第十三話 1938-1938 重戦闘機本格始動
主人公の作った飛行機が少しずつ評価されます。
昭和十三年三月
ナチスがオーストリアを併合した。
かつては列強の一角を占めた国であるが、第一次大戦の敗北で解体されとうとうドイツの一部となったわけだ。
そういえばフランツはオーストリア出身だと言っていたな。
中国から引き揚げてきた試作機を一度引き取り、そのうちの一機をテストベッドにユモ211F-1の搭載を可能にする改修を行う。
具体的にはエンジンカウルの再設計と冷却系の再配置だ。
何しろユモのエンジンとイスパノ・スイザのエンジンは同じ∨12気筒であるが、ユモは逆∨なのだ。つまり、引っくり返して載せるようなものでプロペラシャフトの軸の位置も排気管の位置も下がる。
更にはこのエンジンはイスパノ・スイザに比べると少々寸法がある。
つまり、エンジンマウントは勿論、機首その物が再設計だ。
翼にもM2重機をそれぞれ一挺ずつ追加の合計四挺を搭載するが、翼には更にもう一挺ずつ載可能な様にした。
また、空気取り入れ口もエンジン側面に付けていたものを、前の人生で見たP51を参考に座席下面へと変更した。
エンジンが大きくなった為、場所を変更する必要が出た為だが、スツーカみたいに大きな口を取り付けるのは空力的に綺麗じゃないしな。
おかげで胴体後部に大型の冷却器が搭載できた。
そして、陸軍の方で正式に光像式の射撃照準器を採用する事とし、ドイツのOIGEE社製ReviC/12のライセンス権を日本光学機器に取らせて生産を開始したため、それも今回の改修機から搭載した。
いよいよ試作機ではなく本格的な大戦型戦闘機となってきた感じがするな。
昭和十三年四月
前線のパイロットらが待望する九七式戦闘機が中国大陸に進出した。
パイロットらは九○式や九五式に比べ優速で上昇力にも優れ運動性能抜群のスマートな新型機を大歓迎したそうだ。
小山が心血を注いだ軽戦闘機が目覚ましい活躍をしたのは一度目の人生で知っている。だが、I-15やI-16より頑丈なI-14に貧弱な武装では苦戦するような気がするのだ。
華北ではソビエト製のI-14の他、イギリス製のグラディエーターも見かけられたとのことで、先月下旬に発生した帰徳上空における空中戦は大規模であったらしい。
その空中戦では九○式や九五式しか無かったため苦戦し、多くの敵機を撃墜したものの日本機にも未帰還が出たと聞いた。
そして四月十日にも三十機あまりの中国軍機が飛来し、大規模な空中戦があった。
この日新型の九七式戦が迎撃に飛び立ち、敵機の殆どを撃墜し日本軍機にもまた未帰還機が出たが敵の損害に比べれば軽微であったそうだ。
小山の作った軽戦闘機である九七式戦は極限までの速度と運動性を満たすため徹底した軽量化を図ったため防弾装備は皆無であり当たらなければどうということはないが弾を食らうと当たりどころが悪ければそのままパイロットを貫く。
対して中国軍機に関しては頑丈なI-14は被弾して撃墜報告されていても生還している場合もままあるのではないかと思うのだ。
96式戦闘機の改修機が完成したので陸軍航空技研へ連絡すると、担当技官と共に今士官学校へ行っている若松軍曹がやってきた。
若松軍曹は改修機を見て、最近ドイツから輸入したHe112そっくりになったと一言、言われてみれば確かに似ていなくもないが…。
それを聞いて技官が笑い出した。
私は思う、結局ドイツにも採用されなかったHe112と一緒にしてもらっては困る。
あんなに細く小さく弱々しい拡張性も無いような機体ではないのだ。
技官に改修点と概算性能を話すと目が輝き出す。そして一言、モーターカノンはつかないのかと。
エンジンが対応してないからモーターカノンはつかないんだと話すとがっくり。
ユンカースの連中に話をしておこう。多分、このエンジンでは無理だと思うが。
次のエンジンでは考えてくれるかも知れない。
陸軍さん立ち会いの下、中島のテストパイロットが早速と試験飛行。
