第三話 1927-1930 陸海軍戦闘機を独占す
海軍での作業を進めながら、今度は陸軍の新型戦闘機の開発です
大正十五年、海軍のテストは順調に進み秋頃にレンチェラーからワスプと名付けられた最初のエンジンが届いた。
最初のエンジンは既に手元にあるブリストルのジュピターに比べるとやや馬力に劣るが、ジュピターより遥かに軽く良く回り米海軍でも即採用が決まったらしい。
海軍向けの追加試作機として幾つかのバリエーションを提案する。
ジュピターをワスプに変更したモデル、更にはチャイカと名付けられた元となったガルウイング型、I-153相当の引き込み脚など。
ただ、どちらも海軍で空母運用を考えるとガルウイングは前方下方視野に不安があり、引き込み脚も同じく出なかった場合を考えると怖いと不採用。
結局は、エンジン換装したモデルを別バージョンとし、当面はジュピターとワスプと並行してテストするらしい。
ちなみに、I-15bisがベースの本機であるが以前のI-15、16で不評だった小さな機体に小さなコクピットは改められオリジナルより一回り大きく、エンジンカウルはより空力的に優れたものを、そしてスピナーキャップも同じく空力的に優れた大型のものを使用した。
その為、他社の試作機とは明らかに見た目からして一線を画したデザインとなっている。
結局、最後に手がけたI-188にどこと無くフォルムが似てきてしまうのはもうどうしようもないのだろうな。
私としてはあれが集大成だったのだから。
ちなみに、他社は設計提出段階でトライアルから外されたため、実際に試作機は完成していない。
年末に大正天皇が崩御し年号は昭和となり年が明けて昭和二年、海軍でのテストは進み色んな修正や仕様の説明などの対応に追われた。
あたり前の事としてコクピットには銃弾からパイロットを守るため、防弾装備がついているのだが、機銃弾を止められる位の防弾板ともなるとそれなりの厚みと重さがある。
後の大戦の戦闘機に比べれば格段に軽装備なのだが、それがそれなりの重さを占めているのは事実。外せば機体性能は上がるだろう。
しかし、飛行機で何が一番高いかといえばパイロットなのは間違いない。経験を積んだベテランパイロットは得難く、そして新人をベテランパイロットに育てるには生き残る必要がある。
しかるに、それの必要性を説明するハメになるとは思わなかった。
確かに先の世界大戦や戦間期の戦闘機は防弾装備は貧弱だった。当たらなければどうということは無いのかも知れないが、弾が当たれば当たるといくら機体が落ちなくともパイロットは簡単に死傷するのだ。
結局、他社の試作機よりこのままでもかなり優速であるのでそのままという事になったが、もし実戦があれば多くのベテランパイロットを失う羽目になっただろう。
かつての祖国は兵士など畑から採れると嘯いて人命無視が酷かったが、それでもベテランパイロットの重要性くらいは認識していたのだ。
四月、仏国に留学していた中島社長の弟が帰ってきた。
フランスで最先端技術を学ぶために六年も留学していたらしい。
本来なら彼と共にフランスから技師を連れて帰る筈だったらしいのだが、良いのが入った――つまり私のことだが――という事で取りやめになったそうな。
社長が去年に近々と話していたが、陸軍の新型戦闘機の設計依頼が出て、トライアルに試作機を出すことになった。
今回のトライアルは中島の他、川崎、三菱、石川の四社。
去年の海軍向けの新型機に触発されたのか、各社相当な意気込みだ。
他社はドイツの技術者を招聘して開発するとの噂だ。
前回の実績もあり引き続き私が担当することになり、補佐に小山という新人が付くことになった。私は同い年の後輩の彼を見て思わずかのミコヤンを初めて見た時を思い出した。
いやいや、あの時とはまるで状況が異なるし、経歴もまるで異なる。
会社は彼に私の下で飛行機設計を学んでほしいらしい。
だが、私は前世でのキャリアは兎も角、まだこの会社では新人も良いところなのだが…。大丈夫なのかこの会社。と、一抹の不安を覚えた。
さて陸軍機であるが、海軍機と同じでは困るらしい。
陸軍の要望は複葉機ではなく高翼の単葉機。戦闘機としては先の大戦後期から戦間期に各国が作っていた単葉機だが、このタイプは下方視界に優れるため偵察機などに特に向いている。
安定性に優れる半面、運動性に劣るため大戦期では戦闘機は殆が低翼機となった。
