第一話 転生
ある航空技術者はこの世に強い思いを残して死にました。
女神は彼の最後の心の叫びに応えます。
私はニコライ・ポリカルポフ、ソビエト連邦の航空技術者だった。
人生の最期の時を迎え、走馬灯のようにこれまでの人生が思い出される。
思えば私の人生は躓きと後悔の繰り返しだったな。
帝政ロシアの航空会社の技術者としてのキャリアをスタートさせた私はそこでシコルスキーと巡り合った。
彼は大した技術者で当時としては先進的な飛行機を幾つも完成させ飛ばしたものだ。
あの頃は若くそしてシコルスキーという優れた技術者の下での飛行機作り。
毎日が楽しかったな。
しかし、そんな楽しい時間は長く続くことはなく、ロシア革命。
二月革命で帝政ロシアは崩壊し、十月革命であの人の命に何の価値も見出さないボリシェヴィキが権力を握った。
そんな祖国の将来に絶望したシコルスキーはチームを率いて亡命していった。
彼のチームの一員であった私も一緒に亡命して異国で飛行機作りを続けようと誘われていたが、私は父母を残して新天地に行く決断ができなかった。
何度も説得されたが、結局私は行かなかったのだ。
この時の決断は終生の後悔としてついて回り、躓くたびに思い出しては後悔した。
もし、あの時彼とともに亡命していれば、今頃米国で躓くことも冷遇されることもなく、元気に飛行機を作っていただろうかと。
私は多くの死を見てきた。祖国の非人道的な振る舞いを見すぎるくらいに見てきた。
かつての同僚でシベリア送りになりそれっきり戻らなかった者は決して少なくない。
同僚や身の回りに居る人がある日突然居なくなる。そんなのはこの国では日常なのだ。
私が死の病に罹り五十過ぎで死ぬ羽目になったのも、若い頃に無実の罪で裁判を経ることも無く死刑判決を受け、その後労働刑に減刑されたが収容所で劣悪な環境で過酷な労働に従事させられたからだ。
釈放後も帝政ロシア時代からの技術者ということで冷遇され、当局には常に監視される。密告に怯えストレスを感じない日など無かった。
それらが原因でないわけがないだろう。
当局に監視され冷遇され続ける中でも飛行機づくりを諦めること無く、心血を注いだ最後の機体は好成績だったにも関わらず政治的理由で量産されなかった。
それでもなんとか採用に漕ぎ着けようと改良に取り掛かったが結局途上で私は倒れた。
あの改良型は私にとって集大成ともいう飛行機だった。とても美しく、そして完成していればそれは群を抜いて速く、運動性も優れていただろう。
パイロットたちはきっとロシアの救世主だと喝采したに違いない。
とうとうこの世から去る時が来たようだ。身体が酷く寒い。
私にもう少し時間があれば、飛行機づくりが出来るなら魂だって売っていい。
ああ、シコルスキー。あなたについていくべきだった…。
「私の国を助けてくれるならば、あなたの願いを叶えましょう」
脳裏に何故か若い女性のはっきりした声が聞こえる。
最早意識は遠のき、何も聞こえないはずなのに。
途端、真っ暗だった視界は光りに包まれ、私は眩しさに目を閉じる。
そして、恐る恐る目を開くと…。
眼の前に黒髪の少女が立っていた。
ゆったりとした古い民族衣装の様な服を着た東洋人?
中国人か、それとも日本人か?
「さあ、時間はありません。
私があなたに再び人生を与えられるのは今だけなのです。
私の国を助けてくれますか?」
この少女は私の末期の心の叫びを聞き届けた女神様なのだろうか。
「再び飛行機作りが、それも存分に出来るなら私の魂はあなたに差し上げる。
それがあなたの国を救うなら、私は持てる力を最大限に揮う事を誓う!」
「しかと聞き届けました。
二度目の生を終えるまで再び会うことはありませんが、あなたの事は見守っていますよ」
私は再び光りに包まれ眩しくて目を閉じ意識を手放した。
再び意識を取り戻した時、風景はまるで違っていた。
この風景は…、かつて写真で見たことがある日本風の家屋に見える。
「健一、そろそろ起きなさい」
私はこの女性のことを知っている。そう新しい人生での私の母だ。
目が覚めてから、次々と記憶が蘇ってくる。
私の名前や年齢、これまでの人生での体験など。
篠崎健一、日本の首都東京に住む尋常小学校に通う小学生だ。
元々前の人生でも勉強は得意だった。特に記憶力には自信があった。
国は違えど二度目の人生、当然ながら小学校を卒業する頃には優秀で知られるほどになり、教師のすすめで高等学校を経て東京帝大へと進んだ。
そして大正十三年、大学を卒業した。
大学の間、調べたことがある。
シコルスキーは去年にアメリカで飛行機会社を設立した。大学の伝で調べて貰ったのだ。
早速私はロシア語で彼に手紙を書いた。自分は日本の航空機に興味がある学生で、あなたの作った巨大な飛行機には驚いた。ところであなたの会社にポリカルポフという人物はいませんでしたか?と。
以前、私が書いた論文を引き合いに出し、興味を持ったので質問したいのです。と。
彼は日本から、しかもロシア語での手紙が届いたのが嬉しかったのか、例の巨人機の写真とともに、返事をくれた。
ポリカルポフという人物は、うちの会社に居ないし以前の会社にも居なかった。
その論文は別の人の論文ではないのか?と。
つまり、この世界にポリカルポフは居ないということになる…。
祖国の航空史はどうなるのだろうな。
東京帝大では前世でも関わったが工学を学び直した。そして大学に通っている間、この国の航空機研究の最高機関だという航空研究所に足繁く通った。
少しでも飛行機づくりの現場に居たかったからだ。
航空研究所は実に居心地の良いところだった。自由の気風がありそれぞれが好きな研究をしている。そして私ような部外者が入り浸っても許容する懐の深さがあった。
そこでこの国の航空機研究者と日々航空機論議を交わすのは楽しい。
私は前世ではこの頃にはI-1を開発していたな…。
航空研究所には大学を出たら入らないかと誘われていた。だが、この研究所は基本的には純粋な航空技術の進歩が目的であって軍用機を作るところではない。
女神はこの国を助けてほしいと言っていたから、ここに居ては約束を果たせないのだ。
なにより、私は前世でやり残した続きをここで行い本懐を遂げたい。
私が選んだ会社は中島飛行機製作所だ。
かつて極東で私が作った飛行機とさんざんやりあった飛行機を作った会社だ。
九七式戦闘機。
それを作った会社を選ぶというのも皮肉な話だ。
しかし、航空研究所の話では航空研究所と同じく自由闊達な会社らしく、能力があればどんどん若手でも抜擢するところだと聞いている。
私が能力を発揮するならここだろう。
中島飛行機に入社の意思を伝える手紙を出すと、驚くべきことに返信の封筒には切符が入っており直ぐに会いたいと社長直々の返書が入っていた。
指定された日時に東京府下荻窪の中島飛行機東京製作所に尋ねていくと、いきなり社長と面接だった。
中島社長は東京帝大から人が来たと大喜びだったそうだ。
応募書類を手渡すと、ひとしきり目を通し、ニンマリと微笑む。
明日からでも良い、すぐ来てくれと。両手をがっしりと握られた。
こうして私は第二の人生を中島飛行機製作所で歩むことになったのだ。
マイナーな人を持ってきました。
それも、超絶未来チートというわけでもありません。
しかし、本来持てるポテンシャルを存分に発揮できないまま若くして亡くなってしまったのです。
そんな彼が皇国で活躍したらどうなるかという話です。