初めて搭載したユモはイスパノ・スイザとはまた違ったエンジン音を響かせ、変な振動もなく特に問題もない様子。
勿論、この辺りは飛ばす前に何度も試験しているから問題はないはずだ。
日本でドイツ人の手で作られた日本製のユモというのがなんとも複雑だが。
試験飛行は危なげなく離陸し、一通りの試験メニューをこなしたが問題なかった。
千三百馬力を超えるパワーを得た96式戦闘機は最高速度600キロを超え、二段の過給器を持つため高空にあってもその性能を大きく下げることはないのだ。
降りてきたテストパイロットは興奮気味でこんな凄い機体に乗ったことはないと語る。
しかし、運動性では97式戦に劣るとの意見。
この戦闘機で相手の土俵に乗って巴をやるやつは馬鹿だと思う。
機体の点検をしても特に問題はなく、技官に報告すると早速この機体を引き取って陸軍でもテストをするとの事だ。
テスト飛行を見て我慢出来なくなった若松軍曹が是非に飛ばしたいと言うので、再度飛んでもらった。
どうやら、改修機は若松軍曹が乗っていた機体でもあるそうだ。
戦闘機パイロット、しかもエースクラスの軍曹が乗ると途端に動きが変わる。
急降下、急上昇、インメルマンターンが見事に決まる。
これを見れば華北で鎧袖一触だったというのは本当だと信じる事ができる。
技官が連れてきた記録係に軍曹が飛ぶ様子を八ミリカメラで撮影させ、満足気に空を見上げる。
これは行ける。行けるぞと、何度も呟くのを聞き私も手応えを感じたのだった。
降りてきた若松軍曹は大興奮し、これだ、こんな戦闘機が欲しかったんだと絶賛。
陸軍さんは大満足で帰っていった。
改修機は再整備すると陸軍に納品し、残りの四機も同じ仕様で改修しこちらも納品した。
月末までに細かな改修点を修正すると正式に発注され生産開始となった。
但し陸軍のパイロットの評価は完全に別れており、96式戦の様なデカくて旋回性能に劣る戦闘機は必要ないという意見も多いと聞く。
それとは別に中国大陸での運用を考えると水冷エンジンの整備は困難との懸念が戦地の整備班から出ているそうだ。
個人的には中島飛行機の製品は他社よりも規格の標準化が進んでおり、同じ規格製品であればどの機体、どのエンジンでも問題がないはずであり、予備のエンジンを持っておいて一定時間乗れば交換、交換したエンジンは後方の整備工場で指導を受けた整備士が整備し返却する形がいいのではないだろうかと考える。
機体の好みに関しては設計思想が違うのだから好みの戦闘機に乗ってくれとしか言えないな。
陸軍は先の若松軍曹の試験飛行隊のデータを見て一撃離脱戦法専門の飛行部隊を作り、そこに九十六式戦を配備運用する方針だと話していた。
国家総動員法が公布されいよいよこの国も本格的に戦争に突入していく。
昭和十三年五月
中国での戦争が激化する中、陸軍から重戦闘機キ-44の試作発注があった。
水冷の96式戦だけでは不安ということらしく、1500馬力級空冷エンジンを搭載し、600キロを超える高速と重火器を搭載した戦闘機というオーダーだ。
川崎も九六式に触発されたのか新たな水冷戦闘機を計画中との事だ。
小山らはキ-43の開発をしているため、キ-44は私が担当する事になった。
既に時間を見て図面を引いていたI-188を再設計した重戦闘機がある。
エンジンはもうすぐ生産が始まるダブルワスプ。
ダブルワスプに搭載するに相応しい大型の機体で12.7ミリ機銃を6挺装備した重戦闘機だ。
防弾性にも配慮し12.7ミリ程度では簡単に落ちないような機体にする。
早速、図面をまとめると陸軍に提出した。
それとは別に、審査が続いていたキ31の試作機の追加発注があったため、エンジンをバージョンアップしたものを五機追加生産することになった。
試作機が出来たら試験飛行隊を組み、中国戦線で試験使用するとの事だ。
私としてはハルハ川の戦闘に間に合うように正式採用してもらいたいのだが、陸軍に無かった新しい機種だから戦術面など運用面も考慮して試験中らしい。
昭和十三年七月
