第二話 1924-1926 海軍向け新型戦闘機の開発
史実では三式艦上戦闘機と呼ばれた戦闘機の開発です。
中島飛行機での初仕事は製図の清書だった。
私もかつて会社に入りたての頃、この仕事をやったものだ。
製図の清書をやることで製図の作法を学び、そして先輩達の図面を見ることでその技術を習得する。悪くいえば下働きだが、これを経ずして設計者にはなれない。
勿論、製図の清書は新人だけがやっているわけではなく、清書を専門にする図工という人たちが居て、彼らが清書した設計図はさすが本職と言えるほど美しいものだ。
この中島飛行機でも大事な図面は図工が清書したり複製したりする。
そういえば青焼きなんてものもあった気がするが、あれの普及はまだもう少し先立ったような気がする。
他にも語学が堪能な事を買われて、海外から購入した製品の翻訳なんかも頼まれた。
ちなみに、私はロシア語は勿論英語、ドイツ語、フランス語が使える。
以前の母国語のロシア語は当たり前だが、英語とドイツ語は前世から使えたのだ。
二度目の人生になってから日本語が話せるようになり、大学で飛行機やるなら必須だと言われフランス語を学んだ。前世の英語とドイツ語も似たような経緯だ。
この時期会社ではフランスのニューポールのドラージュが開発した機体をライセンス生産していたが、早くも次の主力戦闘機の契約を勝ち取るための模索が始まっていた。
私は一度通った道であり、この時期に開発可能な戦闘機の一つの答えとしてI-15を持っていた。
あの機体は開発されたときは国際水準で見ても優れた機体だったと思う。
英国のグロスターにもドイツのハインケルにも劣らないはずだ。
私はI-15をスケッチすると折を見て社長にそれを見せたのだった。
すると社長はジックリとそれを見た後、私の肩をポンポンと叩きこう言ったのだ。
何だ良いのがあるじゃないか。と。
それが次のコンペに私の飛行機を出すことが決まった瞬間だった。
まさかすんなり通ると思わなかったが…、他の技術者も口々に良いじゃないかと。
後押ししてくれたのだった。
流石、若手を抜擢するので有名な会社だ。風通しが良すぎるくらいに良い。
I-15位の機体を制作するには、当然それに見合ったエンジンが必要になる。
最低でも500馬力クラスは無いと駄目だ。
現時点で中島飛行機で使えるエンジンはブリストルジュピター。前世のソビエトでいうところのM-22だな。このエンジンは当初I-15にも搭載した。
良いエンジンだが、パワーが物足りない。結局I-15もパワー不足でM-25に載せ替えたのだ。
社長にエンジンの話をした所、いい機会だから一寸欧米を見てこいと言われた。
幸いお前は語学が堪能だから通訳もいらないだろうと。
良いのが見つかったならすぐに連絡を寄越せと言われ、単身渡航することになった。
そうして私は中島飛行機製作所チーフエンジニアの肩書でまずはヨーロッパへと旅立ったのだった。
まず到着したのは英国。直ぐに日本大使館へ向かう。予め行きたいメーカーを書いて手紙で知らせて置いたので案内を頼んだのだ。
社長が事前に知らせておいてくれたので、大使館のスタッフが案内してくれるそうで、まずブリストルへ行く。
日本から航空技術者がエンジンを見に来たと歓迎され一番新しいジュピターを見せてもらえた。そして、開発者のフェデン技師とも会うことが出来た。
彼は今は詳しい話が出来ないがもっと良いのが出来ると思うと話していた。
その後、フランスへ渡り、
そしてドイツへ。
飛行機、エンジンメーカーの視察をして周り渡米した。
仏独二国では私が望むものは見つからなかったが主要メーカーを周り資料を貰ってきた。
米国ではまず中島飛行機の米国駐在社員と落ち合い、彼の用意してくれた車でニューヨークのロングアイランドにシコルスキーに会いに行った。
