第32話 鯨の歌を聴け
◇あらすじ◇
夏休みのある日の午後。一人で部室の書庫にいた古野の元に新聞クラブの青葉がやってきた。探偵クラブ誕生の経緯が知りたいのだという。古野は少しためらいながらも、1年前の夏休みの出来事について語り始めた。
◇事件関係者◇
尾川絢子・・・若森高校3年。東都文学研究会の会長。古野を会に引き入れた人物。身長173cm。
河上誠司・・・若森高校3年。東都文学研究会の副会長。尾川の補佐を務める。身長176cm。
芳田俊介・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。茶髪で陽気な性格。本にはあまり興味がない。身長178cm。
村神広志・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。宮元にいつも付き従っている。ハルキスト。身長184cm。
宮元秀樹・・・若森高校3年。東都文学研究会のメンバー。村神の友人。シャーロキアン。身長156cm。
東都文学研究会で過ごした時間は、俺が東都高校に入学して以降最も楽しいものだった。ただ、月並みだけれど、楽しい時間ほど速く過ぎていくものはない。そして、楽しかった出来事の全てを正確に記憶することは案外難しいものだ。ここでも、俺の記憶にはいくつかの取り違えが生じていて、その全てについて正確に話すことはできない。そこで、俺が辛うじて覚えているいくつかの出来事を話すに留めようと思う。
俺は、この文学研究会で実に多くのことを学んだ。そのほとんどは本について、他には勉強や対人関係、あるいは人生観のようなものまで。尾川会長を初めとした先輩たちは、本当にいろいろなことを知っていて、しかも決してそれをひけらかそうとはせず、対等な立場で話をしてくれたと思っている。それも、俺にとって嬉しいことだった。
夏休みの間、俺には勉強以外にはあまりすることがなく、また春に引っ越してきたばかりで東京の地理もよく分からなかったため、不要な外出はほとんどしなかった。その分、文学研究会には毎日のように顔を出していた。先輩たちは受験勉強や個々人の予定があり、毎日全員が集まるというわけにはいかなかったが、それでも毎日必ず一人は顔を出してくれた。それで先輩たちと話す機会は必然的に増え、また文化センターを訪れる他の利用客とも顔馴染みになって簡単な挨拶や世間話を交わすようにもなった。非常に限定的ではあるが、これによって、忘れかけていた人とのつながりが生まれ、俺はいつの間にか精神的なリハビリを果たしていたのである。
***
「君は、あまり本を読まないんだね?」
尾川会長にそう聞かれたのは、8月の初めの頃だった。
その日、文化センターに来ていたのは俺と尾川会長、そして副会長の河上さんの3人だけだった。会長はカフカの『変身』を、河上さんは相変わらず『伊豆の踊子』を読んでいたが、俺は本は読まず、持参した数学の問題集を解き進めたり、スマホで最新のネットニュースをチェックしたりして過ごしていた。それは、この日に限ったことではない。俺が東都文学研究会の部室で本を開いて読むということはほとんどなかった。だから会長がそのことを疑問に思うのは、ある意味では至極当然のことなのである。
「そうですね……。本はあんまり読まないです」
活動時間が終わり、そろそろ部室を引き上げようとしていた時だった。会長が自販機で買ってきてくれたコーラを飲みながら俺はあっさりとそう答える。河上さんはブラックの缶コーヒーを飲み、気のなさそうな表情で眼鏡のレンズを拭いていた。
「……いったい、最後に本を読んだのはいつなんだ?」
「えーと、1年前ですかね。たしか中3の夏休みの、読書感想文の課題で」
会長は一瞬呆れたような笑みを見せた。
「その時、何を読んだのか覚えてるか?」
「あ、それは覚えてますよ。『坊っちゃん』です! 夏目漱石の。面白かったなあ、特に最初の方の……」
「ああ、主人公が学校の2階からジャンプしたり、ナイフで手を切っちゃうやつか」
レンズを拭き終えた河上さんが口を挟んできた。
「たしか漱石の初期の頃の作品だったかな? ユニークな筋立てだし」
そう河上さんは言うが、俺には『坊っちゃん』がいつ書かれた作品なのかということはさっぱり分からなかった。
「あ、でも結末も覚えてますよ! 酒に酔って水瓶に落ちて死ぬんですよね」