恐らく空戦も出来る対地支援機的な戦闘機なのではないかと思われるが、九十七式戦闘機以前の日本機については殆ど知識がなく、本来作られたのはどんな戦闘機だったのかはわからない。
高翼機で対地支援も出来て運動性も確保というと、私は前世で手がけたことはないが他国で作られた機体で知っているのはポーランドのプワフスキ、フランスのモランソニエあたりか。プワフスキのP11は実物を見たことがある。ただ、あれはガルウイングで厳密には高翼機とは言えない。モランソニエの機体は写真と資料を見たくらいだ。
それよりも高翼機で実物を見て一番記憶に残っているのは1939年にドイツに視察に行った時に見たヘンシェルのHs126だ。
シンプルで頑丈で必要なものが揃っている、低速域での飛行性能も優れ離陸距離も短かった。
私が対地支援任務に使える直援戦闘機を考えるならば、機銃掃射と簡単な爆撃任務が行える350キロ程度の速度が出る金属モノコックの胴体を持つ戦闘機だ。
ただ、現在のワスプでは爆撃任務までは荷が重い。将来的に高出力エンジンが手に入った時には偵察・軽爆撃任務でも使える息の長い機体が良いだろうな。
初期型は単座と複座の二つのタイプを提案する。
当然、ベースとなる機体は将来の拡張や複座を可能とするくらい余裕のある設計とする。
この方向で三面図を起こし、社長に見せる。
勿論、その間には上司である設計部の責任者にも見てもらっている。
社長はひと目見て、良いじゃないかと。
Hs126にどことなく似ているがより空力性能を高め、翼も戦闘機に相応しい長さと形状にし、スマートなデザインになっている。
将来的に偵察、軽爆撃任務に使う場合は翼をHs126の様な低速域での飛行性能に優れた物に変更したほうが良いだろう。
今回補佐に付いた小山は社長の一押しの人材なのだが、飛行機に関しては素人ながらその吸収力には驚かされる。
そのうち別チームを率いる主要メンバーの一人になるかも知れないな。
新しい機体は早速陸軍に提示することになり、陸軍の航空本部技術部にスケッチと三面図、概算性能表を付けて提出する。
前回同様、他社に先駆けての提出となった。
陸軍の図面審査を経て設計図の作成に入る。
再び寝食を忘れ取り憑かれたように図面を引いていく。
今回は新しい機体の為、前回のようにはいかない。
補佐の小山に仕事を頼みながら、仕事は進み三ヶ月後設計図が完成。
社長の裁可を経てモックアップを作成。
風洞実験の結果はまずまずで、変な癖もなさそうに見えた。
そして年の冬、試作機の制作に入った。
正月休みは流石に実家で過ごしたが、すぐにとんぼ返りして試作機の製作に没頭した。
とにかく毎日が楽しくて仕方がないのだ。
丁度いいタイミングで諸々の改良で性能や信頼性が向上した新しいワスプが到着したので、発動機部門で早速テストしこれを試作機に搭載した。
昭和三年五月、試作機は完成し初飛行の日。
初飛行の担当は中島飛行機のベテランパイロット加藤飛行士。前回の海軍向けの新型機の初飛行も彼が担当した為、引き続き担当することになったのだ。
新型機はNCと社長によりコード名が付けられ、設計通り極めて頑丈に仕上がった。
私としては久しぶりの新型機であり、かなり緊張していたが小山は平然としていた。
今回、彼が居なければここまで短期間で完成しなかったかも知れない。
それ程に今回の機体は手がかかった。
初飛行は、改良型ワスプは快調に回り、高翼機特有の安定性を発揮して簡単にフワリと空に舞い上がった。
既に完成された飛行機であるかのように、軽快に空を舞い、そして予定の試験行程を経て舞い降りてきた。
頑丈な脚はしっかりと機体を受け止め、実に危なげなく戻ってきたのだ。
加藤飛行士の評価は極めて好評で、次は曲乗りも試してみたいと話すほどで社長も終始上機嫌だった。
戻ってきた機体をエンジニアが取り囲み、機体に異常がないかを隅から隅まで確認する。結果、幾つか問題点が見つかったがいずれも大きな問題ではなく、全ては本番の陸軍トライアルまでに修復を終えた。
加藤飛行士の追加試験で曲乗り、つまり水平きりもみや逆宙返りなども試し、それら全てにおいても満足の行く結果となった。
試作戦闘機のテスト飛行と同時期、社長の弟が開発していた八人乗りの旅客輸送機も試験飛行が進んでいて、本来彼はこの機体のテストパイロットをする筈だったらしい。
しかし、社長の前回の験担ぎをしたいと鶴の一声で今回の新型機のテストパイロットを担当することになり、別のパイロットが担当することになった。
