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不時着

 飛行船は金属の悲鳴を上げながら、岩の突端に擦れつつ停止した。

 船体を走る衝撃が、まるで生き物の咆哮のように響く。

 リリスは伝声管を掴んだまま、僅かに揺れる床を踏みしめた。鼻を刺すのは焼けた絶縁体の匂い。

 胸の奥に残る振動がまだ止まらない。


「直ちにエンジンをカット! 各部、損傷を報告しなさい! リヒト少尉、飛行船を固定して!」


 額の血が頬を伝うが、拭っている暇はない。

 声を張り上げるたびに、伝声管の奥から返るのは乗組員たちの短い返答と金属音だ。


『こちらマリア、エンジンルーム! スパーク発生中! 燃料供給弁を閉鎖します!』

『ガス嚢に裂けを確認! 技士班、補修布を!』

『フレーム、後部が歪んでます! 支柱の応急補強を開始!』

『こちらリヒトホーフェン! ロープ掌握! 外で固定を始める!』


 伝声管から響く報告を受けながら、リリスは手元の計器を睨む。

 圧力計は針を震わせ、外殻の歪みがわずかに伝わってくる。

 天井から滴る雨水が、電線に触れて小さな音を立てた。


「落ち着いて……焦らないで。次の命令を聞きなさい――」


 自身に言い聞かせるように呟きながら、リリスは全体の指揮を再構成していく。

 外は暴風、船体は岩に押され、ガス嚢は少しずつ浮力を失っている。

 それでも、彼女は冷静だった。

 恐怖はある。

 だが、恐怖よりも優先すべきものがある。

 数時間が経ち、風が僅かに落ち着いた頃。

 技士たちは濡れた手で松脂を混ぜた接着剤を裂け目に塗り、補修布を押し当てる。

 ハンマーでフレームの歪みを叩き直し、ロープで骨格を締め上げる。

 そのたびに金属が軋み、煙の混ざる空気の中で息をするのも苦しい。

 リリスは一瞬、伝声管を離し、額に手を当てた。

 耳の奥で鼓動が高鳴り、甲板の下では誰かの怒号と笑い声が混ざる。 


「……よくやってるわ、みんな」


 誰にも聞かれない声で呟くと、彼女は再び伝声管を掴み、命令を飛ばした。

 嵐が去り、雲間から僅かに月光が差し込んだ。

 飛行船はまだ地に伏したまま、船体は幾重ものロープで岩場に縛られ、不格好な布でガス嚢を継ぎ当てされた状態で停泊されていた。

 金属の軋みは止まり、代わりに静寂が船内を満たしていた。

 夜明けまであと数刻。

 誰もが疲労困憊で、甲板のあちこちに人影が倒れ込むように眠っていた。

 リリスは操舵室の机に設計図を広げ、ランプの明かりの下でそれを見つめていた。

 船体の歪み、ガス嚢の裂け、配線の焼損箇所――

 彼女の指先は紙の上をなぞり、何度も計算を繰り返す。


「損傷は……軽微とは言えないけど、何とか応急処置だけで飛ばせるはず」


 小さく呟いた声は、誰にも届かない。

 その瞬間、溜まっていた疲労が一気に押し寄せた。

 頭の芯が揺れ、視界が霞む。

 机に手をつこうとしたが、力が入らない。


「大事ないかね、シスター」


 柔らかな声が背後から響いた。

 振り向くと、ハミルトンが濡れた軍服のまま立っていた。

 煤と泥にまみれた顔に、あの冷静な微笑みだけが変わらず残っている。


「あら……ありがとう、ハミルトン。でも、これから皆を集めてミーティングを――」


 言いかけたリリスの肩に、ハミルトンの手がそっと触れた。


「その前に休息だ。皆、限界だ。もちろん、あなたもだ」


 そう言って彼は彼女を椅子に座らせ、膝を軽く折って視線を合わせた。


「何かあれば私が対処する。君が倒れたら、この船は誰が導く?」


 リリスは微笑み、息を吐いた。


「……そうね。そうするわ。ありがとう、ハミルトン」


 彼の真摯な眼差しに、ようやく緊張の糸が切れたのかもしれない。

 ハミルトンは軽く頷くと、立ち上がって言った。


「紅茶でも淹れよう。少しは体が温まる」


 彼が扉に手を掛けたとき――

 リリスはその軍服の端を掴んだ。

