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飛行船の寄港地

 飛行船は静かに、だが確実に中東、オスマン帝国の上空を目指していた。

 重厚なエンジン音が遠くで低く唸り、甲板を渡る風が金属の継ぎ目を震わせる。


 その静けさの中で、パーサーは一室に籠もり、クラーディの包帯を交換していた。

 パリでの激戦の傷跡は深く、両足と右肩は破損し、右眼の硝子は割れ、全身には蜘蛛の巣のようなヒビが走っている。

 ヒビの間から乾いた蝋がのぞき、彼はそれを悪化させないために、濡らした包帯を慎重に巻いていた。

 包帯を結び終えると、パーサーは小さく息を吸い込み、呟いた。


「シエム・ハ・メフォラシュ――」


 古代語の起動コード。

 しかし、クラーディは目を開けず、沈黙したままだった。


 パーサーは短く息を吐き、静かに立ち上がる。

 部屋を出ると、銃を携えたドイツ兵が扉の前に立っていた。

 無表情なその姿に、どうしても息苦しさを感じる。

 リヒト少尉――本人がそう呼んでくれと言ったので、皆そう呼ぶようになった――曰く、「護衛のため」らしいが、どうにも監視にしか思えなかった。

 通路を歩いていると、柔らかな声が背後から響く。


「パーサーくん」


 振り返ると、マリアが花瓶を抱えて立っていた。

 中には造花の花々。

 彼女の後ろには、やはり屈強な兵が付き添っている。


「おはよう、マリア。それは?」


「クラーディにと思って。少しでも慰めになればと、作ってみたの」


 まるで人間の患者に接するような口調だった。

 以前のパーサーなら、苦笑いして「彼はただのgolemだよ」と言っていたかもしれない。

 だが今は、そんな言葉は出なかった。自然と微笑みが浮かんだ。


「あいつが目を覚ましたら、きっと喜ぶよ」

「そうだといいんですけど。――あ、そういえば。リリス先生が皆を艦橋に呼んでました。これからの進路について話すそうです」


 パーサーは頷き、二人は別れた。

 だが、背後をついてくる兵士に気が滅入る。


「……僕のあとに付いてこなくてもいいですよ」


 英語が通じないのか、兵士は無言のまま。

 クラーディよりgolemだな、とパーサーはうんざりしたように肩をすくめ、部屋に戻るのをやめて艦橋へ向かった。

 艦橋に入ると、すでにハミルトンが腕を組んで不機嫌そうに立っていた。

 彼のそばではリヒト少尉がにこやかに話しかけているが、会話は成立していない。

 ハミルトンの表情は岩のように固い。


「よう、リリスの姉御が呼んでるよりも早ぇな!」


 操舵輪を握る男――エドワード・“ネッド”・ヤングが笑いながら声をかけた。

 パーサーは口元をゆるめる。


「することが無いんだ。今、どのあたりを飛んでる?」

「エーゲ海の真ん中あたりだな。まぁ、空の潮の流れってやつは掴みづらいが、慣れりゃ海とそう変わらねぇ」


 初めて会ったとき、リリスが飛行船の操舵士として彼を紹介したときは驚いた。

 聞けば、船舶組合に次の職を探しに行く途中、リリスに声をかけられたという。多額の給料と“空を飛ぶ船”という誘い文句に、即答で契約したらしい。

 その日のうちに技師たちが出航準備を整え、訓練もなく飛び立ったというのだから、彼の度胸は本物だ。

 やがて、艦橋にリリスとマリアが入ってくる。

 リリスが全員を見渡し、静かに口を開いた。


「皆、揃ったわね。それじゃ、これからのことを話しましょう」

「その前に、ひとついいかね?」


 ハミルトンが腕を組んだまま口を挟む。


「リヒトホーフェン少尉、貴官の部下たちは、いつまで我々を捕虜扱いするつもりだ?」

「捕虜?とんでもない。皆さんは“最重要保護対象”です。安全のための措置にすぎませんよ」


 リヒトは困ったように笑ったが、ハミルトンは冷ややかに言い返した。


「空の上で護衛など不要だ。逃げ場などどこにもないのだからな」


 リリスもその意見に頷く。


「確かにそうね。どうかしら、リヒト?この船ほど安全な場所もないわ。護衛は控えてもらえる?」

「仰せのままに、女王陛下」


 肩をすくめ、リヒトは冗談めかして敬礼した。

 そして、リヒトがドイツ語で命令する。

 命令を受けた兵たちは退出し、艦橋に静けさが戻る。


「さて、現状の確認よ」


 リリスは航海図を広げた。


「確認したいのだけど、ハミルトン大佐達の計画では、確かヴァチカンに行くことになっていたのよね?」

「うむ、その通りだ。ヴァチカンで機械へのアドバイザーとして穏健派の牧師を随員として加える予定だった」


 ハミルトンの答えにリリスは、それならもう寄る必要は無いわねと口にする。


「機械の事なら、私の右に出る者は居ないわ」


 胸を張り、堂々とリリスは宣言する。


「それじゃ、この飛行船はオスマン帝国に向かって針路を取るわ。けれど――本当にそのまま進んでいいのか、意見を聞きたいの」


 マリアが最初に口を開いた。


「Adamは、パーサーくん達の行き先を知っています。でも、まさか空を飛んで向かうなんて思ってもいなかった筈です。もしかしたら、彼らに追いつかれずに到着出来るかもしれません」

「ふむ、理にかなっているな」


 ハミルトンが顎に手を当てる。


「予定通りでは無いが、寄り道も省け、工程をかなり短縮出来るのは中々の強みだ」


 リヒトもそれに同意した。


「しかし、どちらにせよ。何処かに寄港しなければ燃料や食料の調達をしなければなりません。流石に無補給では無理ですからね」


 リリスは頷くと、視線をパーサーに向けた。


「パーサー、あなたはどう思う?」


 パーサーは少し黙り、腕を組んだ。


「……僕は、クラーディを直す時間がほしいと思います。教授ほどの技術はありませんが、いまのままでは悪化する一方です。包帯で湿度を保ってますが、蝋が乾いてヒビが広がってます。このままじゃ、ヒビから外気が入り込んで内部が膨張して、崩壊するかもしれません」


 艦橋の空気が静まり返った。


「問題はそれだけじゃねぇ」


 ネッドが操舵輪を握りながら、前方の雲を睨む。


「嫌な風の匂いがする。――嵐だ。しかもデカいのが来る」


 リリスの顔が引き締まる。


「嵐に、クラーディ……どちらも放っておけないわね。ネッド、今はどの辺り?」


「エーゲ海とクレタ島の間だ。できればクレタに避難したいが、そこまで持つかどうか……正直、怪しい」


 ネッドの額を一筋の汗が伝う。

 そのとき、リリスが顎に手を当てて思案した。


「エーゲ海とクレタの間……それなら、ひとつ心当たりがあるわ。昔、少しだけ滞在したことのある島――古いラビの工房があるの。今は誰もいないはずよ」


「そんな場所が?」とパーサーが目を見張る。

「ええ。人目もつかないし、避難にも修理にも都合がいい。――舵を切って、ネッド。目指すはアンティキティラ島よ」


 ネッドは力強く頷き、操舵輪を回した。

 飛行船は風を裂き、暗雲の底へと進路を取った。



ここまで読んで頂き、ありがとうございます!手直しで、内容を少し変えました!

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