自信満々に言うと、会長がクスクス笑い出した。河上さんも口元に笑みを浮かべている。
「古野君。それは『吾輩は猫である』の結末じゃないのか?」
「あれっ、そう……でしたっけ?」
「まったく……いったいどんな感想文に仕上がったのか、できることならその場にいて見たかったものだな」
会長は一しきり笑ってから部屋の戸締まりを確認してドアを施錠し、俺たちは一緒に外に出た。既に17時を回っていて、西日の射す都心の一画はだんだんと夕暮れの顔になりつつあった。会長と河上さんが並んで前を歩き、その後ろをひっそりと俺が歩いていた。
「ところで古野君。君は漱石ファンなのか」
「はいっ?」
会長が振り返って聞いてきて、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。周りを歩いていた通行人の何人かが、何事かと俺の方を見てきたので俺はあわてて口をつぐむ。
「いや、別に漱石ファンっていうわけでは」
「なーんだ、そうなのか」
「……それじゃあ、お二人は好きな本とか作家とかあるんですか」
初めて東都文学研究会を訪れた時の自己紹介で、村神さんは村上春樹の、宮元さんはシャーロック・ホームズのそれぞれ大ファンだと言っていた。それなら会長と河上さんにも好きな本などがあるはずだと思った。
「私は主に西洋文学が好きだなあ。特にカミュの『異邦人』がね。あのタイトルは秀逸だと思うんだ。……河上君は川端康成ファンだろう?」
河上さんは静かにうなずいた。
「じゃあ、芳田さんはどうです?」
俺は茶髪で陽気な芳田さんの顔を思い浮かべる。彼は自分で「本にはあんまり興味ない」と言っていたが、本当のところはどうなのか。
会長は歩きながらも少し考え込む素振りを見せた。
「ううん、彼はあんまり本は読まないようだ。ただ、時々書店で何冊かまとめ買いしてるのを見るから、全然読まないというわけじゃないと思うなあ」
「そうですか……」
そうすると、会員の中で本をほとんど読まないのは俺一人ということになってしまう。そう考えると少し恥ずかしくなった。
「か、会長にも嫌いな本ってあるんですか」
そう聞くと、会長は低い唸り声を上げた。
「ううん……。何だってそういうものじゃないか? 好きな本、好きな食べ物、好きな音楽……好きな季節に、好きな人。君にもあるだろ? そういうの。嫌いなものにしたってそうさ。私は唯一ドストエフスキーだけは苦手なんだ。……ロシア文学のね。理由は単純。小学生の頃に『罪と罰』を読んだんだけどさっぱり分からなくてね。それで投げ出してしまって、今も結末を知らないんだ」
「はあ……」
「馬鹿みたいって思うだろ? でも結局好き嫌いとはそういう単純なものなんだよ。肝心なのは、好きか嫌いかの尺度で物事をはかるんではなくて、好きな物も嫌いな物も全て自分にとって価値のある物として学び、何かを得ようとする姿勢ではないかな」
会長が話し終えると、ずっと黙って聞いていた河上さんが「ははん」と、彼にしては珍しく楽しそうにつぶやいた。
「それで君は、よく駅前の本屋でドストエフスキーを立ち読みしてるのか」
その言葉に、会長は苦笑いを浮かべる。
「バレてたのか。そう、嫌いな物からでも何かを学び取ることはできる。何しろ、私たちの最大の敵は……」
「無関心、だろ?」
会長が最後まで言わないうちに、河上さんが遮った。途端に二人は顔を見合わせ、笑い出した。つられて俺も笑いをこぼしたが、内心は少し複雑な気分だった。
「……ええと、河上さん。それはどういう意味ですか」
「ああ、古野君は初めて聞くのか。いや、尾川君の口癖でね。最大の敵は無関心、マザー・テレサの言葉だよ。解釈の仕方は人それぞれだけどね。……それにしても尾川君の悪い癖は同じ話を繰り返すことだな。マザー・テレサのその言葉なんて、僕はもう何回聞いたか分からないくらいだ」
河上さんがそう指摘すると、会長は「そいつは失礼」と難しい顔で答えていた。
確かに、会長には何度も同じ話を繰り返す癖があった。このマザー・テレサの言葉にまつわる話も、この後も2回聞くことになる。でもそれを面倒だとは思わなかった。会長の話は面白いし、何より勉強になった。俺は会長の話が一番好きだった。
その後も話を続けながらしばらく歩き、若森駅が見えてきた頃に俺は思いきって二人に質問を投げかけた。
