今度こそ彼にハッピーエンドを 2
以前投稿した短編の続編となります。そちらからお読みいただくことをおすすめ致します。
お姫様に会った瞬間、彼が落ちてしまったことに気が付いた。
私はもう決して届かないことを知った。
彼は、恋をした。
彼は歩き出した。
彼の心の中の特等席に美しい彼女を座らせて。
もっと、もっと。
彼女の力になれるように、彼は自分を磨いた。
私は立ち止まったまま。
彼の心の中の特等席に、いつか座れるんじゃないかと勘違いしていた時のまま。
足が砂に埋まってしまったみたいに、一歩も動けないまま。
笑いあうのを、遠くから見ていることしかできなかった。
頭ががんがんと重く響いて、くるしくてたまらなくて、園部 凜は目を覚ました。
息が上手くできなくて、少しでも空気が欲しくて、横を向いて体を丸めて激しく咳こんだ。
生理的な涙がにじんで、ちょっとずつ空気が沁みわたっていく。
やたらと大きく聞こえる心臓の音も段々と静かになっていく。
「……本当に、いつまでも弱いままだね。わたし。」
夏特有の、じりじりとした容赦のない日差しが足元に射している。
グラウンドから騒がしい声が響いている。
随分と長い間、寝てしまっていたようだと凜は考えて、さっきとは違う意味で頭が痛くなる感じがした。
さぼってしまった数学の授業を思うと自然と溜息が漏れでる。
「夏休み、補習で終わっちゃうかも。」
呟いてみて、決してあり得ない話ではないと思えば、こんな天気だというのに冷や汗が背中を流れる。
「……だって、分かんないもん。三角関数なんて。三角のくせにふにゃふにゃしてるし。」
きっと、今日も宿題が出ているだろう、と考えれば気分も憂鬱になるというもの。
もう、優には頼れないことを思えば、また、苦しくなる。
「あーあ、せっかく忘れてたのに。数学のばか…」
ぼんやりすれば、嫌でも思い出す光景。
凜よりも頭1つ分は高くなってしまった幼馴染の姿。相変わらず細身で、色素の薄い髪は夏仕様でいつもより少しだけ短く整えられていて。
その隣には頭半分だけ低い、すらりとした手足と真っ白な肌がまぶしい凜ではない少女。
現れた彼女を見た瞬間に、凜には分かった。
あぁ、彼女だ。
明るくきらめく笑顔に、誰にでも優しいお姫様。
『私』の一番大切な人の、特等席に座ることを許された人。
『わたし』の一番大切な人の、特等席に座ることが許されるはずの人だ、と。
凜が優のそばにいられる時間は終わりを告げたのだと、分かった。
橘 綾奈、と名乗った少女は、季節外れの転入生として梅雨の終わりにやってきた。
クラス中の男子が思わず見惚れるほどの、クラス中の女子が羨ましく思わずにはいられないほどの少女だった。
随分と長い間抱き続けた決意を、言葉にするチャンスが巡り来たのだと、凜は感じた。
彼女の出現によってざわついたホームルームは、夏休み明けにやってくる文化祭の実行委員を決める作業に移る。
立候補、なし。
凜のクラスにもお祭り騒ぎをする一団はいるけれど、委員という感じではないから想像の範囲内。
だから、簡単に推薦になるというわけで。
そうなれば穏やかで人望のある凜の幼馴染に白羽の矢が立つのは時間の問題。
いつもなら、幼馴染のよしみで自然ともう1人は凜になる。
「じゃあ、男子は優でー、女子はその」
「いいんちょー」
凜は自分の名前が呼ばれる前に、司会の言葉を遮る。
「女子は橘さんにお願いするのはどうかな?そろそろ夏休みに入っちゃうでしょ?委員会に入ればいろんな人とお話して仲良くなれるチャンスが増えるし、この学校に早くなじめると思うんだけど。」
優の顔はみれなかった。
チャイムが響いてくる。ガヤガヤ音が聞こえるから、授業が終わる鐘だろう。
そうすれば、お昼休みだ。
「おなか、空かないなぁ…」
凜は再びごろんとコンクリートに横たわる。
日蔭のコンクリートはひんやりと冷たい。
「次の授業は……現国かぁ」
遠くから、蝉の声が聞こえる。
足元から睡魔がそろり、そろりと忍び寄ってくる。
