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エンジン停止

 少し前までは穏やかな空が嘘のように、世界は突如として黒く染まった。

 怒り狂うような暴風が飛行船を叩きつけ、船体は軋みながら空の闇に呑まれていく。

 備品が宙を舞い、木箱が壁に激突する音が鳴り響く。

 パーサーとマリアは揺れ動く部屋の中で必死にクラーディの身体を押さえつけていた。


「きゃっ!」

「マリア! クラーディは僕が押さえる、君は何かに掴まって!」


 パーサーは必死にベッドの上のクラーディを押さえつける。

 そんな中で少女の体は軽く、揺れのたびに滑り落ちそうになる。


「大丈夫です、私のことよりもクラーディが落ちないようにしないと!」


 マリアは転倒しかけながらも、再びクラーディの身体を押さえた。

 その瞬間、ドンッと突き上げるような衝撃が船を襲い、壁のランプが次々と消えた。


『緊急よ! 左のエンジンが停止したわ! マリア、聞こえる? 左のエンジンルームへ、向かってちょうだい!』


 部屋に設置された伝声管から響くリリスの声は、珍しく緊張を帯びていた。

 マリアはパーサーに視線を送る。


「ここは大丈夫だから、マリアは行って!」

「行ってきます!」

「ああ、気をつけて!」


 通路に出ると、屈強な兵士たちが必死に手すりにしがみついていた。


Gott(神よ)…… hilf mir(助けたまえ)


 青ざめたドイツ兵が震える声で祈る。

 マリアは彼の肩に手を置き、優しく言う。


「大丈夫。神は私たちを見捨てたりはしません。」


 ドイツ兵が、その言葉に頷くのを確認するとマリアは再び歩を進める。

 突如、暴風が唸りを上げ、飛行船が大きく傾いた。

 マリアは構わず通路の手すりを伝い、左後方のエンジンルームへと進む。

 エンジンルームの扉を開くと息が詰まるほどの熱気がマリアを包み、黒煙が噴き出した。

 黒煙が噴き出した瞬間、マリアの視界が灰色に染まった。

 鉄の焼ける匂いと、油の焦げた臭い。

 空気は息を吸うたびに喉を焼き、目が痛む。


「……っ!」


 咳を堪えながら、マリアは手探りで壁際の電気式ランタンを掴んで灯した。

 暗闇の中、火花が散っていた。

 歯車の軸が歪み、摩擦熱で金属が赤く光っている。

 そのすぐ下、燃料パイプの接合部が裂け、オイルが霧のように吹き出していた。


「まずい……このままじゃ!」


 この飛行船は浮揚ガスに水素を使っている。

 少しでも火がガス嚢に回れば、一瞬で空に溶ける。

 黒煙の奥に見えたのは、焼け焦げた配線と溶けた銅線。

 どうやら雷の静電気がエンジンに逆流してショートしたらしい。

 マリアは壁に掛けていた携帯用の二酸化炭素消火装置を引き抜き、ノズルを火花の根元に向けて噴射した。


「——消えてっ!」


 白い霧が吹き出し、火花が一瞬で音もなく消える。

 だが、それで終わりではない。

 歪んだ軸の振動でパイプが破損し、燃料が床に滴り始めた。

 彼女は咄嗟に工具箱を開く。

 スパナ、鉗子、そして銅線の束。


「リリス先生なら……ここをこう繋ぐはず……!」


 震える手でパイプの裂け目に金属クランプを当て、

 一時的に圧を逃がすバルブを開放する。

 エンジンの唸りが一瞬だけ弱まり、代わりに鈍い音を立てて停止した。


「……止まった」


 全身の筋肉から一気に力が抜ける。

 が、まだ終わりじゃない。

 止めただけではなく、水素の漏れを遮断しなければ、

 静電気ひとつで爆発の危険が残る。

 マリアは防護手袋を引き締め、エンジン上部の補助バルブへとよじ登った。

 外の暴風が壁を震わせる。

 船体が軋み、エンジンルームの鉄板がミシリと鳴る。


「お願い……持って……」


 バルブを回し切ると、ヒュウと冷たい音が鳴り、圧が逃げていく感触が伝わった。

 やがて、エンジンの脈動が完全に静止する。


 ——その時、伝声管からリリスの声が響いた。


『マリア! エンジンの温度が下がったわ! やったのね!』


 マリアは直ぐに伝声管に近寄ると修理状況を報告する。


「ええ……でも、左の燃料管は完全にやられてます。しばらく再稼働は無理です」

『構わないわ。生き延びたほうが大事よ』


 マリアは膝をつき、油まみれの手を見つめる。

 爪の間に黒い煤が入り込み、指先が震えていた。

 嵐の轟音が遠ざかり、耳鳴りのように血の音だけが残る。

 ——ほんの少しでも遅れていたら。

 飛行船は今ごろ、空で火の花になっていたかもしれない。


「……良かった、本当に……」


 小さく呟いた声は、今なお稼働する右エンジンの唸り声にかき消された。




 その頃、操舵室ではリリスが無言で計器と外界の雲の流れを睨んでいた。

 風向きが不自然に変化している。

 嵐の中心が、まるで——何かの意思を持っているように痛みに捻れ、のた打ち回るように動いていた。


「……これは、ただの嵐じゃないわね」


 彼女が小さく呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかった。

 そして、操舵輪を力一杯握り締めたネッドが大声で叫ぶ。


「着陸するぞ!全員、踏ん張れ!!」


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