第二十一話 1941.1-1941.6 ジェット戦闘機
ジェットの開発は進みます。
昭和十六年一月
とうとう前の人生での祖国でナチと間に大祖国戦争が始まった年になってしまった。
そして、私の記憶では来年には二度目の人生の祖国であるこの日本も米国と戦争をしていた筈だ。
ただの航空技師に過ぎない私は私に出来る事をやるしかないのではあるが…。
今年も例年通り実家への里帰りから一年が始まる。
娘を連れての帰省であるが、今年は実は四人での帰省であることが分かったのだ。
年始早々という気もするが、二人目が妻のお腹に居ると告げられたのだ。
我が家にとって慶事であるが、垂れ込める戦雲を前にして正直不安しかないのだ。
今年はいつものただ親の喜ぶ顔を見るだけの里帰りではなく、万が一戦火が帝都に及んだ場合の話し合いをした。
その結果、我が家は東京府の奥多摩に実家があるので、危なくなれば実家へ妻子を避難させることになった。
年初早々、海軍が中国の昆明を爆撃したと報道があった。
国民党軍への補給を断つ目的だという事だが、中国に対する領土的野心が本当に無いのなら手を引くべきではないかとやはり思うのだ。
中国に関わったおかげで本来友邦であったはずの欧米諸国と険悪になり、日本は今や経済制裁まで受けているのだ。
仮に中国に完勝出来たとして、我が国は一体多くの犠牲の上に何が得られるというのであろうな。
今月、以前から開発を進めていたワグナーの研究所で一先ず完成したジェットエンジンの燃焼試験が行われた。
長さ2.7メートル、直径62センチの円筒のそれは乾燥重量が390キロであるという。
五段の軸流式コンプレッサーと十のカニュラー式燃焼器を持ち、タービンは一段で圧縮比は3:1。
万全を期した試験は順調に終了し、推力は9000回転で820Kgf、馬力換算で792馬力を記録した。
僅か390キロのエンジンが800馬力近くもたたき出すというのだから大したものだな。
勿論、ここからさらに性能が上がっていくという話だ。
難点としては現時点では燃料バカ食いでレシプロエンジンとは比較にならない。
燃費が改善しなければ本土で迎撃機として使うしかないだろうな。
それでも陸軍の技研は英独に続いての燃焼実験の成功に大喜びで、早速と戦闘機の設計の指示が出た。
以前ワグナーに見せたロケット戦闘機のジェット戦闘機版のスケッチは完成させてあるのだが、レシプロ機よりさらに大きな吸気口が必要だという事がわかり、いくつかのパターンを考えてみたが、結局のところ今のジェットエンジンでは単発では不安だ。
地上での燃焼試験はいわば実験室での実験の様なものであるから、新しい技術というのは不安が残るのだ。
そこで、単発機のスケッチと双発機のスケッチを起こした。
単発機は機首に大きな口を開けた胴体後部のジェットエンジンが貫通しているような構造のもの。
ただし、口が大きく空いている型は空力的にはマイナスであるのと、武装を機首に集中させる事が難しい。折角、プッシュ式推進でプロペラの制約から解放されるのに、機首にそれなりの装備を集中させられないのは勿体ない。
そこで、ヤコブレフが戦闘機で採用していたが、主翼の付け根に吸気口を設けた型もスケッチした。このモデルであれば機首に武装を集中させることが出来、中心に近い分命中精度も上がるだろう。
双発機は通常のレシプロ双発戦闘機の様な型も考えたがジェットエンジンの形状や特性を考えた結果、胴体後部の下に二つ並べる形で搭載するのもアリなのではないかと考えた。
これであれば恐らく双発機であるが単発機の様な特性を持てるのではないだろうか。
このあたりのスケッチを陸軍の技研に参考という事で渡しておいた。
昭和十六年二月
レンチェラーの置き土産、ハ45誉ことダブルワスプの米軍仕様、二段二速のスーパーチャージャーが搭載された二千馬力エンジンが完成した。
東京帝大工学部出身の私の後輩であり期待の若手である中川技師率いるチームが完成させたのだ。