初夏の頃、ユンカースからまた人が来たらしい。
ワグナーとミュラーの二人で噂に聞く中島飛行機にプロジェクトを売り込みに来たそうだ。
聞けば今日本に来ているユンカースの連中は厳密にはユンカース航空機製造会社ではなく、ユンカースエンジン製造会社でどちらもヒューゴユンカースの会社だったらしい。
つまり私が訪ねていったのはユンカースエンジン製造会社というわけだ。
勿論、系列会社で飛行機とエンジンは密接な関係だからその二つは密接な関係ではあるのだが、乗っ取りの経緯からよりナチの影響下にあるのがユンカース航空機製造会社だそうだ。
それで、合理化というか完全に政府がユンカースを手中に収めるためにエンジン製造会社が吸収合併される事になり、それを良しとしない日本にまだ来ていないグループがユンカースを辞めて移籍先を探しているということなのだ。
既にワグナーらと一緒に仕事をしていたチームの一部のメンバーが二年前にハインケルに移っており、残りのチームも来ないかという話もあったらしい。
しかし、日本の居心地の良さを日本に来ている連中から聞くにつけ、既にハインケルに先に行ったチームは新たなチームを率いて仕事をしており、後から行ってもあまりいいポジションで仕事が出来るとも思えず、新天地として日本を選択肢に入れるのもありだろうと。そう考えたとのこと。
ドイツは日々戦時色が強まっており、色々と横槍が入ったり政治力で開発が左右されて振り回されるなどろくな環境では無いそうだ。
ちなみに、ワグナーらが開発しているのはジェットエンジンだそうだ…。
ジェットエンジンは勿論前の人生でも知っているし、ホイットルの論文に目を通したこともあるが、ソビエトでは殆ど研究は進んでなかったように思う。
社長にプロジェクトをプレゼンしたところ、新しいもの好きで技師でもある社長はその新しい技術に目を輝かせ、是非受け入れたいと返事をし、彼らの為に研究所まで用意することになった。
その後陸軍の技研も興味を持ち予算も付くことになり、東大航空研究所も協力してくれることになった。
そして、その後ドイツから残りの移籍希望者が船で到着し、ユンカース出向組は本国に戻ること無く、中島飛行機に移籍したのだった。
これについてドイツ大使館から大規模な引き抜きだと抗議が来たそうだ。
しかし中島飛行機は民間企業であり、政府が関与するところではないと回答しドイツもそれ以上の抗議の声は上げなかったそうだが、恐らく裏では例の日独伊防共協定交渉が進んでいることもあり、事を荒立てなかったのだろう。
ドイツは水冷エンジンはユンカースに頼らずともダイムラーベンツとBMWという二大メーカーが存在し、最近ではユンカースの作る軍用機にもこの二社のエンジンが搭載されていると聞くし、ユンカースエンジン製造会社が持つ巨大な生産設備はそのままユンカース航空機製造会社に吸収されたから目的も果たしたのだろう。
技師にしても日本に来たのは全体から見れば一部に過ぎないらしいし、大勢には影響しないのだろう。
これで水冷エンジンは今後本格的にユンカース系になるのだろうな。
昭和十三年八月
キ31の追加試作機を納品した。
その後、中国にて実戦試験を行い九八式襲撃機として採用された。
前線でも対地攻撃時の安定性や地上からの対空砲火を物ともせず飛び回る本機の評価が高く、早期の戦力化が要望されたそうだ。
現地からの要望で、爆装の強化など、武装の強化が求められ、12キロ爆弾を12個吊り下げられる懸架装置や50キロ爆弾を4個吊り下げられる懸架装置など、任務に応じて懸架装置ごと交換できる方式に変更した。
また機銃掃射のしやすさが買われ武装も12.7ミリ機銃を4挺に強化された。
これでハルハ川の戦闘に間に合うだろう。
更にはキ44の図面審査が終わり、試作機の発注があった。
いよいよ忙しくなってくるな。
ユンカースからの大量移籍でユンカース開発のエンジンは消え、ユンカースの巨大生産設備は他社エンジンの生産拠点と化して、ドイツはかえって効率化されたかもしれません。