「あっ、あの……。お二人はもしかして、付き合っておられるんですか?」
それを聞いた会長はゆっくりと歩を止め、驚きを顔に浮かべながら俺を振り返った。
俺がこう聞いたのにはもちろん理由がある。
会長を除く4人の先輩たちは、いずれも会長に対して敬意と少なからずの好意を抱いていたと俺は思う。その中でも、河上さんは特に会長と仲が良さそうに見えた。よく二人が一緒にいるところを見ていたからかもしれない。
ところが、会長は笑ってそれを否定した。
「いやいや、私たちは別にそういう仲じゃあ……」
河上さんもあわててそれに同調する。
「そうそう。確かに尾川君はうちのメンバーだけじゃなく、若森高校の男子生徒の間でも人気があるけどね。でも、彼女と付き合おうっていう人はあんまりいないなあ。ほら、彼女美人なのは間違いないけど、性格きついし……」
眼鏡の奥の目をきゅっと細めて河上さんが言うと、すかさず会長が彼を小突いた。
「河上君。一言余計だよ」
ごめんごめん、と手を合わせながらも河上さんはまだ少しだけ笑っていた。それを見ていた会長の顔にもうっすらと微笑みが浮かぶ。そうして、また俺も何だか楽しくて笑い出す。いつもこんな感じだった。俺と会長と河上さんが揃うと、自然と温かい笑みが生まれ、そして広がる。
「……さてと、本屋に寄って『赤毛のアン』でも買っていこうかな」
会長がぼそりとつぶやく。
「え、『赤毛のアン』ですか?」
聞き覚えのある書名に、俺が思わず聞き返すと、会長は俺を見ていたずらっぽく笑っていた。
「何だか君と話してると、小学生の頃を思い出すんだよ。何でだろうなあ」
「えっ?」
会長はもう歩き出していた。どういう意味だろうと俺が立ち尽くしていると、横から河上さんが「まあ、いつか君にも分かる日が来るよ」と声をかけてきて、俺たちは別れ、彼も会長の後に続いて去っていく。
結局、会長の言葉の意味は分からず、夕焼けの中でしばらく俺はそのままでいた。それから公園前の自販機でまたコーラを買って帰った。
そう、最大の敵は無関心である。
俺はこの日から、今までほとんどしてこなかった読書に毎日少しずつ取り組むことを決意した。
◇◇◇
デレク・ハートフィールドという名前に心当たりのある人は多いと聞く。
2日後。
この日、俺は朝早くから部室で一人勉強して過ごし、午後になって宮元さんと村神さんがやってきた。この人たちも非常に仲が良かった。最初に彼らを見た時、彼らの対照的な身長から凸凹コンビであるという印象を受けたのだが、実際彼らは凸凹コンビであると言ってよかった。背は俺より低いが気は強い宮元さんと、背は文学研究会で最も高いのに気が小さくて心優しい村神さんのコンビである。話を聞くと、二人は小学校時代からの友人らしく、小4の時に海水浴に出かけた海で溺れかけた村神さんを、泳ぎの上手かった宮元さんが助けたことがあり、村神さんは今でもその恩義を感じているのだという。それに宮元さんは一見厳しい人に見えるが、決して村神さんを嫌っているわけではないことは俺にも分かった。つまり二人はこの上なく仲の良い友人同士だった。
「……ふぅ。今日も暑いねえ」
椅子に座るなり、村神さんはズボンのポケットから白いハンカチを出して額の汗を拭う。綺麗好きな村神さんはいつも清潔なハンカチを携帯していた。一方、宮元さんは暑さに顔を歪めながら手で顔を扇ぎ、部屋の隅の本棚から2冊の本を出してきて片方を村神さんに渡した。嬉しそうに「ありがとう」と言って彼が受け取った本は『風の歌を聴け』。宮元さんの持っているのは『バスカヴィル家の犬』だ。
確かにその日は暑かった。その夏一番の暑さと言ってもいい。日なたに30分もいれば溶けきってしまいそうな、そんなうだるような暑さだ。室内は冷房が動いてはいたが、文化センターの利用規則により設定温度が28度となっているため、エアコンの恩恵はほとんど感じられなかった。
俺はこの日も相変わらず朝から問題集を開き、ページの空白を拙い数式の羅列で埋めていくというほとんど機械的な作業を続けていたのだが、14時を過ぎた辺りでぴたりとペンを動かす手が止まってしまった。
「うん? どうしたの」
ずっと黙って本を読んでいた村神さんが、そんな俺を見て心配になったのか声をかけてきた。俺は笑って答えた。
「ああ、いえ。ちょっと飽きが来ただけです。とにかく今はこれ以上書きたくないというか……」
