寂れた漁村の教会
村へと続く道は、嵐の影響で泥濘に変わり、足を取られるたびにぐちゅりと不快な音を立てた。
マリアたちはその中を慎重に進んでいた。
潮と土の混じった重たい空気が肺にまとわりつく。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「大丈夫か、ミス・マリア? もし辛いなら、ここで少し休憩を取ろう」
リヒトが振り返り、心配そうに声をかける。
普段、教会の石畳しか歩かないマリアには、ぬかるむ山道はあまりに過酷だった。
息を切らせながらも、マリアは小さく首を振る。
「大丈夫です。……少し、息を整えれば平気ですから」
「そうか。だが無理は禁物だ。君がいなければ、村に着いても資材の見分けがつかないからね」
マリアは微笑みを作りながら頷いた。
だが、その胸の奥では別の感情がざわめいていた。
(どうして、私はこんなに焦ってるの?)
飛行船の修理を急ぐ理由はわかっている。
だが、飛行船から降りて村に出発したときから、不自然に焦りが強くなっていた。
村へと一歩近づくたびに胸の鼓動が早まる。
まるで――何かに“呼ばれている”。
(おかしい……。気のせい、よね?)
頭ではそう思っても、足は勝手に速まっていく。
風に混じって、誰かの声が聞こえた気がした。
「Leutnant、村が見えてきました!」
先行していたドイツ兵の報告に、一行は丘の上へと駆け上がった。
霧の向こうに、小さな寂れた漁港が見える。
石造りの家々が並び、広場の奥には古びた教会が立っていた。
潮風に混じって、鐘のような微かな音が聞こえる。
「……あそこね」
マリアは無意識に呟いていた。
リヒトは頷き、村へと降りていく。
彼らを出迎えたのは、腰の曲がった老人だった。
「おんや、珍しいですな。外の国の兵隊さんと、神学校のお嬢さんとは」
「昨夜の嵐で船が損傷してしまってね。修理のための資材を売ってほしい」
リヒトの言葉に、老人は顎に手を当てて唸った。
「うーむ、ここには機械屋なんて無いですよ。せいぜい、漁船の部品くらいでねぇ」
「それで十分です。使えるかは我々が判断します」
そう言うと、老人は教会を指さした。
「なら、あの教会へ行きなされ。この村のシスター様が船の整備も見てくれるんですわ。資材は全部、教会に置いてありますよ」
「感謝します。……ミス・マリア、行こう」
リヒトが振り向くと、マリアは立ち止まったまま教会を見つめていた。
「マリア?」
「えっ……あ、ごめんなさい! 少し、ぼんやりしてました」
マリアは慌てて微笑んだ。
疲労のせいだろうと判断したリヒトは、無理をしないように促したが、マリアは首を横に振った。
「大丈夫です。行きましょう」
そして、二人は教会の扉を叩いた。
軋む音を立てて、古びた扉がゆっくりと開く。
「はい、どなたでしょうか?」
現れたのは皺深い老シスターだった。
白いヴェールの隙間から覗く瞳は穏やかで、どこか懐かしさを感じさせた。
「私はドイツ帝国軍のリヒトホーフェン少尉です。こちらは神学校の生徒、マリア嬢」
「初めまして、シスター。船が嵐で損傷してしまい、資材をお譲りいただけないかと――」
事情を説明すると、老シスターは快く頷いた。
「まあ、それは大変でしたね。どうぞ中へ」
礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、マリアは息を呑んだ。
天井を覆うような壁画が広がり、光を受けて淡く輝いている。
だが、そこにはこの小さな漁村には似つかわしくないほどの荘厳さがあった。
「不釣り合いでしょう?」
老シスターが穏やかに笑う。
「これはね、この島がまだ中継港として栄えていた頃の名残りです。もうずいぶん昔の話ですけどね」
マリアの視線は次に、壁際に並ぶ古い風景画へと移った。
「ああ、これはこの村の景色を描いたものよ。半世紀ごとに、同じ場所から描かれているの」