彼は入社早々米国のレンチェラーに出向させられ、日本工場が出来て帰って来た所謂米国帰国組であるが、元々ダブルワスプの開発にも関わっていたらしい。
中川技師曰く、既に日本工場ではハ25栄ことツインワスプジュニアやホーネット、ワスプ等も生産され米国やカナダなど海外へ輸出されていたので、生産ラインも米国本国のレベルとそう大して変わらず、生産面においても今のところは不安が無いとの事だ。
中川技師は現在のダブルワスプは大きすぎるとの指摘を受け、径を1321ミリから1180ミリへと小型軽量化版を求められているとの事。
米本国風に言えばダブルワスプジュニアが欲しいという事なのだろう。
零戦やキ43に径1121ミリの小型のツインワスプジュニアを採用したのもそれが理由なんだろうか。
ハ45もそのまま更新を続けるとの事で、水メタノール噴射装置も取り付けられた。
それによって使用時は二千二百五十馬力への馬力上昇が可能との事。
早速と百式戦闘機のエンジンも更新し、試験飛行した結果690キロ越えの最高速を達成した。
陸軍の試験でも特に問題は無く、高空域での速度も素晴らしいとの事で、更新された機体は百式戦闘機Ⅱ型と呼ばれ採用されることになり、現在配備されているⅠ型は順次Ⅱ型に更新されることになった。
昭和十六年三月
十三試艦戦の図面を引き終わり、モックアップを作成して風洞試験などを行う。
海軍の技官の審査も特に問題なく、順調に開発は進んでいく。
前の人生でもそうだったが、飛行機の開発遅延やトラブルの多くはエンジンに起因することが多い。
今回の場合、百式戦闘機で既に実績のあるエンジンを使用する為、この部分での不安は無く予定通り進行できるだろう。
海軍では零戦で使用不能の為、流れ気味だった空母へのカタパルト搭載が、今回の十三試艦戦で再び前に進みだしたとの事だ。
カタパルトとか海軍装備に関しては正直門外漢でどんなものか位しかわからないが、機体が頑丈でなければ使えないという事はわかった。
昭和十六年五月
陸軍の審査が続いていたキ43であるが、再試験の結果九七戦より明らかに優れていると認められ、一式戦闘機として採用された。
小山はやっと肩の荷が下りたという感じであるが、既に陸軍は重戦闘機がかなり活躍しており、依然として格闘戦至上主義者は居るものの以前ほどではない。
結局、貧弱な武装で弾を食らえば簡単に致命傷になり得る戦闘機と、重武装でなかなか落ちない戦闘機とどっちに乗りたいかと言われれば少しでも生き残りやすい戦闘機を選ぶパイロットが少なからずいるのは当たり前だろう。
とはいえ、陸軍が重戦闘機を史実より早い時期に出して来た事により、中国に空軍を提供しているソ連も対応してくるわけで、LaGG-1そして程なくLaGG-3が更にはYak-7が飛来するようになったのだ。
それらの戦闘機は九六戦や百式戦闘機と互角では無いが、頑丈で12.7ミリ機銃や二十ミリ機関砲を搭載しており、その力は決して侮れず最早九七戦では太刀打ちが苦しくなっていたのだ。
その為、前線からは一式戦を一刻も早くという声が届いていた。
直ちに中島は用意してあった生産ラインをフル稼働させ、一式戦闘機を陸軍へ引き渡し始めた。
ソ連軍が使ってきたという事もあり、ロケット弾が陸軍でも作られた。
実はソ連のロケット弾はノモンハンの頃には鹵獲されていたらしいのだが、命中精度が悪いと採用されなかったのだ。
それが、ワグナーが手を入れたロケット弾はジャイロこそ搭載しないもののソ連の物よりまっすぐ飛ぶため、試しに生産して実戦で使ったところ、対地支援に有用という結果だったのだ。
その結果、襲撃機は勿論の事、九六戦や百式戦闘機にもロケット弾が搭載できる様になったのだ。
海軍向け十三試艦戦の試作は順調に進んでおり、来月には試験飛行が出来そうだ。
ジェットが実際に飛ぶのはもう少しかかりそうです。




