第33話 雪国と異邦人
◇あらすじ◇
ある夏休みの午後、出町のいない書庫で、青葉を相手に探偵クラブ誕生の経緯を話す古野。話は1年前、まだ古野が探偵クラブの存在を知らなかった頃までさかのぼる。東都文学研究会というグループのメンバーだった古野は、ある日、出町と出会うきっかけとなる事件に遭遇する。
◇事件関係者◇
尾川絢子・・・若森高校3年。東都文学研究会の会長。一人ぼっちだった古野を半ば強引に会へと引き入れた人物。西洋文学が好き。身長173cm。
河上誠司・・・若森高校3年。東都文学研究会の副会長。眼鏡をかけたクールな男で、尾川の補佐役を務めている。日本文学を好んで読み、特に川端康成のファン。身長176cm。
芳田俊介・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。茶髪で陽気な男。メンバーのなかでは最も本への関心が薄い。身長178cm。
村神広志・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。身体の割に気弱な性格で、いつも宮元に付き従っている。村上春樹のファンで、いわゆるハルキスト。身長184cm。
宮元秀樹・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。メンバーのなかでは飛びぬけて背が低く、村神とは凸凹コンビ。彼とは対照的に気が強い。生粋のシャーロキアン。身長156cm。
その日の午後、俺はいつものように夏休みの課題をリュックに詰めて東都教育文化センターを訪れていた。家にいてはどうにも勉強には集中できないのだが、文学研究会の部屋であれば不思議と課題もはかどったものだった。相変わらず先輩たちの集まり具合はまちまちだったけれど、先輩が一人でも来ていれば勉強を教えてもらえたし、仮に先輩が来ない日であっても、この部屋で勉強をすることは苦にはならなかった。
この頃には、文化センターの受付のお姉さんともすっかり顔馴染みになっていた。部室の鍵をもらおうと笑顔で会釈をすると、「あら、今日はもう先輩が来てるわよ」との答えが返ってきた。
「あ、そうですか」
何気なく腕時計を確認すると、ちょうど午後2時を回ったところだった。今日は誰が来ているんだろう、部長だったら嬉しいな。そんなことを考えながら部室へと続く廊下を歩いた。
ところが、部室の前まで来てちょっとした異変に気がついた。部室のドアには、すっかり見慣れた「東都文学研究会」のプレートが貼られていたが、その下に書かれた文章は「今日はお休みです」となっていた。これは少し妙なことだった。活動中はこのプレートを裏返すことになっているのだ。つまり、「今日も元気に活動してます」という文章が出ていなければおかしいのである。先輩がもう来ているはずなのに、裏返すのを忘れたということか? ただ、そんなことはそれまで一度もなかったのだ。
「……先輩? 失礼しまーす」
俺はひとまず気を取り直し、軽くノックしてからドアを開けた。そしてすぐに、暑い、と思った。エアコンが入っていなかった。その日も最高気温は35度の前後をうろうろしていたから、そんな日の真っ昼間にエアコンもつけないでいるなどどう考えてもおかしなことだった。やっぱり変だ、そう思いながらドアを完全に開けてしまうと、そこにあったのは――。
◇◇◇
「……よ、芳田さん!?」
まず目に入ったのは、本棚の前に仰向けに倒れた芳田さんだった。何かの気まぐれでそこに寝転がっているわけではないということはすぐにわかった。頭部から血が流れ、芳田さんの茶色い髪の毛の一部を赤く染めていたからだ。起き上がる気配はない。
それから、芳田さんの周りに自然と目がいった。彼の頭のすぐそばに分厚い本が1冊、だらりと伸びた右手の少し先には、2冊の文庫本が転がっていた。『雪国』と『異邦人』の2冊だった。そして、彼の足元では踏み台が倒れている。
