦闘機も並んでいる。
その中でも一回り大きく特異なフォルムの機体が我が国の四式攻撃機だった。
それらの機体が綺麗に並んで滑走路へと入り、一機ずつ飛び立って行った。
今日は快晴のレース日和で、各機爆音を響かせ飛んでいく。
このエアレースは決められたコースを数機ずつで飛行し、タイムを競う競技だ。
中島が参加するアンリミテッドクラスは8.27マイルのコースを8周する、とパンフレットには書かれていた。
機体が飛ぶ様を直接見る事が出来るのは、勿論観客席の前を通過する時だけだけど、どの機体も物凄い速度で観客の目の前を飛び去って行く。これ程の低い高さを物凄い速さで飛ぶ飛行機をこんな間近に見る機会など、きっともう無いだろう。
レースを終えた彼の機体が駐機場へと戻って来る。
手ごたえが良かったのか、駆け寄ってくるスタッフたちにサムズアップしているのが見えた。
レース結果は中島の四式攻撃機は時速804キロを記録し、レシプロ機として世界最速記録を達成して優勝した。
二位の英国チームが時速750キロだったので、50キロも早かったのだ。
レース後のパーティ会場で一真さんを見つけると、思わず抱き着いて優勝を祝福した。そして機体に書かれた『Over dose』の意味を改めて聞いてみた。
するとどうやらこの言葉は、取材に来た米国の航空機雑誌の記者がこの機体の改造具合についての説明を受けて思わず口走った言葉を、父が面白がって機体に書き込んだのだとか。
意味は『やりすぎ』、つまりは度が過ぎるという俗語らしい。
一般には『過剰摂取』という医学薬学などで使われる言葉だから、意味が解らない筈だ。
まだ始まったばかりのリノのエアレース。でも来年以降はレギュレーションが変更になるかもしれず、また中島のワークスチームが参加するのは今回が最初で最後になりそうだけど、この世界最速記録を出した機体は中島の博物館で飾られる事になっているのだとか。
一真さんが優勝したのが嬉しくて、パーティの席で思わず彼に抱き着いてしまった私だけれど、後日彼から正式に交際を申し込まれた。
そして親同士も旧知の仲という事もあって、とんとん拍子に話が進み、昭和三十九年十二月、彼と結婚する事になったのだった。
こちらの娘は妹の方で姉の方はこの話の二年前に結婚している設定です。