 小さな仕草だったが、その指先には確かな意志があった。


「もう少しだけ……ここに居てくれないかしら?」


 振り返ったハミルトンの表情が、柔らかく崩れる。


「As you wish, Your Majesty(仰せのままに、女王陛下)」


 ランプの炎がわずかに揺れ、影が二人を包む。

 リリスは安堵の笑みを浮かべたまま、椅子にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。

 静かな寝息が室内に溶け、ハミルトンは何も言わず、その傍らに立ち続けた。

 外では夜明け前の風が海面を撫で、濡れたロープが小さく鳴る。

 嵐の夜を越えた飛行船は、まだ傷だらけのまま、

 それでも――確かに、生き延びていた。




 朝日がゆっくりと甲板を照らし出す。

 数刻前の暴風が嘘だった様に穏やかな光景が拡がる。

 まだ濡れたロープが光を反射し、ガス嚢の補修布には夜露が滴っていた。

 一晩中吹き荒れた暴風は止み、代わりに潮と鉄の匂いが漂う。

 静まり返った船内に、エンジンの残熱がわずかに残り、かすかに金属の軋み音が響いていた。

 艦橋には全員が集まっていた。

 リヒトホーフェン少尉、マリア、パーサー、そして疲れ切った技士たち。

 皆の顔には夜を越えた者の表情――疲労と、どこかの誇りが混じっていた。

 リリスは包帯の巻かれた額を隠そうともせず、皆を見渡して静かに口を開いた。


「皆、昨夜は本当にお疲れ様。……まず、全員が無事でいてくれて何よりだわ」


 その声には安堵よりも、次に進もうとする力が宿っていた。

 マリアが手元の記録帳を広げ、報告を始める。


「エンジンルームは現在、損傷を評価中です。燃料供給弁と電気系統の一部が焼けましたが、致命的な損傷はありません。部品さえあれば、修理は可能です」

「そう。なら――この島の村に行って、部品を調達できるか確認しましょう」


 リリスの指示に、マリアは力強く頷いた。

 次にリヒトホーフェン少尉が報告に立つ。


「リリス女史、我が部隊は船を固定した後、ガス嚢を確認した。裂けは数箇所だが、補修布で一応塞いだ。

 ただ、残ったガスだけで再び浮上できるかは不明だ。後で女史にも確認をお願いしたい」

「わかったわ。後で一緒に見に行きましょう。……ありがとう、リヒト少尉」


 リリスの声に、リヒトは軽く敬礼を返す。

 次に、パーサーが立ち上がった。


「リリス先生、クラーディは何とか無事です。でも、このままでは……彼を早く工房に連れて行かないと」

「わかってるわ、パーサー。すぐに動きましょう」


 リリスの表情は柔らかく、しかし迷いがなかった。

 彼女は全員の顔を見渡し、行動方針を整理する。


「まず、第一班――マリア、リヒト少尉、そして護衛兼荷運びとしてリヒト少尉の部隊から二名。あなたたちは村へ行き、必要な部品と工具を調達して。現地の人々と接触するときは慎重に、状況を探ってちょうだい」


 マリアとリヒトが頷くのを確認すると、リリスはパーサーに視線を移す。


「第二班――パーサー、私、それとリヒト少尉の部隊からまた二名。クラーディを連れてラビの工房へ行くわ。修復には時間がかかるかもしれないけれど、彼が動けるようにしないと何も始まらないわ」


 最後にリリスはハミルトンに向き直る。


「船にはミルトン大佐が残ってちょうだい。彼を中心に技士たちで応急修理を継続。通信装置と昇降舵の点検を優先して、私たちが戻るまでに最低限の飛行体勢を整えておいて」


 指示が終わると、しばし沈黙が流れた。

 誰もが疲れてはいるが、もう迷いはない。

 リリスは軽く手を打ち鳴らし、笑みを見せた。


「さあ――行動開始よ!」


 その一言で、空気が変わった。

 甲板に朝の光が満ち、アンティキティラ島の荒れた地形の向こうに新しい一日が始まる。

 皆がそれぞれの役割を胸に、再び立ち上がっていった。


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