「な、何が起きたんだ……」
俺は震える手で何とかスマホを取り出すと、119番に通報した。たどたどしい言葉で何とか救急車を呼ぶと、一瞬の逡巡ののち、警察にも通報した。それから、メールで文学研究会の先輩たちも全員呼び出す。
遠くにサイレンの音を聞きながら、俺はパイプ椅子に座りこんで何とか気持ちを落ち着かせようとしていた。
***
「ここで事件発生ですか……」
床に倒れた芳田さんを発見した、というところまで古野が話し終えると、青葉はメモをとる手を止めて神妙な顔でつぶやいた。
「古野先輩と出町先輩の出会いは、やっぱり事件絡みだったんですね」
「そういうこと。にしても、あの時の衝撃は今でも忘れられないね。事件の第一発見者になるなんて、普通の人だったら人生で一度も経験しないことだからさ」
ここまでほとんど息つく間もなく話し続けてきた古野は、ここでいったん一息ついた。それから、テーブルに置いたままの2冊の本を手にとる。『雪国』と『異邦人』だ。まさかこの2冊を自分が受けとることになった経緯について話す日が来るとは、古野は夢にも思っていなかった。
「あ、もしかして、その本って事件に関係してたりなんかします?」
ずいぶん前から本のことが気になっていたのか、青葉は興味津々といった様子で尋ねてきた。
「うーん……、まあ、事件に関係してるとも言えるし、してないとも言えるし……」
「? どういうことですか、それ?」
古野がお茶を濁すと、青葉はきょとんとしている。
「まあ、話を最後まで聞いてくれればわかると思うよ」
「……そうですね。とにかく最後まで聞かせてください。芳田さんの死の真相も知りたいですし」
青葉がそう言うと、古野はあわてて手を振った。
「ちょい待ち。実を言うとね、生きてたんだよ、芳田さんは」
「え? 芳田さん、生きてたんですか!」
「そう。確かに芳田さんの頭部の傷は深刻で、病院に運び込まれたときは意識を失ってたんだけど、何とか一命は取り留めたんだ」
「そうだったんですね……。芳田さんに悪いこと言っちゃったな。勝手に死んだことにしちゃって。……でも、さっきの話を聞く限りだと、芳田さんが踏み台から足を踏み外して頭を打った不運な事故のような感じなんですけど、ここからどう展開していくのかなあ」
「ふむ。まあ、とにかく話を続けよう。俺と出町の初のご対面ももうすぐだからな」
ようやく出町が登場してくると聞いて、青葉は目を輝かせた。古野はそこで一呼吸置くと、再び1年前の記憶をたどりながら話を始めた。
***
「古野君。大丈夫だったか! メールを見てびっくりしたよ」
俺からの連絡を受けた先輩たちが集まってきたのは、いち早く到着した救急隊が芳田さんを病院へと搬送し、少し遅れて警察がやってきてから、しばらく経った頃のことだった。炎天下、文化センターの前にある木陰のベンチに座っていた俺に真っ先に駆け寄ってきたのは尾川会長だった。
「部長、芳田さんが、芳田さんが……」
「芳田君はどうなったんだ?」
会長の後からやってきた副会長の河上さんが聞いてきた。俺はつい焦ってしまうところを会長になだめられながら、芳田さんがひとまず病院へ運ばれた旨を伝えた。会長と河上さんはとりあえずは胸を撫で下ろしたようで、俺の隣のベンチに腰を下ろす。
少し遅れて、村神さんと宮元さんもやってきた。いつもはハンカチを携帯していて清潔そうな村神さんも、今回ばかりは慌てて来たためか、額に大量の汗を浮かべていた。宮元さんの方も、いつもの冷静さを失っているように見えた。皆、突然のことに少なからず動揺しているようだった。
「しかし、いったいなぜ芳田君が……」
河上さんがぼそっとつぶやく。そこへ、いかめしい顔つきの刑事が近づいてきた。咳払いを一つすると、ベンチに座っていた俺を見下ろしてきた。
「お前さんが第一発見者ということだったな?」
