エル・グレコの下絵
海の彼方から昇る朝日が、静まり返った海上を黄金に照らし出していた。
昨夜まで荒れ狂っていた暴風の気配はすでになく、海はまるで嵐など初めから存在しなかったかのように穏やかに凪いでいる。
その海を一望できる岬の上で、一人の男が画材を散らかし、夢中で筆を走らせていた。
男の名はエル・グレコ。
アンティキティラ島で唯一の画家である。
グレコは、筆を止めて朝日と自らの絵を交互に見つめた。
絵の中では、陽光を浴びた家々や波の揺らめきが見事に描き出されている。
息を詰めるように描いていた彼は、ふと「フゥー」と長く息を吐いた。
次の瞬間、グレコはバケツを持ち上げる。
そして、ためらいもなく、それを完成したばかりのキャンバスへとぶちまけた。
色が混ざり合った水が流れ、見事な風景はたちまち無残に溶け崩れていく。
グレコは何の未練も見せず、画材を乱雑に鞄へ押し込み、汚れたキャンバスを小脇に抱えると、苛立ちを隠さぬ足取りで自分の家へ向かって歩き出した。
村の入り口に差しかかる頃、朝の漁に出るため準備をしていた漁師たちが彼に声をかけた。
「おや、グレコさん。早いねぇ」
「……」
「こんな朝早くから絵描きかい?」
「……」
グレコは一言も返さず、無言のまま通り過ぎた。
「おはよう、グレコさん。今年でしたよね? 教会に寄進する風景画を描く年は」
「……誰が……」
「え?」
「誰が! 吾輩が描くと言った! 勝手に決めるな!」
怒鳴り声に漁師たちはたじろぎ、グレコはそれ以上言葉を発することなく、足早に去っていった。
残された漁師たちは、あんな剣幕で怒鳴ることはないだろうと顔を見合わせ、黙って作業に戻った。
家に戻ったグレコは、持っていた荷物を乱暴に投げ捨て、ドカリと椅子に腰を下ろす。
油絵具と溶剤の混じった匂いが鼻をつく。
彼は深く息を吸い、奥の部屋の壁に立てかけられた一枚の絵を見つめた。
それは村の風景を描いた未完成の下書きだった。
他人の目には十分に見事な出来栄えに映るだろう。
だが、グレコにとっては――失敗作に過ぎなかった。
いつからだろう。どんなに筆を重ねても、満足のいく絵を描けなくなったのは。
思えば、この教会の風景画を描き始めた頃からか?
彼の中の何かが、静かに錆びついてしまったようだった。
「……はぁ」
ため息がこぼれる。
そのとき、玄関の扉を叩く音がした。
トントン――間をおいて、またトントン。
グレコは眉をひそめる。先ほどの漁師が文句を言いに来たのかもしれない。
無視を決め込もうとしたが、ノックはしつこく続いた。
イライラして重い腰を上げ、わざと足音を響かせて扉を乱暴に開ける。
「キャッ!」
甲高い少女の声が響いた。
見ると、神学校の制服を着た少女が驚いた様子でこちらを見上げている。
グレコが戸惑っていると、その背後から若い将校の声がした。
「失礼ではないか。まずはレディに謝罪したまえ」
将校の背後には部下らしき軍人の姿があり、さりげなく手をホルスターに添えている。
グレコの顔から血の気が引いた。
「リヒトさん! 駄目です!」
少女が慌てて将校を制した。
「突然、私たちがアポイントも取らずに押しかけたのが悪いんです。エル・グレコさんですね? 驚かせてしまってすみません」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「……あ、あぁ、うむ」
不意を突かれたグレコは、どう返せばいいのかわからず曖昧に頷いた。
「あなたにお聞きしたいことがあって来ました。あっ、私はマリアと申します」
彼女の自己紹介に、グレコはまだ戸惑いを隠せぬまま頷いた。
「まあ……何だ、入り給え」
理由はわからなかったが、玄関先でこれ以上やり取りするのも厄介だと考え、グレコは三人を家の中へと招き入れたのだった。
油の匂いで満たされた家の中で、マリアとリヒトは椅子に座るよう勧められ、腰を下ろした。
ギュンターも同様に椅子を勧められたが、「従兵ですので」と言って、リヒトの背後に立つ。
「来客など滅多に来ん。散らかっているが気にするな」
そう言いながら、グレコはキッチンに向かい、ティーセットを持って戻ってきた。