その輸送機は一度目の試験は良好で、社長も幸先が良いと話をしていたのに、二度目の試験で墜落炎上。搭乗していたテストパイロット二名と輸送機の方の設計部の技術者らの合計八名が犠牲となる痛ましい事故が起きた。
今回私はその場には居なかったが、前世では同じ様に試験飛行でテストパイロットを死なせたことがあり、その事は生涯の負い目となった。
戦地での戦死者は勿論痛ましいがそれは遠い戦地での見も知らぬ兵士に起きた出来事。
しかしテストパイロットは飛行前には言葉も交わすし帰ってきたら報告や意見も聞く。
つまり身近な存在なのだ。眼の前で人が死んでいく様を見るのは身悶えするほど辛いものだ。
日本の航空史でも空前の事件となったこの痛ましい事件は新聞でも報じられ、盛大な社葬が執り行われた。
葬儀の翌週、いよいよ陸軍によって各社の試作機がテストされる。
コンペに指名された四社のうち、石川島が図面審査で落選。
試作機は強度試験と飛行試験の二種で、強度試験に合格した会社が次の飛行試験を受けられる。
当然だ、テスト飛行でいきなり落ちてはかなわないからな。
ここで、翼面耐荷重の試験が行われ十三倍の強度で合格となる。
まず、川崎が事前の社内試験で規定に達すること無く主翼が折れて落選。
そして、三菱と中島の二社が残る。
とにかく頑丈に作ったNCだが十三倍を超え、更に十六倍まで荷重をかけても何の問題もなかった。
翌六月十三日、三菱と中島のそれぞれの試作機が陸軍の所沢飛行場に持ち込まれた。
初めて見る三菱の機体は戦間期前半の飛行機特有の第一次大戦の飛行機デザインを引きずった直線的な形状で液冷エンジンをしていた。
まずは三菱機からテストが始まる。
地上での強度試験に合格し、テストパイロットが乗り込み飛行開始する。
無事飛び立ち、順番に試験メニューをこなしていき、急降下テストのところで有ろう事か空中分解したのだ。
運良く、テストパイロットは脱出に成功しパラシュートで降りてきた。
後で聞けば、この日本での初パラシュート脱出者になったそうな…。
そして、三菱がここで脱落した。
いよいよ我が中島飛行機の新型機NCがテストを受ける。
地上試験を楽々とクリアし、いよいよ改良ワスプの爆音が響く。
このエンジンは国内では殆ど知られておらず、米海軍が採用した他は日本の我が社だけが使っているエンジンだ。
ちなみに、海軍機で採用していたジュピターを供給するブリストルだが、以前訪問した時に話していた新型のマーキュリーのリリースが届いていた。
まだジュピターと同じくらいの馬力数だが構造が新しく、確か爆撃機や戦闘機のエンジンとして広く使われたはずだ。
社長はサンプルに一台輸入すると話をしていたからそのうち見る機会もあるだろう。
テスト飛行は特に問題もなく急降下も含め全ての試験を終えた。
この時点では優速で運動性も良いとの評価。
月が明けて六月、試作弐号機も完成した。
試験の場は所沢から立川に移され、更にここで陸軍パイロットのテストを受ける。
水平きりもみや宙返りなど曲芸乗りも難なくこなし、空力性能も申し分ないと評価を受けた。
年が明けて昭和四年、海軍と陸軍、両方で試験は進み両方の設計担当者である私は慌ただしく飛び回る羽目になった。
採用に向けて機体内部の精査を始めた陸軍に海軍と同じ様に防弾装備の説明をさせられた。ただ、陸軍は意外と物分りが良いと言うか、意図を説明すればあっさりと納得した。
他社の飛行機と比べても一回り大きい機体であるということに関しても、意図を話せば理解してもらえる。それが陸軍だった。
ちなみに大きいと言っても大戦期の戦闘機と比べればそれほど大きいわけでもない。
立川で十分なテストを経て飛行審査が終了した。
そして気がつけば八月、次は明野に場所を移し、更にテスト飛行をする事になった。
明野には戦闘機乗りの養成学校があり、特に腕利きのパイロットが揃っているらしい。
八月十四日、明野のテストパイロット原田中尉が担当し2日の日程でテストが行われた。
ワスプの改良はその後も続き、今年新たに届いた四百五十馬力のワスプはこの日も快調にエンジン音を響かせる。
ちなみに、レンチェラーからは更に排気量を増したホーネットと名付けられたエンジンも届いた。このモデルは米国以外にも大々的にセールスを掛けているらしい。
今は戦間期で米国の軍需メーカーもセールスに苦労している様で、三菱にも売り込みをかけているらしい。