以前は日本の大学生だったが、日本の航空メーカーに入ったということを話したらとても驚いていた。
シコルスキーは今民間向けの飛行機を開発してるらしい。
彼にエンジンを購入するために視察に来たと話すと、ライトの紹介状を書いてくれた。
これは収穫だな。
早速と、ニューヨーク州のすぐ隣りにあるニュージャージー州のライトへと向かった。
シコルスキーの会社からライトの所在地まではそれほど遠くなかった。
ライトではシコルスキーの紹介状を渡すと、社長のレンチェラー自らが案内してくれるという。
シコルスキーとレンチェラーは面識があるらしく、中島飛行機としてここに来てはいるのだが、彼の紹介状が無ければまさか社長自ら出ては来なかったのではないだろうか。
前世でレンチェラーの名は聞いていた。アメリカの有名なエンジンメーカーの社長だ。
空冷エンジンの利点をよく理解していて、自ら理想の空冷エンジンを作り上げた人物だ。
彼は聡明で物事がよく見えていて、私は興奮気味に私が望む空冷エンジンの話をつい熱が入って語ると、彼は何度も頷き、そうだそうなんだと。
だが、私が作りたいエンジンはこの会社の株主には理解されない。とつい愚痴を零し、失言だと撤回する。
ところで君はシコルスキーの友人だというから会ってみたけど、君は何をしに来たの?と問われた。そうだった、彼と会えたことに舞い上がってしまって肝心なことを話すのを忘れていた。
改めて、日本の中島飛行機から新しい飛行機に使うエンジンを探しに来たと話したのだった。なんとも恥ずかしい。
それを聞き彼は苦笑いすると、今のライトのラインナップを説明してくれる。
しかし、現時点でのライトのラインナップではブリストルジュピターを超える物は無く、既にブリストルでジュピターも見てきたと話をする。
彼は、君が話すエンジンは未だここにはない。
だけど、良い出資者が見つかれば提供できるかも知れないと。
君が先程話した君が望むようなエンジンを作りたい。だが、この会社では無理だ。
と話した。
私は彼は社長なのに何故無理なんだろうと思ったが、難しい事情があるんだろう。
出資者ですか…。というと。
彼は黙って頷く。
少し時間を貰えるならば、うちの会社の社長に聞いてみましょうか。
良いエンジンが手に入るならきっとお金を出すと思います。
そう話すと彼は君の会社は日本の会社だから、国と国との関係で将来提供できなくなる可能性があることを伝えておいてほしい。
少なくとも、出資に見合うものは提供するつもりだ。
今我が国と日本は友好国で提供が難しくなるような関係ではないからね。
と話してくれた。
それを直ちに社長に電報で報告し指示を仰ぐ。
数日後、社長から返事が届き金額を聞いてくる。
再びレンチェラーを訪れ出資する旨を話し金額を聞くと百万ドル位必要だと答える。
百万ドルとは月給百円の私の感覚では想像を絶する金額だ。
それを社長にまた電報で知らせると、それで良いエンジンが手に入るならそのくらい出すと返事が帰ってきた。
それをまたレンチェラーに知らせると彼は驚いていた。
そこで改めて条件を出してくる。
作ったエンジンを中島飛行機に独占供給としない事を認める。
実は既に海軍から購入の約束があるらしい。
将来的に独立し資本提携関係を終了させることを認める。
可能な限りエンジンの供給は続けたいが、先に話した国と国との関係で提供できなくなる可能性があることを認める。
彼が出した条件は以上だった。
独立し資本提携関係を終了させることを認めるというのは随分虫がいい様にも聞こえるが、いずれにせよライトの様に肝心のレンチェラーが嫌気が差して辞めてしまっては意味がない。
その辺りも含め、再度社長にといあわせると構わないとのこと。
但し、技術を学びたいから中島からエンジニアを出向社員として無給でこき使ってもらって構わないから受け入れてくれと伝えてくれと言われた。