「ほら、安い茶っぱだが飲むがいい」
カップを差し出すグレコの指先には、乾いた絵の具がまだ残っており、カップの縁には彩色の痕が残っていた。
リヒトがそのカップを手に取るのをためらう一方で、マリアはためらいもなく受け取り、一口を飲む。
「とても美味しい紅茶ですね」
そう微笑むマリアに、リヒトは苦笑しながら白手袋を外し、彼女に倣って口をつけた。
「それで――吾輩に何の用だ?」
「はい。グレコさんは、この島の画家だと聞いて、お話を伺いたく参りました」
マリアはそう言いながら室内を見渡した。
壁には所狭しと風景画が掛けられ、奥の部屋にも幾枚もの絵が並んでいる。
この家全体が、まるでギャラリーのようだった。
「確かに、我が家は代々、画家の家系だ。この島だけでなく、ギリシャの島々の風景を描くことが我が誇りでね」
「どの絵も本当に素敵です」
年若い少女に褒められ、グレコは細い口髭を撫でながら満足げに笑った。
「お聞きしたいのは、教会の風景画のことです」
その言葉に、グレコの表情が一変した。
「……その話はしたくない」
「なぜですか?」
「話したくないものは、話したくない」
マリアが困ったように見つめると、リヒトが助け舟を出した。
「グレコ殿、そう言わずに。話して頂けると助かります」
しかし、グレコは深いため息をつき、リヒトを睨む。
「ドイツの軍人さん方が興味を持つような絵ではないはずだ」
「ええ、正直、私には興味はありません。ですが――彼女がどうしてもお話したいと言いまして」
リヒトが言いかけたところで、グレコはマリアを見た。
「お嬢さんは教会の新しいシスターの候補か? なら言っておくが、これまで描いたのはあくまで善意の奉納だ。今年描くかどうかは私の自由だ。催促しても無駄だぞ!」
グレコはそう言い放つと、紅茶を飲み干して立ち上がった。
「待ってください。私は教会の関係者ではありません」
マリアは慌てて鞄を開き、幾枚かの紙束を取り出す。
「私がお聞きしたいのは二つです。一つは、最初に描かれたシスターのこと。もう一つは――これが何か、ご存じですか?」
紙束をテーブルに置くと、そこには細密な設計図のような線画が並んでいた。
「これは……?」
「教会の風景画に隠されていた模様を写したものです」
グレコは驚いたように息を呑み、再び椅子に腰を下ろした。
そして、一枚の用紙を手に取り、眺める。
「この筆跡……間違いない。先々代、祖父のタッチだ」
「では、何かわかりますか?」
「いや……わからん。こんなもの、初めて見る」
そう言いながらも、グレコは他の図面も手に取ると奥の部屋へ向かった。
「――お嬢さん、ちょっと来てもらえるか?」
「はい」
マリアはリヒトたちに「少し待ってください」と告げ、彼の後を追った。
部屋に入ると、グレコは一枚のキャンバスの前に立ち、設計図を片手に鉛筆を走らせていた。
「これは……?」
キャンバスには、教会の新しい風景画の下絵が浮かび上がっている。
だが、その筆致は異様なほど速く、正確だった。
「グレコさん?」
マリアが声を掛けても、彼には届かない。
まるで何かに取り憑かれたかのように、彼は描き続けた。
どのくらい時間が流れたのか、部屋にはカリカリとグレコの鉛筆の奏でる音のみが響く。
やがて、鉛筆が床に落ちた音がして、静寂が訪れる。
「……できた」
その声はかすれていたが、驚きと確かな満足が滲んでいた。
キャンバスには、完成された一枚の下絵があった。
だが、グレコはそれを見つめながら、なお呟く。
「まだ……足りない。もう一枚描かねば」
新しいキャンパスを取り出し、再び鉛筆を取ろうとした瞬間、彼の体がふらりと傾く。
「グレコさん!」
マリアが慌てて抱きとめる。
「ミス・マリア? どうした!?」
リヒトが駆け込んできて、グレコの肩を支える。
リヒトはグレコを寝室へと運び出すと教会の鐘がゴーン、ゴーンと鳴り響く。
時間はもう、昼を回っていたのだ。
残された部屋には、マリアと――完成したばかりの風景画の下絵だけが静かに残された。
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