「あれ、ここ立ち入り禁止なのになんでいんの?」
睡魔が裸足で逃げだした。
「てか、女子なのにこんなとこで寝てるとかありえねー」
凜は重い瞼を持ち上げて、声のする方を見た。
逆光ではっきりしないが、優よりは大きくて、体格も良い。
「……立ち入り禁止なのになんでいるの?」
「いや、それさっき俺が聞いたんだけど。なんで屋上にいんの?」
どう考えても放っておいてはくれなそうな雰囲気に、凜が諦めた。
ゆっくりと立ち上がる。少しふらつく。
「扉の、横のガラスを開けてはいったの。」
「げっ、あの狭苦しいとこからよく入れたな。」
よく見てみれば、その人物は凜よりも頭2つ分足りないくらいの高い背丈で、優とは違ってワイシャツのボタンを3つは開けていて、全体的に制服を着崩していた。活発そうな印象を与える、イマドキの男子。顔も整っている方だから、女子が騒ぎそう。
つまり、厄介そう。
「いやいや、なんで無言で立ち去ろうとしてるわけ?」
ぱしり、と手をとられる。仕方なく凜は振り返った。
「俺、滝山 晴、二年生。おまえは?」
「……園部 凜。二年生。」
滝山の声が、ぼやけた頭に響いて凜はめまいがした。
こんなことになるなら数学でれば良かった、と後悔してももう遅い。
「おし、凜。おまえを探してたんだ。おまえ、歌え!」
めまいが、した。
「……つまり、文化祭のステージでバンドをしたいから、歌えってこと?」
「そうだ。」
「お断りします。」
「なんで。」
むしろ、なんでよ、と言いたいのを我慢して、凜は言う。
「そもそもなんでわたしなの?わたし、音痴なんだけど。」
「はぁ?」
心底不思議そうな顔をして晴が凜を見る。
「いや、嘘だろ?いつもここで歌ってるの、おまえだろ?立ち入り禁止のこんなとこ、わざわざ入ってくるヤツがそんなにいるわけないし、俺が聞いたのはおまえのその声だ。」
……間違えては、ない。
凜はただでさえ重い頭がより一層重くなったのを感じた。
歌は『私』と『わたし』の、唯一のとりえ。
大好きで、大嫌いな凜のとりえ。
歌いたくないから、音楽は選択していない。わざわざ平均やや下の成績しかとれない美術を選択している。
でも、歌いたくてたまらないから、立ち入り禁止の屋上にきて歌ってしまう。
「絶対、俺が聞いたのはおまえの声だった。」
おさまっていた頭の痛みがぶり返す。痛くて、痛くてどうしようもない。
足が揺れる感覚がして、凜の意識が浮かび上がってくる。
ゆらり、ゆらり。
「リン?!どうした?!」
聞き慣れた大好きな声が、焦りをまとって凜の鼓膜を叩く。
「滝山、リンどうしたの!」
薄眼を開けば、見慣れた幼馴染。
「なんか知らんけど倒れたからおぶってきた。何、早瀬の知り合い?」
凜は自分が滝山に背負われていることにようやく気が付いた。ぼんやりとした頭で、どうやら屋上で倒れたらしいことを理解した。
「リン、リン。大丈夫?」
背の高い滝山に負ぶわれた凜の顔を覗き込むようにして、優が呼びかける。
「ユウ…」
いくら距離を置くことを決めたとはいえ、こんな状況なら仕方ない。
「リン、今日朝学校着いてからなんかおかしかったよな?体調悪かったの?」
「んー。そーみたい。」
「なんで早くいわなかった?」
「んー」
「滝山。これ、僕の幼馴染。今日は連れて帰るから、かわって。」
優の腕が伸ばされる。『私』が欲しくてほしくてたまらなかった彼の腕。
でも、凜は知っている。
この腕は凜が占有していいものじゃなくて。
一番に優先されるのも凜ではなくなる。
この腕は。
そう、数歩下がって、こちらを心配そうに見ている彼女のもの。
「ユウ、わたし大丈夫だよ。このまま保健室まで送ってもらうから。」
凜は『私』と『わたし』が弱いことを知っている。
でも、どんなに弱くても、強がるくらいはきっとできるから。
痛みに怯えて、立ち止まるんじゃなくて。
今度こそ、彼の背中を押せる。
今度こそ、この恋心に背を向けて、進んでいける。
今度こそ、『わたし』は間違えない。
さようなら、わたしの大好きな人。