「ああ、なるほど。そういうことってよくあるよねえ。そういう時はね、無理せず少し休んだほうがいいよ」
「……そうですね」
俺はうなずいて大人しく問題集を閉じ、椅子の背にもたれかかって深く息を吐いた。集中している時には気づかなかった、じわりとした暑さを感じる。
ただ何もしないというのも案外つらいものだった。
「……村神さん、何か良い本ありませんか」
「ん、読むのかい?」
「はい」
へええ、と意外そうな声を上げつつも、村神さんは立ち上がって本棚へと向かった。彼の隣で本を読んでいた宮元さんも「珍しいですね。古野君が本を読むとは」と、本から目を離すことなく淡々とつぶやく。俺の方が年下なのだが、彼はなぜか俺と話すときだけは敬語を使っていた。
「最近、本を読むようになったんです」
「ふーん……。心境の変化、ですか?」
「ええ、まあ」
そうですか、と宮元さんはニヤリと笑って何を思ってか本を閉じた。それからゆっくり村神さんの方を向く。
「なあ、村神。そこに『緋色の研究』があるだろう? 取ってくれよ」
本を探していた村神さんは、それを聞くと黙ってうなずき、長い足を綺麗にたたんでしゃがみこむと、本棚の最下段から目当ての本を引き抜いて持ってきてくれた。
「古野君。ぜひそれを読むといいですよ」
渡された文庫本の表紙をしげしげと見てみる。
「ええと、『緋色の研究』……。もしかして、これもシャーロック・ホームズですか」
「その通り。記念すべき最初の作品ですよ」
俺も小学生の頃、図書室にホームズの全集が並んでいたので存在自体は知っていたが、読んだことは一度もなかった。ミステリということで何となく敬遠していたのかもしれない。これをきっかけに読んでみようかと思いつつ本を開こうとすると、村神さんが「ちょっと待って」と大きな声を上げた。
「宮元君! 古野君をホームズファンにさせようったってそうはいかないよ!」
「ムッ。何言ってるんだ、村神。俺は別に……」
「いいや、間違いないっ。そうじゃなきゃ、わざわざ『緋色の研究』なんて読ませないはずだよ!」
珍しく村神さんが宮元さんに対抗していた。もともと身長の高い村神さんに気圧された宮元さんは、目をぱちくりさせていた。
「古野君っ! 僕はホームズより村上春樹作品をオススメするよ」
そう言って村神さんが俺に差し出してきたのは、さっきまで彼自身が読んでいた『風の歌を聴け』だった。
「村上春樹作品って難しいイメージがあるけど、これは彼のデビュー作で程よい長さだし、きっと読みやすいと思うよ!」
これに横槍を入れてきたのは宮元さんだった。
「村神っ。お前、自分だって村上春樹の宣伝してるだけじゃないか!」
「いや、それは……」
いつの間にか二人の間に激しい火花が散っていた。
自分の好きな物の価値を誰かに知ってもらいたい、認めてもらいたいという思いは誰にでもあるものだが、その物への思い入れが深ければ深いほど、その傾向は強くなるようだ。俺はこの二人の小説愛に感心しつつも、このままでは殴り合いの喧嘩に発展してしまうのではないかと思い、あわてて止めに入った。二人とも大量の汗を流していた。
「村神さん、宮元さん。俺、やっぱり今日はもう帰ります」
「えっ、どうして? ゆっくりしていってよ」
「俺がいると邪魔みたいですし、それにこの暑さじゃあ、読書には集中できそうもないですから」
「そう……」
俺は簡単に挨拶を済ませ、部室を後にした。ふと思い立って、帰る途中に書店に立ち寄り、随分迷った挙げ句に『風の歌を聴け』を買った。宮元さんには本当に申し訳ないと思うが、結局まだ一度もドイルの作品を読んだことはない。
その日のうちに『風の歌を聴け』を読み終えると、翌日俺は文化センターに行く前に、駅前の書店に寄った。中規模店だが、まだ朝早いということもあり、店内に客はまばらだ。俺はすぐにレジへと向かった。レジにいたのは、退屈そうな顔をした若い女性店員だけだった。
「あの、すみません。デレク・ハートフィールドという作家の作品を探しているのですが……」
「はい。少々お待ちください」
そう言って店員はあわてて奥へ引っ込んでしまった。まだ新人らしく、どことなく言葉がぎこちなかった。
5分ほど待ち、戻ってきた店員の顔は晴れなかった。
「申し訳ありません。デレク・ハートフィールドという作家の作品はございませんでした」
「えっ?」
どういうことだろう、と思った。