さて、原田飛行士によるテストだがさすがベテラン、軽く離陸すると大空に舞う。
高度を取るとテストを開始する。
垂直旋回、横転、急上昇、上昇反転、宙返り、その腕を見せつけるかのような高等飛行を披露する。
そして、テストが終了し戻ってきた原田中尉は上機嫌。
速度は出るし上昇力、操縦性申し分ないとの評価。
そして翌日、真夏の太陽が照りつける中、二日目のテストに入る。
今回は垂直飛行など機体限界を試すらしい。
昨日と同じく爆音を轟かせ空に舞い上がる。
急上昇して高度を取ると、今度は急降下を始める。
高度は二千五百メートル、地上に合図して真っ逆さまに垂直降下を開始した。
機体は高度をどんどんと下げていくが、難なく機体はついていく。
そして、操縦桿を引いたのかフワリと上昇反転すると、何度か同じ飛行を繰り返した後、戻ってきた。
急上昇、急降下、上昇反転、全てにおいて機体は安定しており申し分ない。
と笑顔で話してくれた。
陸軍は日本の独自設計の新型機が採用できるという事で、特に期待していると話してくれた。
私はまたしても微妙に複雑な気分になる。今の私は名実ともに日本人であるが、やはり前世のロシア人であるという感覚も常に残っているのだ。
テストの結果、一号機、二号機共に問題なく、二号機を提案している偵察機型に変更する事になった。
予定通り二号機を複座にし翼を偵察機向きの参考にしたHs126の翼に近い形に変更する。これで運動性能は落ちるが低速域での飛行性能が向上し、滑空飛行でもそれなりに飛べる様になるはずだ。
ただ、五十キロの模擬爆弾を搭載した所、やはりエンジンの馬力が足りておらず、飛行性能がかなり落ち、まだ実用的ではなかった。
偵察型とした二号機と併せて陸軍でテストが進み、偵察機としても優との評価を得た。
この間、海外でも新型機が続々と公開され、ブリストル本元のブルドッグ、アメリカのカーチスホークP6などが次々と出てくる。
社長が参考にブルドッグを輸入し、三菱がホークを輸入した。
しかし、既に国産戦闘機の夢を見ている陸海軍は次のトライアルでは最初から純国産を要求する見通しらしく、参考にしかならないだろうと言う話だ。
社長も届いたブルドックを見て悪い機体ではないが我がNCを見れば凡庸の一言に尽きると話していた。
レンチェラーからホーネットの改良版が届き、径が合うのでエンジンカウルを再設計して偵察型に搭載。エンジンの重さや再設計部分の分、機体重量が増えたが五百馬力を超えるエンジンパワーを得た事で性能に変化は無し。
ホーネットは更にパワーアップすることがわかっているので、徐々にバージョンアップしていけばいい。最終的には楽に爆弾も搭載できるようになるだろう。
そして、陸軍機のテスト立ち会いや細かな修正、海軍機の追加要望による仕様追加などの対応などに追われていると年が暮れた。
昭和五年、西暦でいうと1930年だ。前世だと去年の暮れに逮捕されて今頃死刑判決を受けた後、強制収容所に居る頃だな。今頃だとI-15の開発準備をしていたな。
さて、海軍機もNCも増加試作機が発注され、それぞれ五機に迄試作機が増え、本来の装備である機銃も搭載された。
戦闘機型は機首に八十九式固定機銃を二挺、偵察機型は更に後部座席に八十九式旋回機銃が一挺。
八十九式固定機銃というのは英国のビッカース機銃の、旋回機銃の方は仏国のオチキスのライセンス生産版らしい。
しかし、海軍と陸軍で違う航空機銃を使い、弾の互換性も無いというのはどういうことなのだ。
エンジンを交換し見た目が若干変わった偵察型は特に問題なく陸軍の再審査も合格した。
その年の加藤敏雄少佐の元、更に試験が進められ、武装の動作確認、地上目標の攻撃試験、偵察機としての能力試験など、更に実践的にテストされた。
加藤少佐の評価も極めて高く、テストに加わった陸軍パイロットも早く乗りたいとの要望が出るほどだった
そして、その年の暮を目前にし、陸軍の採用が決定した。
型式は九十一式戦闘機、及び九十一式偵察機。
量産型の最初の納品は昭和六年からと決まった。
更に海軍での採用も決まり、こちらの方は九○式艦上戦闘機となり、こちらの方は準備もあり昭和七年からの納品と決まった。
なんでも、着艦速度が早すぎて乗せる予定の空母の改修が必要らしい…。
一先ずこれで、陸軍と海軍の新型機の仕事は一段落したのだった。
陸軍の要望通り制作した結果、ドイツの偵察機にインスパイアされた戦闘機になりました。