「半世紀……ごとに?」
「小さな僻地の教会の小さく、可笑しな伝統って、ところかしらね」
2人が話しているとリヒトが老シスターに資材の場所を聞く。
「そうでしたねぇ、資材は教会の倉庫の中なのよ」
老シスターは、しわだらけの手を胸の前で組みながら、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ただ、あそこは少し狭くてね。それに灯りも少ないから、あなた方のような若い人たちにとっては作業がしづらいでしょう。よければ、資材をすべてこの礼拝堂の方に持って来て下さらない? 倉庫の整理にもなるし、私も助かるの」
リヒトはその申し出にすぐ頷いた。
「もちろんです。無理をお願いしているのはこちらですから。倉庫まで案内してもらえますか?」
「ええ、ええ。ついてきてちょうだい。ああ、それから——」
シスターは穏やかに振り返り、マリアへと目を向けた。
「お嬢さんは、少しここでお休みなさいな。顔色が少し悪いわ」
「い、いえ! 私も手伝います!」
慌てて立ち上がろうとするマリアを、リヒトが手で制した。
「いいんだ。荷運びは我々で十分だ。ミス・マリア、椅子にでも座って待っていてくれたまえ」
「でも……」
「良いから。これは命令だ」
いつもの穏やかな笑みを浮かべながらも、リヒトの声には軍人としての響きがあった。
「……わかりました」
渋々とマリアが腰を下ろすのを確認すると、リヒトは部下を伴ってシスターの後を追い、奥の通路へと消えていった。
礼拝堂にはマリアひとりが残された。
静寂。
外の潮風が古い石造りの窓から漏れ入り、蝋燭の火をわずかに揺らした。
(あれ……? 焦りが消えた……)
村へ近づくにつれて胸を締め付けていたあの奇妙な焦燥感が、今は嘘のように消えている。
代わりに、穏やかな温もりと静けさだけが、胸の奥に残っていた。
「風景画……」
マリアは、壁際に等間隔で掛けられた絵に目を向けた。
さきほどシスターが話していた、村の風景を描いた絵——半世紀ごとに描かれたという連作。
少し興味を惹かれて、彼女は立ち上がり、最も新しいものから順に見ていく。
どれも構図は似ており、海と村、そして教会が描かれていた。
だが、時代を経るごとに、家屋の形や人々の服装が少しずつ変化している。
(本当に……この村の歴史が、そのまま描かれてるみたい)
筆致は素朴だが、確かな記憶の積み重ねを感じた。
どの絵にも、どこか懐かしい静けさが漂っている。
彼女はゆっくりと歩を進め、最も古いと思われる一枚の前で足を止めた。
他の絵よりも小さく、色褪せ、プレートに刻まれた年号は錆びて読めない。
けれど、その風景画だけは他とは違いの中心に「人物」が描かれおり、風景画では無く、肖像画のようだった。
描かれている人物は、
赤い髪。
燃えるように輝く瞳。
強く、しかしどこか母性的な笑みを浮かべた魅力的な女性が手に何かの部品なのか、歯車を持って描かれている。
マリアは思わず、口を覆った。
「……リリス、先生……?」
筆致は粗い。
だが、その姿を見間違えるはずがない。
ヴァチカンの神学校で共に過ごし、誰よりも尊敬する恩師——リリス・フェリエルに、あまりにもよく似ていた。
(どうして……? この絵は、何十年いえ、何百年も前のものなのに……)
頭の奥がじん、と痺れた。
時間の感覚が曖昧になる。
まるで、自分がこの絵の中に引き寄せられていくような錯覚。
蝋燭の炎が小さく揺れ、影がマリアの足元を滑っていった。
風の音。
そして、どこからともなく、聞き慣れた声が耳の奥で囁いた気がした。
——「マリア」
マリアははっとして振り返る。
だが、誰もいなかった。
礼拝堂には、自分と古びた絵だけ。
彼女の瞳は、再び赤髪の女性へと吸い寄せられる。
絵の中の女性は確かに微笑んでいた。
それは、時を越えて彼女を見つめ返すような、静かで確かな眼差しだった——。