デレク・ハートフィールドというのは『風の歌を聴け』の主人公が「文章についての多くを学んだ」とされるアメリカの作家だ。作中に何度か登場し、その生き様にある種の感動を覚えた俺は、何としてもこの作家の作品を読みたいと思い、こうして朝早くから書店を訪れたのである。
しばらく粘ったが、結局、目当ての本は一冊も手に入らず、狐につままれた心地で俺はそのまま文化センターへと向かった。
この日来ていたのは芳田さんだけだった。長机の一番奥に座ってスマホをいじっていて、俺に気がつくと「よお」と片手を上げた。
「……おはようございます」
「何だ何だ? 浮かない顔だな、何かあったのか」
そう聞かれたので、俺は仕方なく本屋での出来事を洗いざらい話した。すると芳田さんの顔には途中から笑みが混じり出し、俺が話し終えると、堰を切ったように大きな声を出して彼は笑った。
「古野。そいつはしょうがないな」
「えっ、どういうことですか」
「デレク・ハートフィールドなんて存在しない。全部、創作だってことだよ」
からくりは実に単純だった。
ハートフィールドは、実際に存在した作家などではなく、架空の人物だったのだ。彼の人生と死にまつわるエピソードも、彼の著作にまつわるいくつかの挿話も全て虚構の存在なのである。そして、ハートフィールドを実在の人物だと勘違いして彼の本を求め、書店の従業員や図書館司書を困惑させる人が意外にも多いのだという。つまり俺もその一人だった。
あの店員には悪いことをした、と思いつつ俺はリュックから数学の問題集を取り出した。
その日の夕方。
芳田さんは先に帰り、俺も16時過ぎに活動を終え、部屋を施錠し、鍵を受付に返して文化センターを出た。すると、建物の裏から聞き覚えのある声がして俺はふと足を止めた。
誰の声かはすぐに分かった。芳田さんだ。ただ、30分以上前に帰ったはずの芳田さんがこんな所で何をしているのかと気になり、俺は茂みに隠れて様子をうかがうことにした。
「……おう。それでいい。いいか、遅れんなよ。あいつらと鉢合わせするわけにはいかねえからな」
スマホで誰かと電話をしているようだ。電話の相手が何か答えたらしく、芳田さんは笑って「よし」とだけ言い、通話を終えた。
芳田さんは鼻歌を歌いながら、夕暮れの雑踏へと消えた。
***
「日本よりずっと北の、冷たく暗い海に一頭のクジラがいた。クジラは群れから放り出され、たった一人で暗い海の中をさまよっていた。でも、クジラは寂しくなかった。彼女は歌うことが好きだったからだ。何日も何日も彼女は歌い続け、その明るくもどこか悲しげなメロディーは、海を渡っていく冒険家たちの心を響かせていた。
ある日、一人の少年が流れ着いた。聞くと、ずっと遠い南の海からやってきたのだという。<寂しくない?>とクジラは問うた。少年は黙ってうなずく。次の瞬間、クジラは彼を一口に飲み込んでしまった。
翌日。クジラは腹の中にいる少年にまた問うた。<寂しくない?>。……返事はない。その夜、クジラは大好きな歌を歌った。1週間後。<寂しくない?>。無音。また1週間後。<寂しくない?>。……無音。クジラは歌い続けた。1か月後、クジラは半ば諦めつつも静かに問うた。<寂しくない?>。しばし、沈黙。やがて少年の小さな声が返ってきた。<寂しくない。いつも楽しい歌声を聴かせてくれたからね>。途端、クジラは少年を吐き出した。見ると、少年はいつの間にか凛々しい顔つきの青年になっていた。その夜、彼はさらに北へと旅立った。北の果てに何があるのか、それを知るために南の海からずっと冒険を続けてきたのだという。<でも、そこには何もないかもしれないわ>。<でも、何かがあるかもしれない>。別れの際、彼はクジラの大きな腹を撫で、そして泳ぎ去っていった。
クジラはまた一人になった。ただその夜から、クジラは一際美しい声で歌い始めたのだという」
尾川会長は俺にたくさんの話をしてくれたのだが、その中でも俺は特にこのクジラの話が好きだった。
話の意味は、残念ながら今でも分からない。恐らく出町にも分からないだろう。それに、この話が会長の創作なのか、それとも誰かから伝え聞いた話なのかも分からない。
あの事件が起きる前日も、会長はこの話をそれこそ歌うように語ってくれた。そしてそれ以降、一度も聞いたことはない。
事件が起きたのは、8月13日だった。