その条件をレンチェラーに話すと、彼は苦笑いし了承した。
その後、レンチェラーはライトを辞して新会社設立準備に入り、中島飛行機と弁護士立会いで出資契約を結び正式に出資を受けた。
更にウォルストリートで集めた資金と合わせ、コネチカット州にレンチェラー航空エンジン製造会社という新会社を立ち上げた。
設立式には社長も日本から出てきて参加し、連絡役の役員を新会社に一人送り込んだ。
私はその間通訳として社長に同行していた。社長は終始上機嫌だった。
これでエンジンは確保できた。
私は帰国すると欧米視察をレポートに纏め、各企業から貰った資料などを付けて提出する。暫くは土産話に同じ話を何度もする羽目になった。
社長に新型機の設計の話をすると、なら一度図面を引いてみろというので早速I-15の設計に取り掛かる。
勿論、以前作ったI-15そのままではない。
I-15の開発の後得た知識やノウハウを盛り込んだ新しい機体だ。
若い身体は素晴らしい、かつて帝政ロシア時代の楽しい時間が戻ってきたかのようだ。
そうだ、私はこの時間を取り戻すために魂を売り渡したのだ。
私は若さに任せて取り憑かれたようになり、寝食を忘れて一心不乱に図面を引く。
最初は新人がどの程度できるか見てやろうという感じだった先輩たちも私の仕事をみて舌を巻く。当たり前だ、私は前世でこの仕事をここに居る誰よりも長く何倍もの期間やっていたのだ。
ここの製図の作法は製図の清書の仕事の時に学んだし問題はない。
そして、設計図は完成した。
気がつけば膨大な量の図面を引いていた。
製図に打ち込んでいる間に社長がたまに覗きに来ては差し入れを置いていってくれるのが本当に身にしみてありがたかった。前世ではこんな事は無かったからな。
設計図を技術部の責任者が目を通し、問題ないことを確認すると改めて社長に見てもらう。
社長が確認し承認印を押すと、モックアップの制作だ。
最初は小さな物、そしてある程度大きな物を作れば風洞実験だ。
勿論、前世でI-15は実物大の風洞実験は済ませてあるが、これは更に洗練されている。
実質的にはI-15Bis改と呼ぶべき機体だ。
当然ながら問題なく開発は進んでいく。
前世では苦労もあったが、最初から答えがわかる今は至極順調。
そして年が明けて大正十五年。
海軍の新型戦闘機の試作を指示された。
中島飛行機は既に準備がかなり進んでいる。
一応、レンチェラーからエンジンが届くという話だが、念のために既に存在するブリストルジュピターも入手してある。
問題は、海軍機を私は設計したことがないということだった。
陸上機としては自信があるが海軍機だとどうなのだろうか。
社長としては初の日本独自設計の戦闘機として売り込みたいようだ。
それを聞き、少々複雑な気分になった。
社長の号令のもと、試作機の製作は急ピッチで進み、金属モノコック構造の新型戦闘機が完成した。
試作一号機はブリストルジュピターが搭載されている。
試作機は他社に圧倒的に先駆けて無事初飛行を成功させ、その後テストの結果時速三百キロを超える速度を達成した。
同時にトライアルに参加した三菱、愛知とも二百キロ代半ばで中島の新型機は圧倒的な性能を発揮し比較対象にもならず、海軍の予定よりかなり前倒しで無事採用されることになった。
レンチェラーからエンジンが届けばそれに載せ替えた試作も作る予定で、海軍でテストや改修点の洗い出しを重ね最終的に生産に入るのは三、四年後とのことだ。
来年には陸軍の新型戦闘機のトライアルがあるらしいが、同じ機体では駄目らしい。
さて、どうするかな。
史実でもグロスターの戦闘機の模倣で採用を勝ち取っていますが、模倣ではなく日本人が初めて開発した海軍機になりました。艦載チャイカはなんて呼ばれるのかはまた次回。