どうやら俺に話があるようだった。
「はい、そうですけど」
「今回の捜査を担当する奥泉という者だ。突然で悪いが、少し話を聞かせてくれないか。発見時の状況を知っておきたいのでね」
割と穏やかではあったが、有無を言わせぬ口調だった。俺は少し緊張しながらも「ええ、いいですよ」と答え、奥泉刑事の質問を待った。
「ふむ、まずはだな、君がこの東都教育文化センターを訪れた時間を教えてくれ」
「ええと、たしか2時過ぎだったと思います。受付で腕時計を確認したんで」
2時ねえ、などと言いながら奥泉刑事は手帳を開くと、何事かを書きつけた。
「それで? その後はまっすぐ部室へと向かったわけだな」
「はい、そうです」
「途中で誰かと会ったりは?」
一応、ざっと記憶をたどってみる。
「……いえ、誰とも会いませんでした」
「そうか。……お前さんが来たとき、部室の鍵は開いていたということだが、それで間違いないか?」
「はい、たしかに開いてました」
「ほう。それで、鍵はいつもどんな風に管理してるんだね?」
「ええと、いつも最初にここに来た部員が受付で鍵をもらって、それから活動中はずっと部室のなかに置いてあります」
「……なるほど。たしかに、鍵は部室のテーブルの上に放り出してあったな」
奥泉刑事はペンでこめかみを軽くつつきながら手帳をにらんでいる。
「……それでお前さん、被害者の身体に触れたりはしなかったか?」
「とんでもない! 怖くて、それに何が何だかわからなかったんで、とにかく警察と救急車を呼んで、それから先輩たちにメールを送ってから部室の外に出ました。部屋のなかのものには何も触れてないと思います」
そう答えると、奥泉刑事はもともと険しかった顔をさらにゆがめ、低い声で短くうなった。
「そうかね、まあいい。それともう一つ、被害者の身体のそばには計3冊の本が落ちていた。1冊は頭のそばに落ちてたハードカバーの単行本で、角のところに被害者の血が付着していた。残りの2冊は文庫本で、こっちは被害者の右手のそばに落ちていた。足元には踏み台が倒れててな。状況から考えるに、被害者は踏み台に上って本を取ろうとしていたところ、何かの拍子にバランスを崩して転倒。運悪くハードカバーの単行本の角に頭を打ちつけてしまい、気を失った――。今のところこう見立ててるんだが、どう思うかね?」
どう思う、と言われても、はっきり言って俺としては何も答えようがない。あいまいにうなずくしかなかった。それでも奥泉刑事は満足したのか、自信たっぷりの笑みを浮かべてうなずいてみせた。
「ふむ、どうやら事故で間違いなさそうだな。あとは、被害者が意識を取り戻してから本人に直接事情を聞けば、全てはっきりするだろう」
そう言うと、奥泉刑事は手帳をしまった。
「お前さんたち、このクソ暑いなか、わざわざ来てくれてすまなかったな。もう帰っていいぞ。もしかしたらまた後日、いくつか質問させてもらうことになるかもしれんが、まあ、そのときはよろしく」
そう言い残すと、刑事は小走りに建物のなかへと入っていった。
◇◇◇
警察による現場検証が一段落するまで、俺たちは木陰のベンチに座り、何をするでもなくただ時を過ごしていた。どうやら警察は早々に今回の一件を不運な事故だと判断したらしい。暑さのせいもあるだろうが、捜査員の動きは目に見えてやる気を失っていた。
捜査員の出入りが落ち着く頃になると、会長がおもむろにベンチから腰を上げ、「ちょっと様子を見てくる」と言って文化センターへと入っていった。いったいどうしたのだろう、と思っていると、村神さんが声をかけてきた。
「会長、ああ見えて好奇心旺盛だからねえ。居ても立ってもいられなくなったんじゃないかなあ」
村神さんがそう言うと、後ろから河上さんも話に入ってきた。
「たしかに彼女は昔からそういうところがあった。何か気になることがあると、自分で調べて納得できる答えを見つけないと気が済まない性質たちなんだよ」
「……気になること?」
どういうことだろう。
「たぶん、芳田の”事故”のことで、何か腑に落ちない点があるんじゃないのかな」
そうつぶやいたのは、村神さんの隣に座っていた宮元さんだった。腕を組み、木漏れ日の揺れる地面をじっと見つめている。
もっとも、俺自身も芳田さんの”事故”に何かしらの疑念を覚えていることは確かだった。何かが引っかかっていた。その何かが具体的にいったい何であるのかは、残念ながら俺の頭ではわからなかったのだけれど、それでもあれが単純な事故であるとはどうしても思えなかったのだ。
それから俺たちはまたしばらく無言に戻り、会長が戻ってくるのを待っていた。
会長が戻ってきたのはそれから10分ほど経ってからのことだった。会長の足取りはまだ重かった。整った顔をわずかに曇らせている。
「どうだった、尾川君」
河上さんの質問にすぐには答えず、会長は河上さんの隣に腰を下ろして天を仰いだ。それからしばらくして「なんだかなあ」とだけ漏らした。
「……ちょっと気になることがあってさ、受付に行って聞いてきたんだ。そしたら、今日、芳田君が受付で鍵をもらったのは正午前だったって言うんだ」
俺にはどうも会長の言いたいことが呑みこめない。しかし、俺以外の先輩たちは皆驚きを顔に浮かべている。村神さんが息をのむのが聞こえた。
「えっと……、え、会長、どういうことですか」
思わずそう尋ねると、会長ではなく宮元さんが答えてくれた。
「ああ、古野君はまだここに来て日が浅いから知らないかもしれないけど、芳田のやつ、ここに来るのはいつも決まって午後、つまりお昼を食べてからなんだ。だから、あいつが昼前から来てたっていうのがどうにも引っかかるんだよね」
会長がその後を継ぐ。
「そう。私もそこが腑に落ちないんだ。いつも午後から部室にやってくる芳田君がどうして今日に限って昼前から来ていたのか――。そう思って、受付で聞いてみたんだ。正午前に芳田君が鍵を受け取ってから古野君が2時にやってくる、およそ2時間ほどの間にここに来た東都文学研究会の部員はいませんか、とね」
今度は全員が息をのんだ。
「……もしいたとしたら、その人物が今回の一件の重要参考人になりうるからね」
「それで、……いたのか? ここに来たやつが」
恐る恐る、といった様子で河上さんが尋ねる。すると会長は力なく首を振った。
「答えはノーだ。受付の話によれば、古野君が来るよりも先にここに来た部員はいなかったそうだ」
一瞬の沈黙。その後、最初に口を開いたのは村神さんだった。「ふう、それはよかった」と心から安堵した様子で腕を組んだ。ただ、河上さんは何も言わなかったし、宮元さんも地面をにらんだまま決して顔を上げようとはしなかった。さらには会長も、まだ完全には納得がいっていないようだった。たまらず俺は、会長に尋ねてみた。
「あの、会長」
「何だ?」
「会長は……芳田さんのケガは事故じゃないと思ってるんですか」
俺は、まっすぐに会長の澄んだ目を見た。会長はいくらかその目を細め、俺を見つめ返す。ヒグラシの鳴き声が耳に届いた。
「……どうだろう、それは私にもまだわからない。そこでだ、古野君。東都高校の生徒である君に一つ頼みがある。聞いてくれないだろうか」
「え? は、はあ」
唐突な提案に俺は戸惑った。それに「東都高校の生徒」という部分を会長が強調したのも気になる。しかし、その意味はすぐにわかった。会長は口の端にほんの少し笑みを浮かべてこう言った。
「東都高校に通ってる私の知り合いから聞いた話なんだが、なんでも『探偵クラブ』という興味深い部があるそうなんだ。そのことを思い出してね。そこで君に頼みたい。その『探偵クラブ』の部長に会って、今回の一件の調査を依頼してほしいんだ。……どうだろう、やってもらえるだろうか?」
次回、いよいよ古野君と出町君がご対面!




